前でも語ったように私は、親が大嫌いで、大好きだ。本当に感謝もしているし、恨んでもいる。つまり、私にとって親はとても重要な存在である。


お風呂の話をしていたが、まだ続きがある。それから数年後、私の中で親を最低だ、と思う出来事が起きた。親があの時は…と家族5人でいるときに、その当時の私の話をし始めたことだ。「あの日、お風呂に上がるのが遅いから外に出して、怒ったのよ。(その当時のことを説明してたけど、前回の読んでもらったら多分内容はわかってもらえると思うので省略)そんで、できるの?って聞いたらこの子わからないって言ったのよ笑笑」笑いながら喋っていた。「私、分からないって何⁈ってびっくりしちゃった笑笑」笑いながらそう親は言った。マジか、こいつ。私はすごくショックだった。親に失望した瞬間だった。本当に苦しくて、助けて、と思いながら言った「分からない」だったのに。親には全くもって伝わっていなかったようだった。まだ、あれどうゆうことだったの、と真剣に聞いてくれれば良かったのに、笑いながら面白い話かのように話していた。あの時の親の笑顔は私は忘れないと思う。

 そういえば、お風呂の話をもう一つ思い出した。お風呂に早く上がれた時のことだった。今日はお風呂に早く上がれた!怒られない!と思った日だった。その日親に言われたこと。「やればできるじゃん!」親は嬉しそうに私の頭を撫でた。褒められた、良かったねと皆さんは思うかもしれない。私にとっては呪いの言葉の一つになった。普段から怒られてばっかりの私だったため、確かにその瞬間、嬉しく思った。褒められた!同時に私はこうも思った。できれば、褒められる。できなければ、怒られる。普段から怒られていたため、たった1日できたことで褒められた嬉しさよりも、逆に褒められたことでより一層、明日からは怒られるかもしれない、という恐怖が勝った。ますます、できなければいけない、という呪縛が強まったのだ。しつけとしてはいいじゃないか、と思うかもしれない。できたら誉めることで子供のやる気をアップ!と。しかし、前のブログに書いたように、私はなぜできないのか、わからないのだ。自分をコントロールできない。当然、なぜ今回できたのかもわからない。どうしてできたんだろう、と色々考えてみるが、今日はなぜかスルスルできた。それしかわからない。全く持って無能である。ポジティブに親から褒められたことを喜ぶことなどできないのはこうゆう訳だ。

 親にはどうしてできないのか聞くのなら、どうして今回できたのか、それも聞いて欲しかったと思う。どちらも分からない、と答える子供はきっと次からできることはないだろう。私は結局できるようにならなかったから。できた時はたまたまできただけだから。私はいつも思う。親がたくさん叱って、できるようにしようとしてくれているというのはわかるのだ。ちゃんとした子に、しっかりした子に、と。ただ、できるか、できないかは、やる気の問題ではないこともある。褒められた、嬉しい。叱られた、悲しい。その感情を使って、やる気を持った子供を育てたいのはよくわかる。感情で覚えたことは忘れにくい。ただ、やる気でどうにかなるものじゃなく、知識や技術がないこともある。やる気だけでは解決できない子供の“できないこと”がある。その結果、できない感情だけが覚えてしまって、自己肯定感がすこぶる低くなる、と私は思うのだ。子供を自信を持った子に、できるようになって欲しいと思うならば、どうしてできないのか、どうやったらできるようになるのか、そしてどうしてできたのか、聞いてほしかった。しなさいって言ったでしょ!この間はできたでしょ!こうやって怒らないで欲しかった。できたのは、“たまたま”の可能性がある。怒る前に聞いてくれ、と思う。できるかできないかは、子供にとっては運ゲーだから。と子供を育てたこともない私は思う。こればっかりは、親も完璧じゃない、というのがあるので責めようがないのだ。だからこそ、私は親を可哀想だと思う。こんな子供が産まれて、可哀想だなと思う。普通の子だったら叱るだけで、できるようになったかもしれない。こんな子で申し訳ない、と思うのだ。なぜなら、親は子育てが上手くいかない、と悩んだだろうなと思うからだ。毎日怒っているのだ。私がお風呂から早く上がれないから。10何年も毎日叱ってくれていた。今となっては、親は辛かっただろうな、と思う気持ちもあって、親が大好きで大嫌いという複雑な気持ちになっている。なかなか、早く上がれない我が子にイライラが募っていただろう。本当に申し訳ないと思う。だけど、私が受けた悲しみがあるのも事実で、そればっかりは複雑な気持ちでしょうがないと思う。

これまでがお風呂エピソードで私が親に対して思うこと、だ。どちらかというと、ネガティブな気持ちだ。

まだ親に対して思うことは色々ある。もう今日は疲れたからこれまでにしようと思う。