1964年東京オリンピックの記憶 | 八ヶ岳ゆるふわ日記

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八ヶ岳南麓大泉と東京を行ったり来たりの毎日。日々のよしなしごとを綴ります。

(卓球混合ダブルス優勝の瞬間 水谷の抱擁を嫌がる美誠 この時美誠から男神が離れていった)

 

 コロナ禍と猛暑の中の東京オリンピック。

 金メダル17(史上最多)、銀5、銅9(8月1日現在)と、日本選手団が大活躍だ。

 そんな選手たちの中でも一番印象深いのが伊藤美誠・水谷隼ペアの卓球混合ダブルスである。

 

 準々決勝ドイツ戦。

 10-6とドイツに絶体絶命のマッチポイントを握られた瞬間、テレビ画面の中の美誠に何かが起こったのが分かった。美誠は突如として神がかりになったのである。

 その途端様相は一変した。

 毘沙門天の化身と化した美誠がピシピシ決める。それにつられて子分の水谷(子分でしょ、やっぱり)まで、「商売ハンジョで笹もってこい!」とばかり(それは恵比寿さんだっての)お調子に乗って実力以上の力を発揮し始めたから敵もたまらない。

 美誠のトランス状態はそれから決勝の中国戦まで続いていた。おそらく優勝後に水谷がスリスリしなければ美誠(+毘沙門天)は個人戦も優勝していただろう。

 

 そういえば2011ワールドカップ女子サッカー決勝、なでしこジャパン対米国戦も同じような感じだった。

 過去の対戦成績17勝1分けと圧倒的な強さを誇った米国の放つシュートはことごとくゴールを外れ、なかなか日本を突き放せない。その後はご存知のとおり終了直前に二度追いついたなでしこがついにPK戦で勝利したわけだが、当時の米国GKホープ・ソロは試合後に出演したTVでこう語っていた。

 「大震災を乗り越えてきた日本チームには何か見えない力が働いているのが分かった」と。

 

 そんな素晴らしい記憶を残してくれた今回の東京オリンピック(やってよかったね)だが、1964年の大会ではどんな思い出が残っているだろうか。

 東洋の魔女、三宅兄弟・・・。私の場合はマラソンの円谷幸吉さんである。

 

 国立競技場に入ってからヒートリーに抜かれ、3位となった円谷。

 当時小学校1年生だった私の目に抜かれる瞬間の円谷の苦悶の表情が鮮烈に焼きついた。

 

 

(ゴールまであとわずか 「魔王」のように後ろからヒタヒタとヒートリーが迫ってくる)

 

 その後度重なる不運もあって彼の調子は上がらず、1968年1月、メキシコ五輪を目前に円谷は自殺した。そして彼が残した遺書によって、円谷の記憶は私の中で永遠のものとなったのである。

 

 父上様、母上様、三日トロロ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。

 敏雄兄、姉上様、おすし美味しうございました。

 勝美兄、姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しうございました。

 巌兄、姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しうございました。

 喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。

 幸造兄、姉上様、往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。

 (中略)

 父上様、母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。

 幸吉は父上母上様の側で暮らしとうございました

 

 戦後20年足らず、なにごとも今とは比べものにならないほど乱暴だった時代である。円谷もさまざまな

プレッシャーに追い詰められていったのだろう。 

 

 円谷の非業の死から50年あまり。

 いまや我が国もすっかりショボくれて「日、没する国」に成り下がったわけだが、存外国民はその方が幸せなのかもしれない。

 

(1964東京五輪マラソン表彰式)

左:ヒートリー(2019没享年85) 東京五輪後日本をしばしば訪れ、円谷の墓にも詣でたという

中:アベベ(1973没享年41)「裸足の王者」としてローマ、東京連覇 メキシコ五輪後事故で半身不随に

右:円谷幸吉(1968没享年27)