千葉市は1945年7月7日に空襲に遭いました。今年はそれからちょうど70年の歳。
この時の記録によりますと,死傷者約1,200名、被災戸数約8,500戸。被災面積は、千葉市の中心部と諸施設を合わせて約70万坪だったそうです。

戦時中、勝又自動車はFORDの販売ができず、本社では軍人用のゴムカッパや看護師の白衣の縫製を、整備部門は千葉県最初の軍事工場に指定され、横須賀の海軍施設部の管轄となり、誉田村(現在の千葉市緑区)で軍需用の自動車を整備していました。

その誉田村から、7月7日の空襲と火の海に包まれた千葉市が見えたと言います。
先々代の豊次郎が急いで千葉市へいくと、本社は見るも無残な姿に変わり、焼け跡には、金庫だけがぽつりと残っていたそうです。

日に何度も空襲警報がなり、その度に防空壕へ身を隠し、整備の仕事どころではなかった。そして、約20年間積み上げてきた歴史を空襲で失ってしまったのです。
今こうして安心して仕事ができる背景には、先人たちの今では考えられない苦労があってのこと。先人たちが死に物狂いで守ってくれたこの会社をただの営利団体ではなく、誇りをもって仕事をできる会社にしていかなくてはいけないです。