人は失敗をしたら、その事に早く気が付き間違いを改める事が大切です。
私は2年もの間その記憶を封印しました。その結果、当初のダメージよりももっと大きなダメージが起きたのです。
2年前の200○年春、人生の夢だった結婚が崩壊する出来事がありました。(※詳細は別にブログでアップ)
それ以降の2年間は思い出さず考えないように、仕事だけを頑張ってきたけど、やっぱり・・・駄目でした。
その日、いつものように会社に出勤しました。
途中なぜか涙が次々と流れてきて全然止まらない。
人目とか泣き顔を見られて恥ずかしいとか考える事も出来なくなり、もう駄目だ無理だと思ってその場にしゃがみ込みました。
家で親に状態を話すと、親の選んだ○○大学病院に一緒に行くことになり、
先生からは「何でもないです」と言われ帰宅。何でもない訳ないのに、親は目の前にいる私の状態は全く考慮せず、
先生が何でもないって言っとるんだから頑張って仕事行きなさいと言うばかりでした。
同年3月、私は自分の調子が悪いのはわかっていたので、自分で探した心療内科に受診しました。
すると「鬱病の一歩手前の鬱状態です。仕事が出来るまで、
今はゆっくり安静に自宅療養して下さい」と言われ、私は納得がいきました。やっぱり何でもなく事なかったと。
しかし、家族4人(両親、きょうだい2人)からのバッシング日々の始まり。
両親ときょうだい2人は、○○大学病院の先生は何ともないと言っとる、仕事したくないから言っとるんだ!
仮病、怠け者、死ねと言って私の部屋の戸をドンドン叩きながら暴言を吐き、働かざる者食うべからずと言って即私の食事は無くなりました。なので結婚資金として貯めていたお金でお弁当を買い、お風呂も家族がいない時に入ったり、銭湯に行きました。
2005年、秋。
傷害事件起こる
家族4人から暴力を振るわれる。
その日、家族が帰宅する前に入浴し終え脱衣所のドアを開けた瞬間、キッチンの電気がパチンとつき「お前は何をしよんじゃー」と怒鳴り声と共に父が顔を殴ってきて私は床に倒れました。
キッチンから母ときょうだい2人も出て来ました。
父は床に仰向けになった私に馬乗りになり顔を殴り、母は私の左腕を押さえ付け、
きょうだいAは私の両足を押さえ付け、
きょうだいBは私の頭上で仁王立ちで見てました。
気を失いかけていた時、
母の父へ向けた「あんた、もうええわ」の声が聞こえました。
すると、父が殴るのを止め、皆もぞろぞろと各部屋へ戻って行きました。
翌日早朝、気付かれないように実家を出て、
あおたんだらけの顔と、思う様に動かない体と
鬱状態のまま自分のワゴンRと貯金で、
約10ヶ月間、車上生活とネカフェ生活をし、その間も心療内科受診をしました。
翌年8月、心療内科の先生が鬱状態で車上生活ではなく生活保護申請をして、生活できる状態で治していきましょう、考えてみて。
と言われそのようにして治そうと決めました。
生活保護の申請等はソーシャルワーカーさん、担当の心理士、主治医の先生が良くしてくださりました。
☆(精神医療利権のガスライティング行為なので、この暴力を受けた数日後に同診療内科を受診した事実が、数年後確認したら、受診記録は無いとの回答でした。暴力直後あおたんだらけの顔で臨床心理士のいつもの同じ先生に受診したのに。とても辛いですね)
引っ越しの方もなんとか無事に終える事が出来て、私は実家から物理的に離れた場所で、1人暮らしをはじめる事となりました。
翌年4月には、体調も良くなり自転車で20分程にある大手スーパーに買い物にも行ける様になりました。するとそこのパート従業員を募集されていました。私は仕事をしたい!と思いました。その後、面接→採用され、約8カ月程の生活保護を終了し、そこから本当に自立した生活となりました。
*〇〇大学病院の内科の先生が何でもないと言っても、家族が鬱状態に理解を示していれば…。
*家族が暴力など振るわなければ、縁切りを考えなかった。
*自宅で安静に療養できていれば、鬱状態も早く治ってたかもしれない。
*車上、ネカフェ生活の末、生活保護申請をせず、もっと早く社会復帰が出来たかもしれない。
たられば…は余り考えたくないですが、やはり考えてしまいます。
だって、人って
生きる夢も希望も無くなった時、自分では考えてもない所から、考えられない身体の不調が、起こるんですよ!そんなの、抑えよ~がないっ!!
そしてこれが、
家族4人の本性が表れた出来事です。