愛犬の散歩コースから少し離れた所に「白旗神社」という、ちょっと変わった神社がある。場所はレインボーライン沿いの「モコカフェ」の近く。
朝早くに目が覚めたので散歩がてら白旗神社に参拝することにした。そらを誘ったが散歩を拒否されたのでトホホ感の強い単独行となった。とほほ。
「洋菓子 Marron 」の近く、ドイツハウス堀内組のモデルルームのところから舗装道路を北上する。
(大泉スタンダードそのものの建物が美しい)
北に向かって歩くこと10分、やがて白旗神社の鳥居前に着いた。実はこの神社、神社らしさを漂わせているのはこの鳥居だけで、参道(?)は草深い細道だ。
(北に向かって参道が伸びている)
(清涼といえば清涼、怪しげといえば怪しげな参道)
(なにやら見えてきた)
やがて姿を現したのは祠、磐座と二基のケルン。これが白旗神社の全貌である。
説明書きによれば、神社は奈良期に建立されたものだが12世紀に甲斐源氏の棟梁逸見四郎有義が源氏の旌旗である白旗をこの地に埋めたことから、以来「白旗神社」と呼ばれるようになったとのこと。
御祭神は、
タケミカヅチ(建御雷 鹿島神宮ご祭神)
ウカノミタマ(伏見稲荷ご祭神)
アメノウズメ(天岩戸で踊った女神 猿田彦の奥さん)
という豪華なメンバーである。
苔むした二基のケルンから神社の神々しさというよりももっと重たいもの、例えば供養塔を想起するのは私だけではあるまい。
(高野山の武田信玄公、勝頼公供養塔 形も雰囲気もよく似ている)
ふ~む、何とも奇妙だ。
甲斐源氏の棟梁逸見有義は何故己が旌旗を地中に埋めねばならなかったのか。
調べてみると様々な事実が浮かび上がった。
① 逸見氏は、大治5年(西暦1130年)甲斐源氏の祖武田義清(新羅三郎義光の子)・清光親子が常陸
国那珂郡武田郷を追われ北杜市逸見郷に土着した際に逸見姓を名乗ったことに始まる。
鎌倉初期の当主逸見有義は源頼朝の死後に起きた有力御家人の政争に巻き込まれ、「有義は征夷
大将軍の座を狙っている」との弟信光の讒言により正治2年(西暦1200年)居城谷戸城から逐電、その
後の行方は杳として知れない。これ以降武田姓に復姓した信光の系統が武田勝頼公に至るまで累代
武田宗家を継ぐこととなった。
② タケミカヅチは鹿島神宮の御祭神である。
タケミカヅチは八ヶ岳南麓に勢力をはる諏訪大社の御祭神タケミナカタ(建名方)を国譲りの力較べ
(=相撲の原型といわれている)で負かし、諏訪まで逃げたタケミナカタに以降諏訪一円から一歩も出
ないことを誓約させたことで知られている。
(ナマズを抑え込むタケミカヅチ)
諏訪大社はその後武田家の守り神となり、武田本陣には「風林火山」とともに「諏訪法性」の旌旗を立
てるのが定法となった。ちなみに諏訪大社を勧請した逸見神社の御祭神はタケミナカタである。
この二つの事実に基づき、ゆるふわ博士は以下の仮説を唱えている。
・ 谷戸城を脱出した有義は、レインボーラインからまきば公園方面へと逃亡する途中、直線距離にして
2キロ離れた現白旗神社付近で自害した。
・ その際自分を破滅に追いやった弟とその味方についた諏訪勢への恨みから、甲斐源氏正統の守り
神である常陸国一宮鹿島神宮のタケミカヅチをタケミナカタが支配するこの地に勧請するよう遺言を残
した。
諏訪勢が有義に敵対したことは、彼が小淵沢方面でなく山深いまきば公園方面へと逃亡したことから
うかがえる(須玉方面は若神子城に拠る信光の勢力下にあった)。
・ ウタノミタマは江戸後期に関東に広まった稲荷信仰の影響を受けた土地の有力者が勧請したものと
思われる。
またアメノウズメを御祭神とする例は全国的に少ないが、これも江戸後期に猿田彦信仰が関東に広
まった際(おそらくお伊勢参りの影響である)、その縁でアメノウズメも持ち込まれたものと考えられる。
・ なお白旗神社は南面しており、この事実から鹿島神宮(北面)、伏見稲荷(西面)の影響を受ける前か
らこの地に何らかの祠・神社があったことは間違いない。
こうしてタケミナカタの支配する八ヶ岳南麓に密かにタケミカヅチの魂が吹き込まれた結果、有義の死後340年を経た天文11年(1542)、仇敵諏訪家は武田信玄によって滅ぼされた。
さらにそれから40年の後、勝頼の死によって武田信光の血筋も途絶え、有義の宿願はついに成就したのである。
思わぬヘビーな散歩となったが、百聞は一見に如かず、どのような気を感じるか、洋菓子 Marron で
お菓子を買ったついで、あるいはモコカフェでランチのついでに足を運んでみてはどうでしょう。
(レインボーラインに看板が)