たまにブラックホールに吸い込まれるように、

気分が落ちるとき、がある。


それはあの人のあの言動がきっかけ。。。

その人のせい、、、のように見えるけど、



そうじゃない。






私は私を孤独だと思っていた。

私は私を価値がないと、

愛されるに値しないと、

とんでもない人間だと、

生きてる意味なんてないと、

どうせ裏切られると、

うまくいくはずないと、

調子よく進んでもどんなに配慮しても、

必ず誰かを傷つけてしまう、、、


私は私を



害虫のようだと





思っていた。。。







だから、



この思い込みに共振するエネルギーを感じると、

それをすっかり取り込んでしまい、


ほらね、やっぱり、と、



自分攻めが始まる。




無意識に発動する。。。



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これが、

『人から傷つけられた』ということの真実。



人が『学ぶ』時、

自己教育しかあり得ない、のと同じように、


人は内面への活動は、

その人自身でしか行いようがない。



つまり、

他人から傷つけられたのではなく、

それを取り込むかどうかは、

その人自身に委ねられているのだ。



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私が吸い込まれるプラックホールは、

私自身がつくり上げてきていたのだ。



なぜこんなに苦しくなるのだろうかと、

なぜこんな思いをするようなことが、

度々起こり、どうしようもなく落ち込んでいくのか、

その理由がようやく分かり、腑に落ちた。



まだ自分を否定する声を、

手放せてなかったようだ。。。




これね、子ども時代にせっせと、

つくられてきたもの。


いや、

これは周囲の大人、環境のせいではなく、

私の本質がこう仕向けていたのだと、

今ならよく分かる。







そして、だから教育とは何か、

教育者とはどのような在り方が好ましいのか、


私の考察は、

やっぱりここへと繋がっていく。





  『教師は感情のコートを脱げ』


と、シュタイナーは言っていたと、
有名な言葉が語り継がれている。

これ、私には全く理解できなかった。

なぜ、「大人の精神の在りようが大切だ」と言うシュタイナーが、こんな外側の表面上の事を言ってたのか、

私には理解できなかった。



なぜなら、

感情を脱いだ姿が、
人の在るべき姿なの?
こどもが模倣していい姿なの?
真に自由に生きる人の在りようなの?

ちょっと考えれば変だと分かるよ🤣



『私の言葉を鵜呑みにするな。
自身で理解できるまで、問いを持ち続けよ。』

☝️シュタイナーがどの本にも書いてること。
私はこれに実直にいたのだ🤣




この『感情のコートを脱げ』は、
外側の表面上の事を言ってる。

これをこのままやると、苦しくなるだけ。
やってみると分かるよ。

精神疾患になるから🤣




これはね、
周囲の出来事に左右されない、
動じない姿の事であり、

正確に言うと、
『感情を脱いだ』のではない。
そう見える、ということ。




瞑想を毎日続けるうちに、
この境地にたどり着ける。

外側からの影響を受けない。
つまり、
周囲で何が起きても、
どんな言葉を受けても、

私は

わたしの中心に鎮座し、

『ただここに在る』のだと知る。

そしてそこは、
何もない無の状態ではなく、
その逆で、喜びに満ち、
幸せの境地に在る姿なのだ。

感情を脱いだのではない。

『何が起きても大丈夫』という、
揺るがない世界の真理に
たどり着いた者の姿なのだ。

感情は脱ぐことはできない。
なぜなら、感情は、

わたしの中心
ほんとのわたし
真の部分 高次の私
魂 ハイヤーセルフ

こんな言葉で表現される、
この部分と、
肉体の私をつなぐ大切なものなのだから。

脱いだように見えてるだけ、なのだ。




そして、
この事がわたしの中で解明してくると、

日本のシュタイナー教育の教師が、
教室にいるときに、
冷たく見えていた理由にもつながった。





感情を脱いでいた、から、だと。