日々ありがとうございます。

まだまだ朝晩寒い日が続いていますが、皆様にお世話頂いている教会玄関の花壇や生け花、お雛様に春の訪れと、天地自然のいのちのはたらきを感じます。

 

また、毎年3月2日に行われる小浜市神宮寺の「お水送り」は若狭に春を告げる神事で、3月12日に奈良東大寺二月堂で行われる「お水取り」に先がけて、奈良と若狭が昔から深い関係にあったことを物語る歴史的な行事です。この奈良東大寺二月堂のお水取り(修ニ会の「お香水」汲み)は全国にも有名な行事ですが、その「お香水」は、約2kmにわたって続く何百もの松明行列、冬夜の暗闇の中に、炎に照らされた遠敷川に若狭鵜の瀬から流し入れられ、10日間かけて奈良東大寺二月堂「若狭井」に届き、12日の「お水取り」でくみ上げられます。

 

春をお送りし、「海のある奈良」といわれるように、古くより奈良・京都と中国大陸や朝鮮半島とを結び、大陸の信仰や文化が息づいている若狭の地の歴史や伝統を、畏敬を持って学び、受け継いで、益々若狭の魅力を発見し、地域、社会の方々と共に、ぬくもりや元気を発信できる私たちでありたいと願っています。

 

  「慎む」とは思いやること

我宿の草木にかくる蜘蛛の糸
払わんとしてかつは(すぐに)やめける


 ふと払おうとした蜘蛛の糸、そこに精一杯生きる小さな命をみとめ、思わず手をとめた良寛さんのほほえみまでが目に浮かぶ、良寛禅師のやさしさがあふれたあたたかな一首です。

なんの気負いもないちょっとした所作のなかに、人としての慎み深さと、あらゆるものを包み込む慈悲心を感じます。

慎み深くあることについて、釈尊は、「身と言葉を慎み」や「身体、言葉、心を慎むのは善い行為である」など、先月号の「恥じること」と同様に、その大切さをしばしば説いておられます。慎みとは、慈悲と一体のものではないかと私は思うのです。仏教学者であり、曹洞宗の僧侶でもあった奈良泰明師によると、釈尊の教えは「すべて『慈悲』というものに根拠をもって説かれている」といいますから、「慎む」ということも、思いやりの心を深めるものであればこそ、仏の教えとして説かれているのです。

 

悟ったから慈悲心が起こり、慎み深い行いができるのではなくて、他を思いやって言動を慎み接するなかで「みんな一つに結ばれている自他一体の命なのだ」と気づくことが大切で、奈良師のお言葉をお借りすれば「慈悲とは慈悲の実践つまり訓練によって増大し、熟していく」ものだからですと教えていただいています。

 

  身近な実践から世界の問題まで

 開祖さまは、本会の根本道場である大聖堂建立の年、いまから60年前の3月4日に、「教団は大伽藍ができると既成化する」と述べています。そこに集う同心の仲間一人ひとりが、仏の教えを学んでいつもいきいきとして、謙虚で慎み深く、それがひいては地域、社会の人びとの心にぬくもりや元気を与える―そのような教団でありつづけることが大事だと伝えたかったのでしょう。

 

 「一食を捧げる運動」が長くつづけられているのはとても重要なこと。

月に数度、各自の食事を抜いたそのぶんを献金させていただく、まさに慈悲の心を実践に移し、それがまた社会貢献にも結実する身近な活動これからも大切につづけてまいりたいと願っています。

 

 「世界宗教者平和会議」宗教や宗派の枠を超えた仲間が、世界的な難題の解決をめざして対話を重ねることは、参集するそれぞれが謙虚に、自制心と慎みをもって臨まなければできないこと。開祖さまがその土台を築いてくださったのは私たちの一つの誇り。そうした活動が形骸化しないためにも、私たちは、つねに慎みを忘れず、慈悲という釈尊の教えの根本に立脚してものごとを考え、行動することが大事なのだと思います。釈尊には「あらゆることに慎み、恥じる人は自己を護る」というお言葉もあります。と会長先生から教えて頂いています。

 

 「慎む」の意味を調べると、「慎重に振る舞って軽はずみなことをしない。度を越さないように、控えめにする。節制する。失敗しないために言動に注意すること」とあります。常に自分の心の中に意識していない言葉にドキッとし、慎めていない自分の言動を振り返り恥ずかしく感じました。自分は正しいという思い込みがあると、相手の気持ちや考えを思いやることなく、押し付けてしまいがちな私に気づき、会長先生のご法話を頂いたお陰様で、失敗を言葉に出してお詫びさせて頂くことが出来ました。

 

 会長先生は、自分一人の力で生きているのではなく、大いなる神仏の働きによって生かされて生きている有り難さ、お陰さまを自覚すると、小さな自分の考えに固執するのがいかに、愚かなことであるかに気づき、思い上りはおのずと消えて、謙虚になるのです。謙虚な人は、相手の言葉に素直に耳を傾け、相手を理解し、尊重します。そして、誰に対しても己を虚しくしてふれあえるのです。と教えて下さっています。そのような。自他一体の慎み深い私になれるよう、自らの至らざるをバネにして、一歩一歩、急がず休まず精進させて頂きたいと思います。

 

 また、コロナウイルスの世界的流行という危機の中、光祥さまが出された「国際諸宗教の祈り」の祈願文の中で、「学校が閉鎖し、子供の過ごし方で悩んだ時、我が子のいのちが助かることだけを願うような状況にいる両親の苦しみを想像できますように」「自宅待機でストレスを感じている時、安全な居場所すらない人のことを思い出すことができますように」「この場所こそが菩薩行実践の場、仏さまの慈悲の中で皆が一つになれますように」「自らを省みつつ、祈りを捧げます」(抜粋)など、自他一体の光祥さまの深い慈しみのお心に感動感激したことを思い出し、お慈悲あふれる祈願文を朝夕に真心で唱和しご供養させて頂くことによって、私たち一人ひとりが、思いやりをもって、身と言葉を慎み、葛藤を抱えながらも、皆で支え合って、励まし合って、向き合うことができたのだと思います。

 

 今月は教団創立86周年、大聖堂建立60周年の年、お陰さまで、有り難いことに若狭教会は青少年部中心の団参もお手配いただいています。自分の救われを願っての信仰から、いつのまにか六波羅蜜を行ずる生き方に生まれ変わらせて頂いた開祖さま、脇祖さま、会長先生に、光祥さまに報恩感謝を捧げ、ご法で救われた喜びの心で、仏さまの教えを学び生き生きと慎みをもって、今、目の前の人に喜んでいただける布施行、菩薩行に励ませて頂きましょう。 合掌                      立正佼成会 若狭教会 教会長  堀家身知子