日々 ありがとうございます。

 今年の元旦に、能登半島を中心とした大きな地震が発生し、被災地では今なお、道路の寸断、寒さの中で断水や停電が続き、日常生活が戻るまでには長い時間を要する状況が続いております。被災された方々の身心が安らぎますよう念じさせていただき、犠牲となられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。同じ支教区の仲間として、安心、安全と一日も早い復旧・復興を祈り、献金や共に今、いる場所で、できる布施行をさせて頂きたいと思います。

 

 仏さまの願いが宿った法華三部経の7日間の寒中読誦修行には、支部、青少年部、壮年、教会のサンガ皆で、当たり前でない日常生活が送れることに感謝を深くして、仏さまの懐に飛び込み、願いを持って身口意に法華経を読誦させて頂きました。

 

 2月3日の節分に払ってはいけない鬼を、今月の会長先生のご法話から教えて頂き、新しい甲辰三碧中宮の年を迎え、こころ新たに精進させて頂きましょう。


  人間の基本

 節分といえば、「鬼は外、福は内」と「豆まき」が日本の伝統行事として知られています。病をもたらす疫鬼と、貪・瞋・痴といった心をまどわす邪鬼をも払って、身心ともに健やかに、うららかな春の日を迎えたいものです。

 

 同じ「心の鬼」でも「愧」、こちらのほうは、払ってはいけない心、私たちがけっしてなくしてはならない心、自分の言動の過ちや至らなさに気づいて恥じる心です。「慚愧」という言葉がありますが、慚も「恥じること」を意味し、親鸞上人は「無慚愧はなづけて人とせず」といわれます。

 

 恥じる心がないのは、本能のままに生きる動物と同じでけっして人とはいえない、恥じる心があればこそ、人が人として敬意や節度をもって生きることができ、人間関係や社会も成り立ち、「恥じること」は、人間の基本条件といえるのです。

 

  恥じることで救われる

 では、私たちは何に対して「恥じること」が大事なのでしょう。

「恥を知れ」という言葉は自分自身に向ける言葉だと思うのです。「私はいま、思いあがっていないだろうか」と謙虚さをとり戻したり、「欲望まるだしなのではないか」と反省したり、「家族に顔向けできないことをしようとしているのではなかろうか」とやましい行いを思いとどまるかもしれません。

 

 私たちは「恥を知る」ことによって、日常生活のなかで知らず識らずに犯している罪から救われるということです。恥を知ると、人は「真人間」に生まれ変わります。恥じる心は仏性と同じでだれにもあるので、恥を知る限り、人はいつまでも成長しつづけられるのです。

 

 「つねに善き友に会って心をはずかしめられよ」といわれたのは浄土宗の法然上人です。釈尊は、善き友は仏道のすべてといわれましたが、家族をはじめとする身近にいるサンガは、いつでも自分のことを見守っていてくれる人です。ですから、恥ずべき行いは諫めてくれるでしょうし、私たちも愛する家族や仲間の前で恥ずかしい生き方はできません。サンガという善き友によって、私たちは自然に「恥ずかしめられる」のです。そうして心田が耕され、恥じることができるのは、サンガもまた、仏さ

まだからです。

 

 一方、社会や世界はいま、欲望と憎悪に満ち、人間らしい「恥」を忘れたが如き危うい情勢にあります。私は、人が神仏を敬しておそれ、恥を知って生きることの大切さを強く思うのです。

と、教えて下さっています。

 

 令和6年次の方針で会長先生は人間が現実に留まらないで、限りなく、高いもの、尊いもの、偉大なものを求めてゆく、そこに生ずるものが敬という心である。この敬のこころが発達してくると、必ず相対的に自分の低い現実を顧みてそれを恥じる心が起きてくる」と教えて頂き、今月は、その恥じを知ることを、より深くかみしめていただきました。先生の年頭ご法話から、「『恥じる』を辞書で引くと『自分の行為の誤り、欠点、過ち、至らなさなどを自覚し、恥ずかしく思うこと』とあり、自分の足りない部分は、自分ではなかなか気づけないものです。しかし、尊敬する人、秀でた人に出会うことによって自分が未熟であることを思い知らされます。そして、恥じることで、自らを戒め、律して、一層の努力をはじめるのです。」とも教えていただいています。

 

 私も、仏さま、開祖さま、会長先生のように生きたいと願えば願うほど、怠け心や、言ってることとしていることの違いが見えてきて、ほど遠い自分を恥ずかしく思います。また、日頃、主人から、私の言動をいつもあれこれ指摘してくださることに、少々痛い思いになっていたのですが、いつも見守ってくれていて、私の恥ずべき行いを諫めて下さり、主人という善き友によって、自然に恥ずかしめられると、会長先生から学ばせて頂き、痛い思いを感じるのは、自分はやってるつもりなのに・・

という思い上がった驕慢な私だったのだと、反省、懺悔が出来、自分の未熟な言動を恥かしく思います。いつも、身近で見守って頂いていることに感謝がわき、言われたくないと思う心から、教えてもらったらもっと良くなれるんだという、前向きで明るい心になりました。

 

 自分の中にある仏さまの心(仏性)と邪鬼の心(貪瞋痴)、尊さと弱さ両方を見つめ、邪鬼が出てきたときは、もう一人の慚愧の鬼さん(自分の言動の過ちや至らなさに気づいて恥じる心)を呼びましょう。そして、偉大なる神さま仏さまを敬いお参りし、仏さまの教えを学び、日常生活の中で繰り返し実践し、自らの至らざるをバネにして、目の前のことを丁寧に、一歩一歩、地道に皆様と共に精進させていただきたいと思います。

 今月も、どうぞよろしくお願いいたします。 合掌

立正佼成会若狭教会 教会長 堀家身知子