日にち ありがとうございます。

先月は、婦人部さん中心に水子供養式典が行われ、親子、ご夫婦の真心からの奉献や、女子部、婦人部さん、お役の皆さんが繋がり合いお役を担ってくださり、手作りの奉膳を届けてくださいました。東京家庭教育研究所の講師さんからオンラインで家庭教育を学ばれている婦人部さんの気づきの発表や、教務部長さんの「わたしがあなたを選びました」(鮫島浩二著)の絵本の朗読から、尊い命を頂いた私たちは、自ら両親を選んで生まれてきたこと、人間として命を授かる奇跡を学ばせて頂きました。水子供養のご縁を通して、心を仲間に打ち明ける事ができ、心がほどけ、自ら一歩を歩み出せる友の悦びにふれ、御仏さまに護られ、多くの諸精霊が皆さんの真心を喜んで下さっていることを感じることができました。今月も、会長先生から、永遠のいのちという仏教のとらえ方を学ばせていただきます。

 

人生はメドレーリレー 

 仏の教えをやさしく、わかりやすく説きつづけられた臨済宗の松原泰道氏が米寿の時に詠んだ歌

 「八十余年亡母に手ひかれ 山を越え/川をわたりて今日をめまぐる」盂蘭盆にちなんだ講演のなかで、この歌につづけて「おかあさん、ありがとう。この年まで、こんなに丈夫に生かせていただいてありがとう__」とお母さまへの思慕と感謝の心情を率直に述べておられます。


 盂蘭盆の季節になると、とりわけこのように亡き父母への思いが深まるというのは、来年、この歌を詠まれたときの師と同じ歳を迎える私だけではないと思います。また、師のつぎの一節も心に残っています。「人生は、ゴールのないメドレーリレーのようなものです。人間が生きて死ぬというのは、何億年も続いてきた生命のメドレーリレーの一走者として懸命に走り、次の走者にバトンを手渡すことです」(「松原泰道の説法人生」佼成出版社)


 生命あるものは、いつか必ず死を迎えます。そして私たちは、自分の生命が尽きるそのときを「人生のゴール」と受けとめがちです。ところが松原氏は、人生を「ゴールのないメドレーリレー」だというのです。


 死を迎えても、そこが生命のゴールではないとも受けとれるこの一節に、私はなんともいえない安らぎを覚えます。走る距離も、走り方もそれぞれに違う人生ですが、だれもがみな、大いなるいのちの営みのなかの一区間を精いっぱい走るリレーの走者で、生命のバトンはそうして永遠に引き継がれる。このように受けとめると、爽やかな気持ちにさえなります。


「永遠のいのち」を生きる 

京都大学の総長を務められた平澤興先生は、何億年にも及ぶ生命の営みをより具体的な生命観として示しています。


「死とは、大自然より与えられた生命が、元の大自然にかえり、大自然の一部にかえり、再び大自然の建設に参画する。/これは『無』にかえるのではなく、新しい大自然の創造に参加するのである」(生きよう 今日も喜んで 致知出版社)この言葉から、死を迎える寂しさや悲しさはみじんも感じられません。むしろ私たちの生命は、死を境に過去から未来へとつづく大河のような「故郷」に帰り、大自然に還って、「永遠のいのち」を生きつづけるといった壮大なイメージが広がってきます。


 多くの人は、死が自分に訪れることを恐れ、不安を募らせます。ただ、釈尊が真理を探究された動機も、すべての人を生老病死の苦から救いたいとの願いによるものですから、死を避けたいと考えるのは自然な感情といえます。釈尊はしかし、その末に私たち人間がそうした苦しみや悩みを乗り越える法として、無常をはじめとした真理にもとづく四諦・八正道の教え__だれもが救われる、苦の受けとめ方と実践徳目__を説き伝えられたのです。


 現に、芥子の実のたとえで知られる幼子を亡くしたキサー・ゴタミーは、釈尊に出会って救われたことを、「わたしは、八つの実践法よりなる尊い道、不死に至る(道)を実修しました。わたしは、安らぎを現にさとって、真理の鏡を見ました」と告白しています。


 釈尊も「経集」のなかで、心を耕すとその人には「不死の実り」がもたらされると述べておられますが、現実に死と向きあう私たちが、日々を心おだやかに生きる手がかりの一つとして、次号ではこの「不死」について少し考えてみたいと思います。と、会長先生から教えて頂いています。

 

 会長先生が教えて下さったように、お釈迦さまは、すべての人を生老病死の苦から救い、私たちが苦しみや悩みを乗り越える法を、説き伝えて下さいました。また、死や、苦の受けとめ方と実践が大切なことを学ばせて頂きました。


 老いや病気、死に対し、必ず変化することを受けとめないと、寂しさ、悲しさ、恐れ、不安を感じ、諸行無常の真理、すべてのものは必ず変化する、いのちあるものは必ず死を迎える、四諦の教えでは、この世は一切皆苦、仏さまの教えを聞かない人々にとっては人生は苦なり、人生苦から中途半端な逃げ隠れをしないで、その実態を直視し、見極める、苦を諦らかにすること、その原因を真理に沿って探究し、反省し、悟っていくと、自分の思い通りにしたいという貪欲、執着、妄想、固定観念があることをお釈迦さまは説いて下さっています。


 今月、会長先生から、必ず変化し、関係し合っている仏さまのものの見方、考え方、苦の受けとめ方を教えて頂き、私たちのいのちは大いなるいのちの営みの中の一区間を精いっぱい走るリレーの走者で、いのちのバトンは永遠に引き継がれ、大自然に還って永遠のいのちを生き続けると、受けとめると、安らぎや爽やかさ、今、ここに頂いている有限の唯一無二の尊いいのちを、どう自分らしく、生き生き溌溂と、心豊かに使わせていただくか?目の前の家族や、ご縁を頂く人さまにどう、喜んで頂く私になれるか?という、心が湧いてきます。


 実践徳目の八正道、 正見(自己中心の見方を捨てて仏の見方に従う)、正思(考え方を自己本位でなく、貪欲、瞋恚、邪心を捨て、仏のような大きな心で考えること)、正語(悪口、両舌、綺語、妄語のない、正しい言葉使い)、正行(殺生、偸盗、邪淫のない、清らかな行い)、正命(無駄をしない、いのちを生かす)、正精進(正しいことを繰り返し)、正念(天地万物に仏さまの心で正しい心を持ち続ける)、正定(仏の教えに決定、やると決めたらやり続ける、正法を行い続ける)を、具体的に一人ひとりが日常生活の中で実践することをお説きくださいました。私たちのすぐそばにいつも開祖さま、会長先生、教えを頂いている有り難さを感じずにはいられません。

  

 開祖さまも、ご法話の中で、「私どもの本体も、お釈迦さまの本体と同一の久遠実成の本仏です。宇宙の根源のいのちです。だから、現象人間としての生命は病んだり死んだりするけれども、その奥にあるホンモノの自分は病みもしなければ死ぬこともありません。苦難に屈することなく、不幸にも挫けることもない金剛不壊の実在なのです。この真理さえ悟ることができれば、もうしめたものです。他を頼りにするのでなく、自分自身を頼りにし、しかも移ろい易い現象をよりどころにするのでなく、永遠不滅の大生命をよりどころにするのですから、これほど確かなことはありません。人間ギリギリの幸せとは、このような真の自己の発見による大安心の確立にこそあるのです」と、教えて下さっています。


 今月は、盂蘭盆会を迎えます。いのちのバトンを繋いで下さった両親やご先祖さまに安心頂けるよう感謝でご供養させて頂き、今まで出来なかったかたも一品からでも読誦し、ご宝前に座らせて頂きましょう。一日は一生の縮図、生かされて生きている、当たり前でない日々に感謝し、共に日常生活の中でご先祖さまに喜んで頂ける生き方をし、八正道の実践をして参りましょう。今月もよろしくお願いいたします。  合掌

立正佼成会若狭教会 教会長  堀家身知子

白蓮


緑地美人