映画「星の子」
僕は新興宗教を信仰する家庭に育った。
それは戦後に生まれた宗教で他の宗教から分離することで生まれた。
別府が本拠地で信者数も少ないとてもアットホームな宗教だ。
色々な神様にお参りするのが好きな祖母から我が家の信仰は始まった。
祖母のお使いで色々な宗教に出向いた父が唯一この宗教なら本物で信じられると思ったそうだ。
僕が5歳の時に僕の父は28歳でその宗教の本部に勤める事になった。
それから亡くなるまでの10年間熱心にその宗教で働いた。
その宗教を僕は非常に常識的だと思っていたけど、世間から見ると変わっている事も沢山あったと思う。
ただとても貧乏な宗教で信者に何かを売りつけて儲けようと言うような事はあまりなかった。
生まれた時から信者である僕は信仰三世だったので自然にその宗教の習わしと教えで育った。
ただ僕は悪ガキだったし、両親も模範的な親ではなかったので僕は歪に育った部分がある。
僕は父親が普通の仕事ではなく宗教の職員として働いている事をとても恥ずかしく思っていた。
ただ父親は親戚の間で評判が良かったので悪く言う人はいなかった。
他人を勧誘したりしないのも良かったと思う。
僕の考え方の根底には自然にその宗教の教えがある。
僕は病気が発症した27歳の時に大分に帰って1年半の間その宗教の本部で奉仕をさせてもらった。
また32歳の時に病気が再発した時に大分に戻ってその宗教を熱心に信仰している伯父さん夫婦の家でお世話になった。
僕は2度も心が病んでしまった大きな挫折の時期に物理的にも精神的にもその宗教に助けられた。
その間、薬を服用することなく病気を治そうとしていた。
昔その宗教では薬を良しとしないような所があり、僕は大人になるまで薬を飲んだことがなかった。
その経験から薬に頼らなかったのだ。
ただ、病気が悪化し措置入院させられた。
僕は宗教の力では手に負えず、病院に入院して治療したのだ。
その時の経験から僕が宗教に頼り病気ときちんと向き合わないのは僕の病気には良くないと理解した。
宗教そのものより宗教の中の人間関係も嫌になった。
そこから僕は名前ばかりの在籍で宗教を棄教した状態が現在である。
僕は神に祈ることを止めたし、宗教に頼る事は無くなった。
その事で僕は自分のコアな部分を失ったような喪失感を感じた。
僕は生まれながらにその宗教に属して良かったのは、邪悪な宗教に属さないですんだことだ。
以前にも書いたが僕は様々な宗教に属する女性と付き合った。
他の宗教を熱心に信じる友達とも仲良くなった。
僕は心が弱い所があるのでもし自分が属する宗教が無かったら他の宗教に属することは十分考えられる。
その宗教がとんでもないものである可能性もある。
そういったものが僕の本質に触れることが無いという事は良かった。
この映画は新興宗教を熱心に信じる両親に育てられた女の子の話だ。
この宗教は穏やかだが奇行に見える儀式をする。
思春期の少女はそんな両親を恥ずかしく思う。
僕はその女の子の気持ちがすごく理解できた。
一方でその宗教を非難する側の人間の気持ちも分かるのだ。
描かれた宗教が邪悪なものではなく傍から理解できないものとして描かれている点がすごく良かった。
少女に関わる人たちそれぞれの立場での視点もリアルな気がした。
宗教に属した事のない人が宗教の一部を理解する上において、また、宗教に属している人が自分たちがどう見られているか理解する上において、ためになる映画だと思う。