お江戸の水事情 上水

 

水屋の富

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桶を担いで、飲み水を売り歩く水屋・・・

 

 江戸の上水

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 開府以来、爆発的に人口が増えた 江戸の町は、もともと海岸に近い湿地を埋め立てた造成地が多かったため、井戸を掘っても塩分の強いが出るなどして、当初から飲料水の確保に悩まされていた。
 そこで1590年、井之頭池を源泉とする日本最初の上水、神田上水(当初の小石川上水から発展したもの)を、1654年には玉川から四谷の水門まで43キロメートルに達する玉川上水を開設。 当時のロンドン(30km)を凌ぐ世界最高と言える給水システムを作り上げた。 ポンプなどを使わず、高低差のみで水を運ぶしくみを「自然流下式」と呼ぶが、玉川上水は水源から水門まで43キロメートルもあるが高低差がわずか92メートルしかないことにも、その技術の高さがうかがえる。 以降、亀有、青山、三田、千川の四上水も開設されたが、この四上水は1722年に廃止された。

 

水が家庭に届くまで

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上水水門から引いた水は、地下に埋め込んだ石樋(せきひ)や木樋(もくひ)の水道を使って江戸の町に分配された。中央線の駅名である「水道橋」は、神田上水の水門から、神田川対岸に水を渡すための懸樋(かけひ)の名残である。大名(幕府の許可が必要)や商人など、大口の消費者には専用の呼び井戸へ水が送られたが、長屋へは、木樋からさらに細い竹樋(たけひ)を通して、共同の上水井戸に貯水された。

 

水屋と水船

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 「水道(すいど)の水で産湯を使い…」は江戸っ子自慢の台詞であったが、この水道が直接届かなかったのが、本所や深川など隅田川の対岸地域。ここに水を運んだのが「水屋」と「水船」である。上水の余り水は、江戸城のお堀に近い銭瓶橋(ぜにかめばし)付近から放出された。その水を、幕府の許可を得て水船で受け、日本橋川を通って隅田川の対岸まで運んだ。
この水を桶に汲み、天秤棒で担いで各家庭に売り歩いたのが、落語に登場した「水屋」という職業。一荷(いっか)(=二桶)で四文。かけそば一杯十六文の時代、責任が重いわりに利益は薄かった。

 

江戸上水の移り変わり

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江戸の町は火災(明暦の大火。俗に振袖火事)により大半を焼失してしまいます。このとき江戸城天守閣も焼け落ちてしまいました。
幕府は、この災害を契機として大幅な復興再開発を行い、江戸はさらに周辺部へ拡大発展します。
拡大した江戸周辺地域に給水するため、万治・寛文年間(1658~1672 年)に亀有(本所)上水、青山上水、三田上水が相次いで開設され、元禄9(1696)年には千川上水が開設されます。
亀有上水は中川を水源とし、他の3上水はいずれも玉川上水を分水して水源としました。亀有上水は本所・深川方面に、青山上水は麻布・六本木・飯倉方面に、三田上水は三田・芝方面に、千川上水は本郷・浅草方面にそれぞれ給水されました。このように、元禄から享保にかけて6系統の上水が江戸の町を潤していました。
ところが、8代将軍吉宗の時代の享保7(1722)年に亀有・青山・三田・千川の4上水が突然廃止されてしまいます。これは当時の儒官、室鳩巣(むろきゅうそう)の「江戸の大火は地脈を分
断する水道が原因であり、したがって上水は、やむを得ない所を除き廃止すべきである」
という提言が採用されたものであるといわれています。

また、上水を廃止しても、堀削技術の向上によって堀井戸から清浄な水が得られるようになったことや、水道維持の困難性なども理由の一つに挙げられていますが、幕府直轄領である武蔵野の新田の田用水への配慮から、4上水を廃止したのではないかという説も今日では有力となっています。
こうして江戸時代の後半は、神田上水と玉川上水が100万都市江戸の人々の暮らしの基盤となり、この2上水が江戸から明治へと流れ続けていきます。

 

うちぬき

人力により鉄棒を地面に打ち込み、その中へくり抜いた竹を入れ、自噴する水(地下水)を確保しました。この工法は、江戸時代の中頃から昭和20年頃まで受け継がれてきました。「うちぬき」の名の由来です。

https://www.city.saijo.ehime.jp/site/mizunorekishikan/uchinukiis.html

https://idohori.nagoya/fukaido-asaido-chigai/

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文明開化と江戸上水

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明治維新を経て、東京は近代国家日本の首都として新たに歩み始めました。
文明開化のかけ声とともに、欧米の諸都市を目標とした街づくりが行われました。新橋・横浜間に鉄道が開通し(明治5(1872)年)、銀座には煉瓦街が誕生して(明治6(1873)年)ガス灯が輝く(明治7(1874)年)など、東京の風景は急激に変化していきます。
しかし、地下を流れる水道は依然として江戸時代の神田・玉川上水のままでした。当時は浄水処理がほどこされていない河川水そのものが地下に埋設された石せき樋ひ・木もく樋ひによって市内の上水井戸に配水されていたのです。
しかも、維新後の混乱で水道を所管する組織が変転し、上水の管理が一時おろそかになってしまいました。玉川上水路に通船を許可したり(明治3(1870)年~5(1872)年)、水道料金の徴収も行われないという時期(明治7(1874)年まで)もありました。
十分な補修も行われない木樋は腐朽し、水質は悪化しました。また、上水は自然流下で圧力がないため、火災の消火に威力を発揮することはできませんでした。
このため、上水の改良、特に鉄管による有圧水道の創設が求められるようになりました。
明治7(1874)年、政府は上水の改良の検討を始め、内務省土木寮雇ファン・ドールンに改良意見書や改良設計書を提出させます。
一方、東京府も明治9(1876)年、東京府水道改正委員を設置して、上水改良の方法や費用を調査し、明治 10(1877)年に「府下水道開設之概略」としてまとめ、明治 13(1880)年には「東京府水道改正設計書」も作成しました。
ファン・ドールンや東京府水道改正委員の設計は、いずれも原水を沈殿、ろ過して鉄管で圧送するというもので、東京近代水道の原形がここにようやく示されたことになります。
しかし、近代水道の創設には巨額の費用を必要とし、また道路整備など都市計画全体との調整を図ることが必要なため、さらに検討を加えていくこととなりました。
東京府は、近代水道創設の検討を進める一方、既存の木樋、上水路の補修を行い、水源汚染の取締りを強化するなどして、飲料水の安全確保に腐心していました。
こうしたなかで明治 19(1886)年、コレラの猛威が東京を襲いました。それまでにもしばしばコレラの流行はありましたが、この年は死者が1万人近くにも及ぶという事態で、加えて水源である多摩川沿岸でコレラの汚物流出騒ぎも起こり、上水の信頼は大きく揺らぎます。

このことが近代水道創設促進に拍車をかけることとなりました

 

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東京都水道歴史館

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お江戸の科学

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