大人の社会科見学 信仰の世界を訪ねて(後編) | 八ヶ岳ゆるふわ日記

八ヶ岳ゆるふわ日記

八ヶ岳南麓大泉と東京を行ったり来たりの毎日。日々のよしなしごとを綴ります。

(日本基督教団八ヶ岳教会)

 

 宗教とは何だろう。

 私の定義では、

「絶対の教義があり、その中で『死後の世界=魂の不滅』を謳っているもの」である。

 死後の世界が存在することを明示することで死の不安をやわらげるとともに現世での生き方を律する、それが宗教の本旨だろう。

 

 そう考えると神道は「宗教」とはいえないように思うし、また我が日本国憲法は「不磨の大典=改正許しません」という点では宗教色が強いが、残念ながら現世のことしか記述していないのでやはり宗教ではない。

 

 私の場合信仰の世界、宗教の世界に関心はあるものの、それはあくまで「どうなってんだ」という好奇心であって入信する、帰依するということは金輪際ありえない。

 

ゆるふわ問答1

 地球人口は2022年に80億人を突破したが、イエスキリストが生まれた頃はわずか2億人だった。この2000年で「魂」はどうやって増えたのか。分裂増殖したのか、それともこの世にはおびただしい「魂」が存在していて出番を待っているのか。

 

ゆるふわ問答2

 138億年前のビッグバン以前、つまり宇宙がない時にも「魂」はあったのか。以降宇宙は今でも加速度的に膨張を続けているが、イマイマ宇宙の果てにも「魂」はいるのか。

 

 この二つの問いかけになるほど、と思える答がない限り、宗教は私にとってどこまでも好奇心の対象でしかありえない。

 

 そんな俗物中の俗物がAさんの案内で向かった先は「日本基督教団八ヶ岳教会」。

 牧師の山本さんがここ八ヶ岳南麓の地で徒手空拳で伝道活動を始めたのが30年前のこと。当初からの伝道所は2021年に至って教会に認定されたという。

 調べてみると「牧師」とはプロテスタントの司祭の敬称で、カトリックでは神父という。

 してみるとシャトーディフの牢獄で若きエドモンダンテスを救ったファリア神父はカトリックだったわけだ。

 タララッタッタターン、ゆるふわの経験値があがった!

 

(山本牧師 大学でインド哲学を学びその後キリスト教に入信した 私と同い年とは思えないほど若々しい 八ヶ岳教会HPより)

 

 信者の皆さんが自力で建てた教会はおよそ40席ほどのこじんまりしたもので、礼拝所には祭壇めいたものもなく、ステンドグラスのような装飾もなくて地味ではあるが清冽な気が支配していた。

 

(室内に十字架はなく説教壇の背後に屋外の十字架がみえるという粋なデザイン)

 

 入り口で聖書と讃美歌集を渡された。

 これまで新約聖書=プロテスタント、旧約聖書=カトリックと思っていたが、どうやらそういうことではないらしい。

 タララッタッタターン、ゆるふわの経験値があがった!

「知ったかぶりの呪文」がつかえるようになった!

 

 中でご近所のBさんご夫妻とばったり。

「あ、こんにちは」

「あら~、見てはいけないものを見た、いえ、びっくりしたわ」

「信仰心はゼロですがAさんに連れてきてもらいました」

「鰯の頭も信心から、ってね(←ホントはこんなこと言ってない)」

 

 讃美歌斉唱(これははっきり言って退屈)の後山本牧師の説教が始まった。

 教会の説教というと私が思い浮かべるのは「ブルースブラザース」でジェームスブラウン演じる牧師の「唄って踊る説教」だが、それに比べると山本牧師の説教はちょっとばかり地味だ(当たり前だ)。

 

(これだ!「the Blues Brothers」1980米 40年経った今も「無人島に持っていきたい映画」のトップに君臨している)

 

 この日の牧師の説教は「創世記」と「ルカによる福音書」から(ウロ覚え)。

 

 イエスの処刑後、挫折して教団を離れた二人の弟子が故郷で旅人と出くわした。何故だか自分たちも分からないままに、二人は旅人に家に泊まるよう懇願した。

 やがて二人は旅人が復活したイエスキリストであることに気づいた。ところがそれが分かった瞬間にイエスの姿は見えなくなってしまった。

 

 ソドムの町が滅びる前夜のこと。

 旅人がロトの家に泊まったが、その夜ソドムの住民が旅人を殺害すべく集まって来た。命がけで旅人を守ったロトに旅人は告げた。

「堕落したソドムの町は神の意志で破壊される。その時あなたは家族を連れて逃げなさい。ただし逃げる途中で絶対に振り返ってはならない

 ロトは神の使徒である旅人の言葉に従って救われたが、その妻は途中で振り返ってしまったものだから、塩の柱と化してしまった。

 

 山本牧師が一言一言かみしめるよう説くところでは、

「何事にせよ人はとかく知りたい、知ろうとしすぎる。そして知らないこと、分からないことはそんなものは存在しない、あるいは価値がないことにしたがる」由。

 知りたがり、あるいは不安にかられて身を滅ぼしたロトの妻のエピソードはギリシャ神話のオルフェウスや黄泉平坂のイザナギ、イザナミの話にも相通じる人間の持つ普遍的な弱さだというのだ。

 

 私はギョッとした。

 やたらと知りたがり、自分が理解できないものは無価値だと決めつけるというのはまさに私のことではないか。

 う~む。

 信仰、とは依然かけ離れているが礼拝の時間と空間は思っていた以上に心穏やかな気分になれるものだった。心のデトックス、そんな感じである。

 

 説教の後はお布施というのか、寄付金を入れる袋が回って来た。

 誰がいくら入れたのか分からないようになっているところが、仰々しく「〇〇様〇〇万円」なんて壁に貼りつけたりするお寺とはエラく違う。

 木戸銭ではないが、私もホンの少し喜捨させていただいた。

 

 余計なお世話だが、山本牧師の暮らしは大丈夫なのだろうか。

 HPによると信者数は50人程度、礼拝には平均25人が訪れるとして一人1000円払ったとしても月の収入は10万円程度。

 採算、なんて考えたらやれる商売ではない。

 ちなみに寺院の業界誌「月刊住職」によると、お寺の採算ラインは檀家300家だそうだ。

 

 教会を後にした私たちはスパイスの殿堂「mountain*mountain」へ。

 

(ここもなんとも居心地のよい空間)

 

 心のデトックスの後は胃腸のデトックス。

 日々是好日、そんな一日であった。

 

 

(本日のデトックスはグリーンカレーで)