和久井映見さん主演の「華岡青洲の妻」を観ています
流れる音楽が心を落ち着かせてくれます
しみじみ~緊張と緩和~テーマの重さ~命
時の流れや人の生き死に
受け入れと抵抗
医術の進歩の陰にあるもの
穏やかな日常の有難さ等
たっぷりある時間でゆっくり鑑賞しています📺
内容は以前から知っていましたが年齢を重ねてから再び見ると
感じる場面が違ってきました
今回は青洲さんのご長男のその後や
年の離れた弟さんが気になりました
📺では最初に登場して、その後、出番なしの弟さん
妹さん達は主な登場人物でしたから
となりました
で、「なにわ大阪をつくった100人」に華岡鹿城(はなおかろくじょう)さん発見
青洲の弟さん達の記述がありました画像お借りしました
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/024.html
6歳の時に父を失った鹿城
10歳の時に儒教を学び、17歳で兄青洲同様京都に上った
古医方と儒学を学び、帰郷した
青洲は鹿城の帰郷を待って通仙散を使って乳がんの手術を行った
アメリカでエーテル麻酔が成功する40年も前のことだった
手術の成功は患者や門人によって徐々に広がっていった
青洲の兄弟は末弟の鹿城のほか、商人になった次弟の治兵衛
仏門に入り高野山の正智院の住職になった三男の良応がいる
治兵衛は和歌山県かつらぎ町に店を構え、
紀州の手織り木綿を大坂・安土町の木綿問屋「丹波屋」に納めていた
青洲の手術の成功は大坂に通う治兵衛を通して全国に広がり、
青洲の医学塾には医学生が集まり、患者は諸国から訪ねてきた
青洲が紀の川市で父親の後を継いだのは母親の於継(おつぎ)の意志だった
大坂に出たかったが、於継にこの土地で医業を続けるように諭されたとのこと
鹿城は兄の意を受け、文化8年(1811)ごろ、堺の少林寺町で診療所を開いた
大坂・中之島に移り、華岡流外科を広め、入門者を確保した
鹿城没後も、青洲の養子で娘婿の南洋(1797-1865)
鹿城の息子の積軒(1827-1872)が支えた
門人は全国各地から2200人に及んだ
西洋医学が本格的に入ってくるまで、わが国の医学の発展に大きく貢献し
医学専門塾としては比類ない規模を誇った
等、詳しい記述を見て大阪なにわを発展された方として新たに知った訳です
現在はコロナ対策ワクチンと生産も待たれます
医学医療現場で様々な研究がされている事でしょう
医学の進歩と発展を祈って時間を過ごしています
で、津山とも繋がった・・・・津山洋楽資料館のホームページからお借りしました
久原洪哉
(くはら・こうさい)
1825(文政8)-1896(明治29)
西北条郡井村(現在の苫田郡鏡野町)の出身。石川元翠・広瀬元恭に蘭学を学び
津山藩医久原家の養子となる。また、華岡南洋(華岡青洲の娘婿)に外科を学ぶ。
明治3年(1870)には津山藩主夫人の乳癌の手術をした。
長男躬弦は貢進生として大学南校にに進み、京都大学教授および総長となった。
津山藩医久原家の初代良賢(甫雲)は、延宝5年(1677)に西玄甫よりオランダ流外科免許状を授与された。