私はうんこである。大学生ながら、まともに大学に通うことができないうんこである。そんな私が生きてきた18年間で親に思うことを振り返ってみる。

 私の親はうんこである。ただのうんこではない。素晴らしいうんこなのである。私はくそうんこに成り果てたが私の親は素晴らしいうんこなのである。何が言いたいのか、自分自身でも意味がわからない。しかし、それくらい私は親に対して複雑な思いがある。

 一つ、私の親はとってもクソなのである。二つ、私の親はかわいそうなのである、と言ったところだろうか。

 私は親が大嫌いで、大好きだ。本当に感謝もしているし、恨んでもいる。つまり、私にとって親はとても重要な存在である。 


 振り返れば、子供の頃、私は発達障害のある子供だったように感じる。これは病院には行っていないから、確定はしていない。違うかもしれない。しかし、私は自分が発達障害だと確信している。仮に違うと診断されても、自分は人間として何か欠損していると感じている。それは子供の頃が顕著であった。私はいつも自分の世界に入り込む癖があった。常に頭はぐるぐる。考えがまとまらない、次々と世界が繰り広げられていく、そんな感じだった。そんな私は現実世界でまともに暮らせてはいなかった。まずはお風呂に2、3時間入り、時間はこれっきし守れない。毎日やらなくてはならないピアノの練習など、レッスンに行く当日に焦ってやる羽目になる(が、うまくいくはずもなく怒られる)。もちろん親に毎日ピアノの練習をしなさいと怒鳴られて、ピアノの前に座るが横のテレビの音が気になって、ボケっとテレビを見て気づいたら1時間の練習時間は過ぎてしまっている。また怒られる。宿題は小学校低学年はやっていたが(と思いたいのだが実際はあまり覚えていない)、高学年では忘れる、出さなければいけないその日の朝、やばいやってないと焦る。ランドセルの中身を前日に準備するなど出来ないので忘れ物が多発。一度自分はおかしいと思ったのが、ランドセル自体を忘れたことだ。学校に着いて、登校班の子に言われて気づいた。「あれ?ランドセルどうしたの?」「はっ……」やばいことがわかるだろう。給食袋や箸などもしっかり滞納。朝の登校班にギリギリ、もしくは先に行ってもらうこともしょっちゅう。今考えると恐ろしい。私は自分が発達障害だとは全くもって知らなかったので、自分の無能さに苦しめられていた。毎日毎日、全く同じ怒られ方をするのだ。何回やったら出来るの!そう怒鳴られる毎日である。自分のことしか頭にない私は、怒られたくない、その一心だったため、とにかく何も変わりはしなかった。普通、怒られたくないならちゃんとすればいいだろう、と思われる。しかしながら、この私と言ううんこは、どうしてできないのか、ちゃんとしようと思っても、絶対できないのだ。特に怒られたのはお風呂の時間である。1時間を超えることは当たり前の私のお風呂。ちょうど中学生、高校生あたりの姉と兄がいた私は、家族にとって、とても厄介なのだ。5人家族で、部活も入っている、また、運動部に入っている、受験も控えている、朝練などもある、そんな兄弟は毎日このうんこがお風呂から上がってくるのを待たなければならない。父親は仕事があり、母親は専業主婦である。家族からの不満は日に日に溜まっていった。毎日毎日怒られるたびに、私はしっかりと反省をした。もう次は絶対にしない、と。その時の私はとても甘かった。気合いで乗り切れると思って何も工夫や対策など考えていなかった。だって、みんな“普通に”できてるんだもん。その私が普通にできないということを分かっていなかった。毎日怒られて、外で反省をさせられた。夏でも冬でも。もちろん親も“親”なのである。あまり外に出しすぎない頃合いを見計らって話に来る。親の話は大体こうだ。「ちゃんと反省した?次からちゃんと出来るの?」これが私にはとてもきつかった。最初の頃は、ごめんなさい、次から早く上がります。そう答えていた。これはその場をしのぐために言っていたわけではない。心の底から反省していたのだ。今きっと家族にそのことを言っても、誰も信じてはくれないだろう。彼らは“普通”なのだから。“普通”であれば、反省しているのであれば、次からできるようになるからだ。私はできないのだ。怒られたその次の日はできていた。いくら自分の世界に入り込むと言っても、さすがに怒られた次の日は意識する。しかし、その次の日からまた長く入ってしまうのだ。そしてまた怒られる…そんな生活がずっと続いた。怒られた次の日にできるというのがまた私を苦しめた。次の日はできた。その次の日ができない。次の日はできたのだから、その次の日もできるはずだ。でも私はできない。私は甘えてるんだ。そう思うようになった。家族もそう思っていただろう。いや、家族は私が反省など全くしていないと思っていただろう。本当に迷惑なやつだ、と。しかし、いつしか怒られた次の日ですら出来なくなっていった。正直自分でもなぜできないのか、もうどうしていいのか分からなかった。毎日怒られて、「次はできるの?」これを聞かれる。段々、できるの?という問いに出来る、と答えると、本当に?と言われるようになった。私はこれに何も答えられなくなった。できるの?と問われても下を俯くことしか出来なかった。「もう少し外で考えてなさい」できるかどうか、分からない。なぜできないのか、分からない。自分に自信が持てなくなった。次に親が話に来た時、声を振り絞って言った。「…分からない。」もうすがるような気持ちで言った。苦しかったからだ。親はびっくりしたようだった。「分からないって何?できないの?」そんなことを言ってきた。だって、自分だってできると思ってやってるのに、できないからびっくりなんだよ!心の中でそうキレていた。助けてくれ、と。もうこの地獄から抜け出させてくれ、と。しかし、それを口に出すことは出来なかった。言えば親のこの怒りを増やしてしまうだろうと。そうすれば私は耐え切れない、そう感じた。親は困惑したようで、「とりあえず今日はもう寝なさい」そう言った。いつも布団の中で泣いていた。自分の無能さがつらくて仕方がなかった。この頃から私は死にたくて仕方なかった。

この体験が私の親を恨むきっかけで、親を可哀想だと思うきっかけでもある。親としては兄弟の大事な時間をとるこの行動は、兄弟にとっても私にとっても、問題だと思ったのだろう。だからこそ、毎日しっかり怒ってくれていたのだ。しかし、その怒り方が幼い私にとって、とてもしんどかった。出来なければいけない。どうやったらできるか、一緒に考えて欲しかった、なぜできないのか、ということも。そうすれば発達障害であるのではないか、ということも早く疑問を持てただろう。まあ正直、発達障害かどうかなどどうでもいい。そんなことよりも自分がこんなに苦しんでいるのに、追い詰めてくるのがとてもしんどかった。一緒に考えて欲しかった。もっと私の声を聞いて欲しかった。そう思う。できるの?という問いは出来るという回答以外受け付けない、親の言葉は私にはそう捉えるしかなかった。私もその出来るという言葉が嘘にならないように気合を入れるという間違った頑張り方をしてしまった。そのやり方を一緒に考えて欲しかったと思う。幼い私は私はできなければダメだという感覚を植え付けられたと思っている。が、しかし、親にとってはできなければ将来、私も私の周りの人も困る、という風に考えていたのだろう、と今は思える。

少し疲れたからここまでにしよう。