(師匠の杉本7段があつらえてくれた羽織袴で対局する藤井棋聖)
将棋の藤井聡太棋聖が王位戦で4連勝、見事王位を奪取して弱冠18歳1か月にして二冠に輝いた。
将棋界の最年少二冠記録は羽生善治元七冠の21歳11か月(棋王と王座を獲得)だったが、藤井新王位はこの記録を28年ぶりに更新した。
また将棋連盟の内規に基づき藤井二冠は8段に昇段することが決まった。こちらは「神武以来の天才」加藤一二三元名人の18歳3か月での昇段をなんと62年ぶりに更新することになった。
高校3年生で斯界のトップになるというのは偉業である。
アスリート系統の競技では伸び盛りに一気に開花することもままあるが(例えば卓球の張本君とか、かつての高梨沙羅ちゃんとか)、それなりの経験と知識の蓄積が必要な将棋では至難の業である。
その凄さは自分の高校3年生当時と比較してみればすぐ分かる。今から45年前の夏、高校3年生だった私は何をしていたのだろうか。
1975年、戦後の一大潮流であった左翼活動は70年安保をピークに一気にしぼんでいき、それを象徴するように巷に「いちご白書をもう一度」が流れる中、この年昭和天皇が初めて米国を訪問した。名実ともに「戦後」は終わったのである。
一方長嶋新監督率いる我が読売ジャイアンツは開幕から来る日も来る日も負け続け、夏の時点では球団史上初の最下位がほぼ確定というていたらくであった。
(昭和天皇の口癖「あ、そう」というのがフォード大統領の耳には「 ass hole 」と聞こえ、笑いをこらえるのに必死だったという)
そんなモヤモヤした年の私の最大の関心事は半年後に迫る大学受験であった。
藤井二冠のような才能も、そしてかけら程の熱意もない私は「とにかく日本で一番ラクな仕事に就きたい」、と心から願っていて、それがどのような仕事かは全く分からないもののとりあえずは大学に行かないとツブシも効くまいとそればかりを考えていた。
とはいえ努力することが何より嫌いというこの男、ひと夏かけて志望大学の過去20年にわたる出題傾向を調べたのである(「勉強スケジュール表」なんかと同じで一種の現実逃避である)。
例えば、積分は過去20年一度も出題されていないから勉強しても無駄、とか、生物の一次試験(択一式)は何故か他の教科に比べて解答が「3」に偏っている、とか。それを級友たちに伝授しては悦に入っていた。
出題傾向の分析に飽きると午後から高校のプールへ。プールサイドで将棋を指したり、人数が揃えばモノポリーをやったり「大貧民」をやったり。
「灰色だね」
「そう、灰色。いや、ドドメ色かもな。俺たちの青春はドドメ色」
これが口癖であった。
その頃ヒットしていたのが、KC & the Sunshine Band の 「That's the way」 である。
Oh, that's the way, uh-huh, uh-huh, I like it,
Oh, that's the way, uh-huh, uh-huh, I like it,
っていうヤツ。オハイオプレイヤーズだとかクール&ザギャングだとか、ディスコミュージックが全盛を迎えつつあった時期である。
(なんか装丁も衣装も昭和っつう感じだわな)
自意識だけは過剰ながら経験は皆無というドドメ色の青年たちは、「これは一番受験が終わったらディスコというものにも行かねばならない」と、眦を決して誓い合うのであった。
派手派手な衣装を着てディスコへ。そんな光景を思い浮かべた面々に沈黙が訪れる。
私「あのさ、最近デブってきたからさ、俺はエルビスプレスリーみたいな感じかもな」
A「俺は去年から身長が伸びてないから、このままだとエルトンジョンみたいになるかも」
B「そんなのまだいいよ。僕は最近毛が薄くなってきたからね。ユルブリンナーの『王様と私』だよ」
(自意識という魔物が生みだしたそれぞれの心象風景 エルビスは翌々年の1977年に死んだ)
う~む。
私は素早く分析してその結論を厳かに伝えた。
「この中で一番悲惨なのはオレだな。お前たちはさ、ヅラやトップシューズで誤魔化せるじゃん」
そんな私を一瞥した友の視線が冷たい。
「お前は少し努力してさ、痩せればいいんだよ」
一同は蝉しぐれの中ギコギコと自転車を漕いでそれぞれのドドメ色の世界に戻っていくのであった。
現実はドドメ色、未来は何一つ見渡せない鉛色。そんな高校3年生の夏であった。