日本史(P65~P76) | ぱーのワーイホリックday!!

日本史(P65~P76)

9世紀、桓武天皇・嵯峨天皇らが勢力を拡大する一方で、
藤原北家が天皇と近づいて勢いづく。
冬嗣は嵯峨天皇の信任を得て蔵人頭となり、
その子良房は清和天皇が幼少で即位すると摂政となる。
さらに応天門の変で伴・紀両氏を没落させる。
また良房の養子基経は、光孝天皇の時関白となる。
摂政は、天皇の幼少期の政治代行役で、
関白は、天皇の成人後の後見役。

次の宇多天皇は摂政・関白を置かず菅原道真を登用して
藤原氏を抑えようとした。
しかし醍醐天皇の時、道真は藤原氏の策謀により左遷となる。

その後も安和の変で源高明を左遷するなどして、
藤原氏の地位は不動のものとなる。
藤原氏が摂関を務めたこの政治を摂関政治と呼ぶ。
藤原氏は道長の時最盛期を迎える。

この時、他の貴族たちは摂関家や院宮王臣家に隷属するようになる。
摂関家らが官人推挙の権を持っていたからである。
このため、上級貴族は勢力を強めていく。

894年、道真の建議により、遣唐使が廃止。
そのためこの時代の文化は国風化されたものとなる。
例えばかな文字の発達により、
日本人特有の感情を表せるようになる。
かな物語としての
『竹取物語』、『伊勢物語』、『源氏物語』や、
随筆『枕草子』、日記『土佐日記』が作られた。
初の勅撰和歌集として『古今和歌集』も作られた。

仏教では本地垂迹説や御霊信仰がさかんとなり、
また浄土教が流行しだした。
来世での幸福を説く教えは、
市中を歩いた空也や、源信の『往生要集』により広まり、
末法思想と結びつき流行した。

建築では寝殿造りが中心で、
建造物内の屏風などには大和絵が描かれた。
調度品には蒔絵の手法が多用された。

書道では、小野東風・藤原佐理・藤原行成が三蹟と呼ばれた。

仏教美術では、
道長の法成寺、頼道の平等院鳳凰堂が代表的。
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像は定朝の作で、
彼は寄木造の手法を完成させた。

衣服では、
男子の正装が束帯や、それを簡略化した衣冠、
女子の正装が十二単であった。
成人式として男子の元服・女子の裳着も行われるようになる。


醍醐・村上天皇の時代は延喜・天暦の治として
政治の理想時代とされたが、この頃律令体制は崩壊し始めていた。
902年には、延喜の荘園整理令を出し、
違法の荘園停止を命じるなどして律令体制を守ろうとした。

しかし、律令体制の維持は困難であったので、
政府は方針を転換する。
これまで中央政府が国司を監督し租税の徴収などを行っていたが、
小さな政府化を行い、国司に国の管理を任せるようになる。

国司は田堵に一定期間田畑を耕させ、
律令体制下での租・庸・調などに見合う額の負担を課すようになった。
課税の対象となる土地を名と言い、
大きな名を持ち、勢力を拡大した田堵を大名田堵と呼ぶ。

国司はその後、
課税率をある程度自由に決めることができるようになり、
利権のある地位とみなされた。
そこで、朝廷に貢献する代わりに国司の役につく成功、
同じ国の国司に再任される重任が行われるようになった。
現地に赴任せずに代役を送る遙任なども行われた。