「お笑いスター誕生」は1981年7月から総当たり戦の「第2回ゴールデンルーキー賞」のシリーズに突入した。その直前、グランプリシリーズのひとまず最後となる6月27日放送分においては、小柳トムが再々チャレンジで念願の10週勝ち抜きグランプリに輝いた。それまでのグランプリ獲得者はB&B、おぼん・こぼん、ギャグ・シンセサイザー、九十九一、大木こだま・ひかりだが、このうちギャグ・シンセサイザーは後に剥奪、大木こだま・ひかりは失格となっている。小柳トムは警官に扮した一人コントを得意としていたが、後にバブルガム・ブラーズのブラザー・トムになり、「WON'T BE LONG」で「NHK紅白歌合戦」に出演するなどする。「第2回ゴールデンルーキー賞」には、アゴ&キンゾー、コロッケ、とんねるず、青芝金太・紋太、マギー司郎、シティボーイズ、ミスター梅介、海原さおり・しおり、横山たかし・ひろし、酒井くにお・とおるが参戦し、最終的にはアゴ&キンゾーが優勝した。
それはそうとして、この年の夏の「ザ・ベストテン」にはどのような曲がランクインしていたのか資料を参照してみると、松山千春「長い夜」、近藤真彦「ブルージーンズ・メモリー」、松田聖子「白いパラソル」が1位だったことが分かる。この年といえば寺尾聰のシングル「ルビーの指環」やこの曲などを収録したアルバム「リフレクションズ」、大滝詠一の「A LONG VACATION」がヒットしたことも印象深い。全米シングル・チャートでは、キム・カーンズ「ベティ・デイヴィスの瞳」、エア・サプライ「シーサイド・ラブ」、リック・スプリングフィールド「ジェシーズ・ガール」、そして、8月の途中からはダイアナ・ロス&ライオネル・リッチー「エンドレス・ラヴ」が秋にかけて長きにわたり1位に輝いたのであった。
「オレたちひょうきん族」の放送が5月16日からはじまり、人気コーナー「TAKECHAN-MAN」の主役はもちろんビートたけしである。この年の元旦から(初回の放送は録音だったが)「ビートたけしのオールナイトニッポン」がはじまっていて、絶大な人気を獲得していた。この番組の内容をまとめた「ビートたけしの三国一の幸せ者」はたちまちベストセラーとなり、旭川の書店ではしばらく買えない状態が続いていた。漫才ブームは1980年にはじまるのだが、この年の時点ではポップでキャッチーなB&B、ザ・ぼんちの人気がひじょうに高く、毒舌や差別ネタなどを得意としたツービートはそれに比べるとやや下回っていた。1981年の元旦にリリースされたザ・ぼんちのデビューシングル「恋のぼんちシート」はオリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録するのだが、それから漫才ブームは少しずつ下火になっていき、この中で誰が生き残るのかというようなことが話題になるようになっていった。ビートたけしは雑誌「BOMB」の連載で、漫才ブームが終わった後も残るのは自分と島田紳助だと言っていたような気がする。
たのきんトリオから田原俊彦に続き近藤真彦がレコードデビューし、たちまちヒットを連発する。松田聖子、田原俊彦、近藤真彦が新曲を出す度に上位にランクインし、河合奈保子もトップ10に入るようになっていた。この年の夏には「スマイル・フォー・ミー」がヒットしていた。シャネルズは謹慎期間を経てリリースした久々のシングル「街角トワイライト」が大ヒットし、見事に復活を果たした。不良少年のことをヤンキーではなくツッパリと当時は呼んでいたような気がするのだが、この辺りのカルチャーが若者の間では流行っていて、校内暴力が社会問題化したり暴走族の写真集が売れたりもしていた。田中康夫の「なんとなく、クリスタル」が出版され、ベストセラーになったのもこの年だが、そういったブランド志向的な意識が浸透していった一方で、ツッパリ文化が広がってもいたのであった。
この前の年、原宿の歩行者天国で竹の子族と呼ばれる人達がラジカセで音楽を流しながら派手な服装で踊るというムーヴメントが話題になっていた。ブロンディ「コール・ミー」などのディスコ・ヒットからYMO「ライディーン」、田原俊彦「哀愁でいと」など、そこでは実にエクレクティックな選曲がなされていたということである。この原宿の歩行者天国で踊っている団体として竹の子族の他にローラー族といって、リーゼントに革ジャンといったロックンロールスタイルの人達がいるという話もあったのだが、実は竹の子族を誘ったのがロックンロール族だといわれていたりもする。
いずれにせよ、50年代のロックンロール、あるいはロカビリーのリバイバルのようなものが、ツッパリ文化とマッチするところもありながら、都市や地方で流行っていたように思われる。原宿のブティック、クリームソーダの店員によるロカビリーバンド、ブラック・キャッツや海外のストレイ・キャッツなどによるロカビリーリバイバルというのがあり、沢田研二などはこれを「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」で引用したりもするのだが、一方でツッパリ文化を分かりやすく体現したT.C.R.横浜銀蠅R.S.が「ツッパリHigh School Rock'n Roll(登校編)」でブレイクし、その後もヒット曲を連発していった。とはいえ、私が通っていた中学校でも本格的なツッパリはT.C.R.横浜銀蠅R.S.などではなく、矢沢永吉やクールスなどを聴いていたような気がする。北海道の中学校には野外でジンギスカンなどを調理する炊事遠足というイベントなどがあったのだが、その時の記念写真などを見ると、ツッパリ的なルックスの男子達が「E.YAZAWA」とプリントされたタオルを広げて写っていたりした。当時の矢沢永吉は夏にヒットしていた「抱かれたい、もう一度」などのようなAOR的な音楽をやっていたにもかかわらずである。
佐野元春が初期の代表曲「SOMEDAY」をシングルでリリースしたのが1981年6月21日なのだが、オリコン週間シングルランキングにはランクインしていなかったようだ。ラジオでCMスポットが流れていたような気もするので、レコード会社は力を入れていたと思われる。私はNHK-FMの「軽音楽をあなたに」で佐野元春の「ガラスのジェネレーション」「NIGHT LIFE」「君を探してる(朝が来るまで)」を聴いてすぐに気に入り、それらを収録したアルバムをミュージックショップ国原で買って、文字通り擦り切れるまで聴きまくったのであった。それでも、いずれアルバムに収録されたら買おうと、「SOMEDAY」のシングルは買っていなかった。
などということを書いているのだが、この年の夏休みの個人的な思い出というのがほとんど思いつかない。高校受験を翌年に控えているということで、あまり遊んでいなかったのだろうか。サザンオールスターズのアルバム「ステレオ太陽族」がリリースされたのが、7月21日である。当時、オリコン週間シングルランキングで6週連続1位だったというのだから、相当なものである。しかし、シングルのヒットからは長らく遠ざかっていて、一般大衆的にはほとんど目立っていなかったのではないかと思われる。先行シングルの「Big Star Blues (ビッグスターの悲劇)」はジョン・レノンの暗殺に言及したり、歌詞の内容によって放送禁止されたことに対する嘆きが含まれていたりと、けしてキャッチーとはいえない。しかも、英語を装えば放送禁止にできないだろうとばかりに、「oh, man go」なるフレーズを歌詞に入れたりもしている。結果、オリコン週間シングルランキングでの最高位は49位止まりであった。それでも、アルバムは6週連続1位ということで、サザンオールスターズはデビュー当時のポップスター的でもある立ち位置を捨て、このままアルバムアーティスト的な存在になるのだろうという気がなんとなくしていた。それは翌年の「チャコの海岸物語」で良い方に裏切られることになるのだが。
あと、クインシー・ジョーンズの「愛のコリーダ」が全米シングル・チャートでもそれほどではなかったのだが、なぜか日本でやたらと売れていた記憶がある。大島渚監督の映画からタイトルを取っているということで、日本人に親しみやすかったというところはあったのかもしれないが、それだけで売れるほど甘くはないだろう。
それから松任谷由実の「守ってあげたい」が大ヒットしたのだが、これは70年代の活躍を知らない新しい世代に向けた楽曲だったとも思われる。同じ頃、松任谷由実が荒井由実だった頃に三木聖子に提供した「まちぶせ」を石川ひとみがカバーしてヒットするということもあった。石川ひとみは1978年にシングル「右向け右」でデビューして、そのフォトジェニックなルックスからグラビアなどで活躍したり、人形劇「プリンプリン物語」の声優や「クイズ・ドレミファドン!」の司会などで活躍していた。しかし、曲がなかなかヒットしなかった。デビューした70年代後半というのはニューミュージック全盛の時代で、フレッシュアイドルにとっては受難であった。それが、この「まちぶせ」でついにヒットを記録して、歌番組では青春ドラマ風のわざとらしい演技などを披露したりもしていた。
そして、この夏にブレイクしたアーティストに、石川ひとみと同じ名字の石川優子がいた。ヤマハのポプコンことポピュラーソングコンテスト出身で、いわゆるニューミュージックのアーティストとして1979年にデビューした。先ほど、70年代後半はニューミュージック全盛でフレッシュアイドルにとっては受難の時代ということについて少しふれたのだが、一方でルックスの良いニューミュージックのアーティストが新人アイドルがやつようなグラビア仕事の起用されるようなこともあった。やはりニューミュージックのアーティストとしてデビューした竹内まりやが芸能人の運動会のようなものに出場させられ、それを不満に感じていたというエピソードなどもこういった状況を背景にしていたと思われる。石川優子もグラビアの仕事をやったりしていたと思う。
大阪のラジオ番組「MBSヤングタウン」にも木曜日のレギュラーとして、笑福亭鶴光や角淳一と一緒に出演していた。7作目のシングルにあたる「シンデレラ・サマー」は日本航空のCMに使われたことも影響し、オリコン週間シングルランキングで最高10位のヒットを記録した。「ザ・ベストテン」にもランクインしたが、木曜日にはラジオの生放送があったため、MBSから中継で出演したりもしていた。
というようなことはいろいろ思い出せるのだが、個人的な出来事の記憶がまったく浮かんでこない。まったく何もしていなかったわけではなかったと思うのだが、なかなか謎である。というわけで、最後にこの年の夏のヒットソングをApple Musicのカタログにあった曲だけで作成してみたので、なんとなく当時の雰囲気が再現できているような気もする。