途切れた意識と、待合室の緊迫

いよいよ6月3日、手術の朝を迎えました。 午前8時30分、手術室の入り口で妻と2人の息子が励ましの言葉をかけてくれたそうですが、すでに麻酔の薬が効き始めて意識が朦朧としていたため、私はよく覚えていません。

午前9時、手術が開始されました。 妻と息子たちは待合室で待機していました。予定では5時間以上とは聞いていましたが、予定の午後2時を過ぎ、3時、4時を過ぎても一向に終わらない状況に、待合室の家族は生きた心地がしなかったようです。

そして手術開始から8時間が経過した午後5時15分、すべての処置を終えた中尾先生が、家族の待つ部屋へと説明に来てくださいました。

 

執刀医がやり切った大手術、そして父の気配

先生はかなり疲労している様子だったそうですが、「予定していた手術をすべてやり切り、成功しました」と伝えてくださいました。その瞬間、家族の緊張は一気に解けたそうです。

中尾先生からの説明は以下のようなものでした。

  • 心臓はかなり肥大化していた。
  • 最も悪かった僧帽弁は、予定通り生体弁に置換した。
  • 三尖弁はリングを用いた形成手術で修復した。
  • 大動脈弁は検査の結果、そのままで大丈夫だと判断した。
  • 事前のCTで胸腺嚢腫(きょうせんのうしゅ)が見つかっていたため、念のため胸腺も摘出した。

ここまでは順調だったのですが、実は「冠動脈バイパス手術」の最中に予期せぬ事態が発生したとのことでした。足の血管を繋ぐ予定だった心臓側の血管が、想定以上に「石灰化・硬化」していたのです。そのため、急遽その硬化した部分を切除し、別の健全な血管へ縫合し直すという臨機応変な処置が行われていました。手術時間が長引いたのは、このせいだったのかもしれません。

また、私の腎臓の機能があまり良くなかったため、「一時的に人工透析を行うかもしれない。最悪の場合、生涯にわたって人工透析になる可能性もある」という厳しい見通しも告げられたそうです(幸いにも、その後腎臓は持ちこたえ、人工透析は回避されました)。

心臓の手術では、一時的に心臓を止めて「人工心肺装置」に生命維持を委ねます。中尾先生の著書『いのちを救い、縁を繋ぐ生き方』によると、手術を終えて再び心臓を動かす瞬間、心臓外科医はいつも心の中で「戻ってこい!」と言ったり、欧米の医師はよく「カモン!」と言ったりするそうです。 私の心臓も、その呼びかけに応えるように再び力強い拍動を始め、人工心肺装置が外されました。20センチほど縦に切り開かれていた胸骨はワイヤーなどできちんと固定され閉じられました。

これまでに3,000人以上の心臓手術を手がけてこられた中尾先生は、「心臓が止まっている間、患者の魂は近くの宙に浮いていて、拍動が再開した瞬間に身体に戻ってくるような感覚がある」と書かれています。臨死体験をする人もいるそうで、私自身、姿は見えなかったものの、三十数年前に亡くなった父がすぐそばで見守ってくれていたような、不思議な感覚が確かに残っていました。

 

電子カルテに向かう背中と、夜明け前の「せん妄」

先生の説明を終えた後、家族はICU(集中治療室)への入室を許可されました。 私の口には呼吸を助ける気管チューブが差し込まれ、胸には心電図やペースメーカーの電極パッド、身体からは血液や体液を排出するための5本のドレーン管が伸び、腕には点滴、さらには採尿バッグ……。まさに満身創痍の痛々しい姿でしたが、思ったよりも顔色が良かったため、妻たちは少しホッとしたそうです。

そして息子たちが何より心を打たれたのは、疲労困憊のはずの執刀医・中尾先生の姿でした。先生は私のベッドの足元にある机に向かい、すごい集中力で電子カルテに手術記録を入力されていたのです。一分の間違いも許されない命の記録に、真剣勝負で向き合うその背中から、息子たちは「仕事への厳しさ」を猛烈に学んだようです。自然と頭が下がる思いのまま、家族は先生方に深く感謝し、ICUを後にしました。

しかし、本当の戦いはここからでした。 手術翌日の6月4日の夜明け前にかけて、麻酔が切れ始めるタイミングで、私は強い「せん妄(一時的な意識混乱)」に襲われたのです。

家族が隣の部屋に面会に来ていると完全に思い込み、大声で何度も家族の名前を呼んでしまいました。「深夜ですから静かにしてください」と看護師さんに何度も注意されたことを、今でもはっきりと覚えています。 18床あるICUは満床で、緊迫した空気の中、医師や看護師の皆さん、検査データの解析をしている職員の方々が不眠不休で働かれていました。そんな中、大声を出してしまった自分自身が申し訳なく、恥ずかしい記憶として今も鮮烈に残っています。

手術直後から私の体に装着されている心電計などの機器で血圧や脈拍数や血中酸素濃度が常時、医師や看護師の元に送られて監視されています。異常発生時には警報が鳴ってすぐに看護師さんや医師の先生が駆けつけてくれます。ICUには1週間滞在しましたが、心電計の電極パットが外れたり心電図の異常などで何回も警報が鳴ってお世話になりました。

(第5回に続く)

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心筋梗塞の寸前、生死の瀬戸際での発見

入院日である5月31日、2回目となる血管造影剤を用いたCTスキャン検査が行われました。心臓のさらに詳しい状態を調べるためです。

すると、思わぬ問題が発覚しました。心臓に酸素と栄養を送る「冠動脈」の2箇所で、血管が著しく狭くなっている(狭窄)のが見つかったのです。

その時、心臓内科の先生は「これ、手術前に見つかって本当によかったですね! 心臓外科の先生がきっと何とかしてくれますよ」と、あえて明るい口調で言ってくださいました。

しかし実際は、いつ心筋梗塞が起きてもおかしくない危機一髪の状況だったのではないかと思っています。私の父も81歳のときに心筋梗塞で亡くなっていることを考えると、間もなく80歳を迎えようとしていた私は、まさに生死の瀬戸際に立たされていたのだと思っています。後に執刀医の中尾先生からも、「この血管が詰まったら、心筋の3分の1が壊死(えし)する」と告げられました。

 

全国トップクラスの医療体制と、術前の選択

私が手術を受ける新東京病院は、重症患者や術後の全身管理を行う集中治療室(ICU)が18床、心臓内科・心臓血管外科の急性期疾患に特化した循環器疾患集中治療室(CCU)が14床、脳卒中などの急性期に対応する脳卒中ケアユニット(SCU)が8床あり、集中治療部門だけで計40床を誇る救急医療対応の病院です。心臓や脳血管疾患の急性期医療体制は、全国トップクラスと言われています。このような最先端の病院に巡り合えたのも、大きな運命の導きだったのかもしれません。

すべての検査が終わって病室に戻ると、麻酔科の先生が全身麻酔についての説明に来てくれました。「稀にショック症状が起きることもありますが、対策は十分に取っています」というお話を伺い、心が落ち着きました。

翌6月1日には、中尾先生から手術前の具体的な方針についての説明がありました。 私の心臓の動き自体は68%保たれているものの、僧帽弁はひっくり返ったような状態になっており、4段階評価で最悪の「4(4/4)」という最も深刻な状態でした。さらに三尖弁(さんせんべん)が「3/4」、大動脈弁も「2/4〜3/4」と、いずれも悪い状態であるとのことでした。

ここで先生から、人工弁を「牛」と「豚」のどちらの生体弁にするか、選択を求められました。私は、豚の心膜を使った生体弁での弁置換手術をお願いすることにしました。

また、新しく見つかった冠動脈2箇所の狭窄については、足の血管を切り取りって、それを使って心臓に新回路を作る「冠動脈バイパス手術」を受けることになりました。術後の足の傷跡を見て多分40センチほどの血管を使われたのではないかと思っています。

中尾先生は優しく微笑みながら、「手術を2回に分けるのは嫌でしょうから、1回でまとめてやりましょうね」と言ってくださいました。 こうして私は、重症心臓弁膜症の弁置換手術と、冠動脈バイパス手術を同時に行うという、予定時間5時間以上におよぶ「大手術」を受けることになったのです。

「まな板の鯉」となって待つ、手術前夜

その後、看護師さんから入院中の注意点について説明を受け、理学療法士さんによる認知能力の検査も受けました。術後にも同じ検査を行い、認知能力が低下していないかを確認するためだそうです。高齢者にとって、それだけ身体にも脳にも影響の大きい大手術なのだと改めて実感させられました。

しかし、私は中尾先生にすべてを託しきっていました。心境はまさに「まな板の鯉」。余計な不安や恐れは不思議と湧いてこず、ただ静かに手術の日を待っていました。

手術前日の6月2日、妻から私のスマホにLINEで2枚の写真が送られてきました。 1枚は、妻と初めて出会った真夏のキャンプで、他の仲間たちと一緒に撮った写真。もう1枚は、新婚旅行で行った北海道の雪景色の中で、2人で寄り添って撮った写真でした。

私はもともと傷の治りが良い方ですし、若い頃にはお酒を2升近く飲んで死ぬほど苦しんだ経験(笑)などもあり、痛みや苦しみには人一倍耐えられるという妙な自信がありました。「きっと生き延びられる」という確信が心のどこかにあり、送られてきた写真を見つめながら、口の中で小さく「大丈夫だよ」と呟きました。

(第4回に続く)

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階段を避け、エレベーターを選ぶ日々

半年後、11月28日の診察では、前回の検査結果と大きな差は見られず、次の診察は翌年5月という予約になりました。

しかしその後、強い倦怠感に襲われることが2度ほどあり、予定を早めて3月に急遽、長沼先生の診察を受けました。その頃には、部屋の掃除機がけをしただけで息切れがするようになっており、私は「心臓の手術は避けられないだろう」と覚悟を決めました。

万が一のことを考え、同じ市内に住む姉に会っておこうと思い立ち、妻とバスと電車を乗り継いで姉の家を訪ねることにしました。その移動の途中、妻から「どうしてそんなにゆっくり歩くの?」と言われるほど、いつもの速度では歩けなくなっていました。

私はその時初めて、息切れがして早く歩けないことを妻に打ち明けました。その日から、「駅や街中の階段は避け、エレベーターやエスカレーターを利用しよう」と2人で決めました。

 

手術への決意を後押しした言葉

数日後の3月13日、新東京ハートクリニックで胸部レントゲン、心エコー、血液検査、心電図の検査を受け、さらに24時間心電計(ホルター心電図)を1週間装着することになりました。

総合的な判断が下される診察日は4月21日。 心配しながら臨みましたが、幸いにも心不全の程度は基準値内で、胸水も溜まっておらず、不整脈も大きな問題はないとのことでした。

しかし、高血圧であることに加え、実際に息切れや動悸の症状が出ていることから、長沼先生はこうおっしゃいました。

「そろそろ手術を考えた方がいい時期かもしれませんね。人生設計によって考え方は人それぞれですが、もし手術をするのであれば、1歳でも若い方がいいですよ」

先生の言葉が、私の耳の奥で深く共鳴するように響きました。家族のことを考えれば、「まだ死ぬわけにはいかないなぁ」という思いが強く湧き上がり、私の心は手術を受ける方向へと固まっていきました。

私の様子を見た長沼先生は、隣の心臓外科の津田先生を紹介してくださり、引き続きその日のうちに津田先生の診察を受けることになりました。津田先生のお話では、心臓の入口の弁も出口の弁もかなり痛んでいるとのことで、手術に必要な詳しい検査(血管造影剤による全身CTスキャン、経食道心エコー)を受けることになりました。

 

過去のトラウマを消し去ってくれた医師の一言

実は、私は「血管造影剤」に対して強い恐怖心を持っていました。 40歳頃、胆のうのレントゲン検査で使用した造影剤で、顔の発疹や呼吸困難といったショック症状(アナフィラキシー)を起こした経験があったからです。

その不安を津田先生に正直に伝えたところ、先生は優しく説明してくださいました。

「そのような経験がある患者さんの場合は、事前にショック症状を抑える措置をとります。また、当時のものよりも格段にショック症状が起きにくい最新の造影剤を使いますから、ほとんど大丈夫ですよ。万が一のことがあっても、私たちがすぐそばについて対応します」

この言葉を聞いて、長年抱えていた造影剤への恐怖心はすっかり消え去りました。実際、4月21日に行われた全身CTスキャン検査では、ショック症状はまったく起きませんでした。

 

活気あふれる検査室と、臨床検査技師の妙技

もうひとつの高度な検査が「経食道(けいしょくどう)心エコー検査」です。これは口から超音波内視鏡を入れ、心臓のすぐ後ろを通る食道から観察するもので、肋骨に遮られることなく弁の状態を正確に把握できる検査です。

「稀に食道を傷つけるリスクもありますが、対処は万全にしています」との説明も受けました。医師として義務付けられているリスク説明だろうと受け止め、私はそれほど心配しませんでした。

4月25日、検査当日。 歩く人もまばらな静かな廊下を通り、経食道心エコーの検査室のドアを開けると、そこは種々の最新機械に囲まれた部屋でした。たくさんの若い男女の臨床検査技師の方々がキビキビと働く活気ある空気に満ちており、静かな廊下とのギャップに一瞬驚きました。

ベッドに横たわり、点滴を受け始めると、私の傍らで技師の方々がたわいもない日常会話を始めましたが、それを聞いているうちに、私の記憶は消失しました。

目が覚めたとき、あれは患者の緊張を和らげるための、技師の皆さんの手慣れたプロの技だったのだろうなと思いました。胃カメラ程度の手軽なものかと思っていましたが、実際には全身麻酔(鎮静剤)による検査だったため、まったく苦痛を感じることなく終えることができました。ただ、喉に少し擦り傷ができたようで、数日間は唾を飲み込むたびに痛みが残りました。

院長先生との握手、そして直前に訪れた新たな試練

5月2日、実際に執刀してくださる新東京病院の院長、中尾先生の診察を受けました。 心臓外科手術の著名な医師として知られる中尾先生は、とても気さくな雰囲気の方でした。しかし、先生から告げられた病名は非常に深刻なものでした。

  • 重度僧帽弁閉鎖不全
  • 中等度大動脈弁逆流
  • 中等度三尖弁逆流

「今は脈こそ正常ですが、このまま放置すれば心不全になる状態です」

そう告げられ、話はとんとん拍子に進みました。入院は5月31日、手術は6月3日。入院期間は2週間と決まりました。診察の最後、中尾先生は「頑張りましょう」と言って、力強く私と握手をしてくれました。患者がすべてを託したくなるような、不思議な安心感と 風格を持った先生でした。

入院にあたり、「虫歯がないことの歯科医師の証明書」も準備し、手術に向けてベストコンディションで臨めるよう、日々の健康管理には細心の注意を払って過ごしていました。

そんな矢先の5月22日の朝、突然の異変が起きました。 起きた瞬間、左耳の音が急に聞き取りにくくなっていたのです。

「なぜ、こんな大事な時に!」

焦りながら、開院と同時に近くの耳鼻科クリニックへ駆け込みました。診断は、左耳の聴力が著しく低下している「突発性難聴」の疑い。治療には早期のステロイド薬などの投与が不可欠ですが、心臓に負担がかかる薬であるため、「心臓手術を控えている病院の先生に使用しても良いか聞いてほしい」と言われました。

帰宅して必死にインターネットで調べると、ステロイド薬は手術後の「傷の修復」に悪影響を及ぼすリスクがあることが分かりました。

生死を分ける心臓の大手術を目前に控えた私は、だいぶ心が揺れました。しかし、「今は左耳どころではない。手術後のリスクを最小限に抑えることが最優先だ」と自分で決意を固めました。そして、親身になってくれた耳鼻科の医師には、手紙を出して丁寧にお断りを入れました。

入院を目前に控え、私は万が一に備えて書いた遺言書と、2人の息子と嫁、そして孫たちへ宛てた「もしもの時にだけ渡してほしい」という手紙を妻へ託しました。

(第3回に続く)

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はじめに

心臓の大手術を経験したことで、私の人生観や心境には大きな変化が訪れました。せっかくいただいた命だからこそ、大切に生き、これまでの人生を総括しながらどなたかの役に立ちたい――。そんな思いから、保健所の食品衛生監視員の視点での食中毒研究一筋に歩んできた私のこれまでの物語を、五十回ほどに分けて書き残しておこうと思います。

 

縁台将棋の後に襲った、かつてない倦怠感

私は「下手の横好き」という言葉がピッタリの、根っからの将棋好きです。会員30人ほどの地域の将棋同好会に所属しています。

2024年5月11日、市川市内の里見公園で、他の2つの同好会と共催で「縁台将棋」を楽しみました。役員をしていた私は、公園の芝生にシートを敷いて将棋盤を準備したり、ビール瓶などの飲食料を運んだり、後片付けをしたりと、多少の力仕事もこなしました。その時はあまり疲れを感じることもなく帰宅したのです。

しかし、自宅のソファーで一休みした瞬間、これまでに経験したことがないような、尋常ではない強い倦怠感に襲われました。

翌日になると、その体調不良は嘘のように回復しました。しかし私の心には、ある記憶がよぎっていました。それは約20年前、たまたま受診した仙台循環器病センターで「大動脈弁閉鎖不全症(心臓弁膜症)の疑いがある」と指摘されていたことです。

「もしかして、あの時の心臓の病気が進行しているのだろうか……」

胸騒ぎがしました。当時は数年間、年1回の経過観察を受けていたものの、約10年前に宮城県から千葉県に転居したこと、そして自覚症状がまったくなかったことから、検査を中断したまま10年ほどが経ってしまっていたのです。

 

松戸のクリニックでの宣告と、予想外の「虫歯」の指摘

心配になった私は、5月23日に松戸市内の「新東京ハートクリニック(新東京病院の外来部門)」を受診し、心臓内科部長の長沼先生の診察を受けました。

心エコー、心電図、血液検査、胸部レントゲンを受け、その結果が出る5月30日、妻と2人で再び長沼先生の説明を聞きに行きました。

先生から告げられたのは、驚くべき事実でした。 心臓にある4つの弁のうち3つが悪くなっており、そのうちの1つ「僧帽弁(そうぼうべん)」がかなり悪化して、心臓内で血液の逆流が起きているというのです。

幸いにも心不全を示す数値は正常で、軽い息切れはあるものの、心臓弁膜症の主要症状である動悸、呼吸困難、めまい、むくみなどは見られませんでした。そのため、ひとまずそのまま様子を見て、半年後の11月28日に再診することになりました。

ただ、病状が進行した場合には「胸を開いて悪い弁を人工弁に置換する手術が唯一の治療法」との説明も受けました。さらに、先生から予想外の言葉をかけられます。

「もし虫歯があるなら、必ず今のうちに治療を受けてください」

虫歯などがあると、歯ぐきの血管から細菌が血液中に入り込み、それが心臓の弁を壊してしまうことがあるというのです。虫歯と言えば、高校生の頃に悪化して歯ぐきが化膿していたにもかかわらず、長期間放置していたことを思い出し、「もしかして、あれが原因だったのだろうか」と気になり始めました。

そして、私の頭にはもうひとつ、どうしても気になる過去の記憶がよぎっていたのです

 

大学時代の無謀な挑戦:東北・中部1,800キロの旅

それは私が大学3年の夏、梅雨明け直後の酷暑に友人と2人で自転車旅行に出かけた時のことです。行程約1,800キロメートルにおよぶ「東北地方一周と中部地方横断」のサイクリング旅行でした。

ルートは、仙台市を出発し、宮古、盛岡、十和田湖、男鹿半島、酒田、新潟、糸魚川、軽井沢、前橋、福島を経て仙台に戻るという過酷なものでした。

私たちは購入したばかりの、当時は珍しかった3段ギア付きの自転車をお互いに自慢し合いました。偶然にも米国製の同じメーカーで、車体は洒落た緑がかった淡いブルーのドロップハンドル。まったく同じ自転車でした。嬉しくなった私たちは、出発前に宮城県庁前の広い道路で200メートルほどの競争をしました。

相棒は何度も挑戦してきましたが、1回も私を追い抜くことができず、相当悔しがっていました。私は高校時代に柔道部だったため、瞬発力の出やすい筋肉をしていたからだと思います。一方、相棒は野球部だったため持久力があり、長距離の道中では彼にかなわないと思うことも多々ありました。

自転車の前後に約30キロものテントや自炊道具を積み、いざ仙台を出発しました。ハンドルには前輪の荷物に加えて私の体重がかかるため、前輪の車軸が曲がってしまい、道中の自転車店で2回も車軸を交換してもらったほどの大荷物でした。

 

信濃町で起きた、突然の呼吸困難と大汗

この旅で一番きつかったのは、糸魚川市の海岸から軽井沢まで、海抜約1,000メートルの上り坂を登っていた時でした。

「途中で絶対に自転車から降りないで行こうぜ」

そう相棒と約束して糸魚川を出発しました。若さゆえ、体力の限界を試してみたいという無謀な思いが頭の片隅にあったのは確かです。あまりの激坂の連続に、実際には数回降りてしまいましたが、あえぎながら懸命にペダルを漕ぎ続けました。

そうして長野県の信濃町に入った時、私の体に突然、異変が生じたのです。

それまで経験したことのない動悸とともに呼吸困難に陥り、一瞬にしてバケツで水を被ったかのように、全身から滝のような汗が噴き出しました。持久力のある相棒は平気でしたが、私の異変に驚き、近くのドライブインの人に頼んで客室の座敷に横にさせてもらいました(写真:左が私)。

この時、「『心臓破りの坂』って、本当にあるんだな……」と思ったのを覚えています。

連日晴天が続き、当時はあまり見かけることの少なかったサイクリング旅行者の真っ黒に日焼けして汗だらけの私たちは、旅先で珍しがられて親切な地域の方々から丸ごとスイカをいただくこともありました。そのスイカを食べ過ぎた体で急な坂を上ったことが、心臓に過度な負荷をかけたのではないか。そんな反省が頭を駆け巡りました。

間もなく異変は治まったため、医師の診察は受けず、その日は近くの野尻湖畔にテントを張って休みました。翌日には前日の体調不良が嘘のように完全復調し、無事に仙台へと戻ることができたのです。

「あの時の過酷な負荷が、今回の心臓弁膜症の原因になったのではないか……」

今でもそんな思いが過りますが、その医学的な関連性が無かったのかもしれませんが……。

(第2回に続く)

 更新予定は、日、月、水、金曜日です。