幼児教育、子育て、
何が正しくて、
何が間違いで、
何が良くて、
何が悪くて、
何を与えるべきか、
何を与えないべきか、







幼稚園、保育園に勤務しながら
ずっと、ずっと、
15年以上かけて、
ずっと考えてきた。


教育方針が園によって異なる…
外から見た、知識だけでは
本質が見えてこないから、

実際に、園に入ってやってみた。


教育方針と掲げている多くのものは、
表面的なアクセサリー的なもの
だった。

そんなものではなく、
人が人として育つためには、
絶対必要な何かがあるはず…。


自分の半生を振り返りながら、
今までの考察を盛り込み、
しだいに、ある考えに至ってきた。

『結局、私は私なのだ』と。
つまり、
何を教えられても、
何を植え付けられても、
私の中には、
教育、育ちの本質を探りたいという
欲求があった。

その欲求は、
どんな人生を歩んでも、
何をやっても、
何をされても、
消して消えることはなかった。

転機の出来事は、
私や周囲の力ではなく、
起きるべくして起きる。

結局、どんな育て方をしても、
それを受けとるのは、
その子自身。

子どもは、まっさらの
何もない状態では
産まれてこない。
すでに、性格や、
物事のとらえ方に
ある種の偏りを持って
産まれてくる。

それは、遺伝かもしれない。
それは、胎児の時に
つくられるのかもしれない。

でも、
その領域には、今はまだ、
人の手は届かない。
現実として、研究されても、
明確な物が見えてこない。
(あるのなら、
子育ての悩みなんてないはずだ。)

だから、例えば
子どもの要求を
全て満たして育てると、
『自分は愛されてる存在』と、
愛情溢れる人になるかもしれないし、
『世の中チョロい』と、
傲慢にふるまう人になるかもしれない。


だから、
『結局、私は私なのだ』


似たような考えを見つけた。
心理カウンセラー心屋さんより。
↓↓↓↓

親は
「しつけ」という名の
「おしつけ」をします。

そう、
親の法律 親の恐怖を
「常識」という名前で
押し付けます。

もちろんそこには
「この子が安全に生きられるように」 「この子が嫌な思いをしないように」

という愛情もあるでしょう。
そして同時に、
自分の「恐怖」もある のです。

「謝りなさい」 「ごめんなさいは?」

で、言わないと
「ホントにやりにくい子だわ」
「ホントに強情で可愛くないわ」

と、言われて
セルフイメージが出来上がる。

「わたしは、強情」
「やりにくい子」
「かわいくない子」と。

そしたら、 じゃー、それでいいわ じゃー、そういう風に生きるもん
と、スネが始まる。

で、何十年も 拗ね続ける、
という図ができるわけですね笑
で、まぁ それは仕方のないことなのですが

「わたしは、どうやって子育てすれば いいのかわからない」
ってなるわけです。

つまり、ここで 「わたしは、じようずに子育てのでき ない人」
が発動しているだけなので

「てきとーに」やってください。

甘えさせたら、 甘え上手で愛情豊かな子になるかもし れんし

甘えん坊で何にもできないこと似るか もしれん。

厳しく育てたら 人に迷惑をかけない自立した子になる かもしれないけれど 人の愛を受け取らず信用できない固い 人になるかもしれない。

両面出るのだから、 だったら、楽な子育てのほうがいいで すよね。

正解は ないので。

で、 「どうしよう、わたしは、この子に罪 悪感を植え付けてしまったのかもしれ ない」

と心配してても、 大人になって

心屋のようなものに勝手に出会って 勝手に気づいて 勝手に幸せになっていくので

ほっときなはれ( `ー´)ノ

ということですな。

罪悪感を植え付けたとしても それをバネに頑張るかもしれないし

人を助けることをしていくのかもしれ ない。

で、それで苦しんだとしても 心屋のようなやつに出会って

勝手に気づいて 勝手に方向転換していくのです。

むしろ

この 「気づく楽しみ」を 奪ったらいかんわ。

↑↑↑↑↑

子育てに悩んでいるお母さんに
最近よく出会う。
でも、
悩む前に、楽しんでほしい!!

いろんな考えがあるんだ。
教育方針なんて、
ほんと、矛盾だらけ!

教育方針によって、
これは良いよと言ったり、
ダメだと言ったり。
これは、どっちを信じるか
という問題ではない。

これは考えの違いではなく
明らかな矛盾。

同じ子どもの事を想った考えなのに、
違いがでるのは、
おかしい。

取説や、模範解答は、
子育てに存在しない。
人生と、同じ。

好きか嫌いか、
楽しいか、楽しくないかを
基準に、
子育てを楽しんでほしい。

その方が、
なんかしらんけど、うまくいく。
そういうふうに、できている。