色彩を持たない村上春樹の悪影響
少し前の話なんだけど、その当時話題だった「色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ。
僕の住む別府の田舎の本屋でも売り切れが続出するぐらいの大ヒットだった。
僕はアマゾンで購入した(アマゾンと言えば、僕の彼女はアマゾンの事を「アメイゾン」って呼び、アシックスの事を「エイシックス」って呼ぶんだけど、あれは正しい発音なんだろうか。英語を習いながらケチつける訳じゃないけど、彼女もネイティブではないので知らない発音を聞くと時々戸惑う)。
読んだ後に感じたのは違和感だった。
何に何処に違和感を感じたのか分からなかったけど、スッキリしない読後感だった。
そのスッキリしない感を説明してくれたものが、アマゾンのその本のレビューで最も支持を受けていた「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」だった。
僕の感じた違和感を的確に言い表していて納得した。
けど次の新作が出るとまた僕は読むんだと思う。
その理由としては、僕にとってはすごく個人的に共感できて納得できる部分が必ず一つや二つ見つけられるという事だ。
前作の「1Q84」は強制的に入院させられていた精神病院の中で読んだ。
それも確か友だちの竜が買ってきてくれたのだ。
話がそれるけど、その当時、竜には本当にお世話になった。
僕がそんな場所に入れられていると聞くと毎週大量のお菓子を持ってきてくれ、居心地の悪いその場所で何時間もバカ話をしてくれた。
本当に感謝している。人の優しさってのはやはり調子のいい時は知らんぷりしていたり疎遠であっても、本当に困った時には近づいて手を差し伸べることだと思う。
けど、矛盾するようだけど弱っている時や参っている時は顔を見せず・連絡を取らずに、調子が良くなった時に顔を見せてちょっと調子悪くしていてねぇっていう事が助けられる側の姿勢としては大切である(これは自転車の師匠の山田さんの教えだ)。
先日、やっと訪ねることが出来た「Barききゅう」で高木ちゃんに「来るの遅いよ」って言われて「元気じゃない僕なんて見たくないでしょう」なんて返しは師匠の教えを守っているという事だと思う。
話を戻すと入院中に読んだ「1Q84」では親の影響で自分の選択ではなく宗教に属して子供の頃から価値観を植え付けられる事を真面目に考えていた時だったので主人公の一人「空豆」に共感した。
また、その当時の村上春樹のインタビューを見て、原理主義の怖さについて僕なりに深く考えた。
今回の「色彩~」で言えば、冒頭、常に死の淵に立つ田崎くんは正に希死念慮に憑りつかれた時の僕だった。
一緒に飲んだ時に僕の希死念慮や死生観について「僕はもし誰にも迷惑を掛けないのだった、それでいて苦しまないことが分かっていたら、居酒屋で従業員を呼ぶように自分が死ぬボタンを躊躇なく押せるんですよね」って僕が言っていたことから同僚の康郎さんはこの本を店で立ち読みし、最初の2~3ページを読んで、「これあなたの事じゃないですか」って僕に言っていたからドンピシャで鬱の時の僕の状態と一致する。
既述のレビューには、田崎君は一見「ぼっち」で「孤独」で共感できる人間と思えるのだけど、実は裕福で、自分で勝手に孤独だと思い込んでいるだけで、オシャレで、女性にももてて全然共感できないあんな奴は現実にいない。そこが童貞の孤独なサラリーマンの妄想のような小説だと評していた。
中々、的を得ていて僕の感じた違和感と相違がなかった。
しかし、新たな発見や学ぶことは少ないにしても、この小説の中にも僕が共感できる部分がいくつかは確実にあった。
僕が初めて村上春樹の小説を読んだのは中学生の時の「ノルウェイの森」であった。
ちょっとしたブームとなった、その緑と赤の小説は僕の通っていた中学では過激的な性描写が中学生に相応しくないとのことで、すぐに図書室のバックヤードに隠され生徒への貸出禁止とされた。
しかし、仲の良かった図書の先生にこっそり借りて読んだその本は、僕にその過激的な性描写だけではなく読後に僕の心に残るものがあった。
それから、機を見ては過去の村上春樹の小説をいくつも読んだ。
村上春樹の小説から僕は色んなことを学んだ。
「小確幸」や「文化的雪かき」はもちろんの事。ハンディーキャップのある女の子と恋愛することの良さと難しさ、ソファーを選ぶ事に真剣に取り組むことの重要性、女性禁煙者の煙草の上手な消し方、高級スポーツカーよりもスバル車を選ぶことの居心地の良さ、BARでの気持ち良い過ごし方・・・等々、今日ではあまり意味をなさない事も多いけど、関心を持って多くの事を学んでいた気がする。
僕は多分に村上春樹の小説に影響を受けている。
その中にはもちろん良い影響も悪い影響もあるんだけど、今回の小説を読んだ後に気付いた悪影響が村上小説における「ガールフレンド」という概念だ。
村上小説の主人公には多くは「ガールフレンド」をもつ。
その「ガールフレンド」の概念とは、彼女や妻のようなパートナーではないけどSEXをし、セックスフレンドみたいにそれだけの関係ではなく、好意もありデートをするのだ。お互いになんの縛りもなく、いつか関係が女性から解消される。
このブログで僕が書く「ガールフレンド」も同じ意味だ。
僕はこれまで少なくない人数のガールフレンドと付き合ってきた。
特に付き合いやすいのは人妻だった。
けど、それらのガールフレンドは機を見て僕の元を上手に去って行った。
少ししか落ち込まなかった時もあるし、鬱になるほどの喪失感を味わったこともあった。
今現在、僕は婚約中でもうすぐ結婚の予定だ。
今の僕の考えでは「ガールフレンド」というような曖昧な関係は存在せず、ただのセックスフレンドかお付き合いまで発展しない未熟な恋愛なんだと思う。
既述のプレビューに書いてあるようにそんな都合の良い恋愛ができる男はそうそういないというのが現実なのだと思う。
これからは婚約者一人に絞って共に白髪の生えるまで添い遂げたい。
今回の小説で村上春樹のガールフレンドに関する呪縛からは逃れられた気がする。
これまで付き合ってくれたガールフレンド達に感謝とともに深い謝罪をしたい。
これから村上春樹の小説を買う時は、いい年したサラリーマンがスーツ姿で、昔ながらの習慣で週刊少年ジャンプを堂々と買うのとは異なり、ちょっと恥ずかしげに昔から読んでたからという理由で恥ずかしそうに村上春樹の新刊を読み続ける事にする。
僕の住む別府の田舎の本屋でも売り切れが続出するぐらいの大ヒットだった。
僕はアマゾンで購入した(アマゾンと言えば、僕の彼女はアマゾンの事を「アメイゾン」って呼び、アシックスの事を「エイシックス」って呼ぶんだけど、あれは正しい発音なんだろうか。英語を習いながらケチつける訳じゃないけど、彼女もネイティブではないので知らない発音を聞くと時々戸惑う)。
読んだ後に感じたのは違和感だった。
何に何処に違和感を感じたのか分からなかったけど、スッキリしない読後感だった。
そのスッキリしない感を説明してくれたものが、アマゾンのその本のレビューで最も支持を受けていた「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」だった。
僕の感じた違和感を的確に言い表していて納得した。
けど次の新作が出るとまた僕は読むんだと思う。
その理由としては、僕にとってはすごく個人的に共感できて納得できる部分が必ず一つや二つ見つけられるという事だ。
前作の「1Q84」は強制的に入院させられていた精神病院の中で読んだ。
それも確か友だちの竜が買ってきてくれたのだ。
話がそれるけど、その当時、竜には本当にお世話になった。
僕がそんな場所に入れられていると聞くと毎週大量のお菓子を持ってきてくれ、居心地の悪いその場所で何時間もバカ話をしてくれた。
本当に感謝している。人の優しさってのはやはり調子のいい時は知らんぷりしていたり疎遠であっても、本当に困った時には近づいて手を差し伸べることだと思う。
けど、矛盾するようだけど弱っている時や参っている時は顔を見せず・連絡を取らずに、調子が良くなった時に顔を見せてちょっと調子悪くしていてねぇっていう事が助けられる側の姿勢としては大切である(これは自転車の師匠の山田さんの教えだ)。
先日、やっと訪ねることが出来た「Barききゅう」で高木ちゃんに「来るの遅いよ」って言われて「元気じゃない僕なんて見たくないでしょう」なんて返しは師匠の教えを守っているという事だと思う。
話を戻すと入院中に読んだ「1Q84」では親の影響で自分の選択ではなく宗教に属して子供の頃から価値観を植え付けられる事を真面目に考えていた時だったので主人公の一人「空豆」に共感した。
また、その当時の村上春樹のインタビューを見て、原理主義の怖さについて僕なりに深く考えた。
今回の「色彩~」で言えば、冒頭、常に死の淵に立つ田崎くんは正に希死念慮に憑りつかれた時の僕だった。
一緒に飲んだ時に僕の希死念慮や死生観について「僕はもし誰にも迷惑を掛けないのだった、それでいて苦しまないことが分かっていたら、居酒屋で従業員を呼ぶように自分が死ぬボタンを躊躇なく押せるんですよね」って僕が言っていたことから同僚の康郎さんはこの本を店で立ち読みし、最初の2~3ページを読んで、「これあなたの事じゃないですか」って僕に言っていたからドンピシャで鬱の時の僕の状態と一致する。
既述のレビューには、田崎君は一見「ぼっち」で「孤独」で共感できる人間と思えるのだけど、実は裕福で、自分で勝手に孤独だと思い込んでいるだけで、オシャレで、女性にももてて全然共感できないあんな奴は現実にいない。そこが童貞の孤独なサラリーマンの妄想のような小説だと評していた。
中々、的を得ていて僕の感じた違和感と相違がなかった。
しかし、新たな発見や学ぶことは少ないにしても、この小説の中にも僕が共感できる部分がいくつかは確実にあった。
僕が初めて村上春樹の小説を読んだのは中学生の時の「ノルウェイの森」であった。
ちょっとしたブームとなった、その緑と赤の小説は僕の通っていた中学では過激的な性描写が中学生に相応しくないとのことで、すぐに図書室のバックヤードに隠され生徒への貸出禁止とされた。
しかし、仲の良かった図書の先生にこっそり借りて読んだその本は、僕にその過激的な性描写だけではなく読後に僕の心に残るものがあった。
それから、機を見ては過去の村上春樹の小説をいくつも読んだ。
村上春樹の小説から僕は色んなことを学んだ。
「小確幸」や「文化的雪かき」はもちろんの事。ハンディーキャップのある女の子と恋愛することの良さと難しさ、ソファーを選ぶ事に真剣に取り組むことの重要性、女性禁煙者の煙草の上手な消し方、高級スポーツカーよりもスバル車を選ぶことの居心地の良さ、BARでの気持ち良い過ごし方・・・等々、今日ではあまり意味をなさない事も多いけど、関心を持って多くの事を学んでいた気がする。
僕は多分に村上春樹の小説に影響を受けている。
その中にはもちろん良い影響も悪い影響もあるんだけど、今回の小説を読んだ後に気付いた悪影響が村上小説における「ガールフレンド」という概念だ。
村上小説の主人公には多くは「ガールフレンド」をもつ。
その「ガールフレンド」の概念とは、彼女や妻のようなパートナーではないけどSEXをし、セックスフレンドみたいにそれだけの関係ではなく、好意もありデートをするのだ。お互いになんの縛りもなく、いつか関係が女性から解消される。
このブログで僕が書く「ガールフレンド」も同じ意味だ。
僕はこれまで少なくない人数のガールフレンドと付き合ってきた。
特に付き合いやすいのは人妻だった。
けど、それらのガールフレンドは機を見て僕の元を上手に去って行った。
少ししか落ち込まなかった時もあるし、鬱になるほどの喪失感を味わったこともあった。
今現在、僕は婚約中でもうすぐ結婚の予定だ。
今の僕の考えでは「ガールフレンド」というような曖昧な関係は存在せず、ただのセックスフレンドかお付き合いまで発展しない未熟な恋愛なんだと思う。
既述のプレビューに書いてあるようにそんな都合の良い恋愛ができる男はそうそういないというのが現実なのだと思う。
これからは婚約者一人に絞って共に白髪の生えるまで添い遂げたい。
今回の小説で村上春樹のガールフレンドに関する呪縛からは逃れられた気がする。
これまで付き合ってくれたガールフレンド達に感謝とともに深い謝罪をしたい。
これから村上春樹の小説を買う時は、いい年したサラリーマンがスーツ姿で、昔ながらの習慣で週刊少年ジャンプを堂々と買うのとは異なり、ちょっと恥ずかしげに昔から読んでたからという理由で恥ずかしそうに村上春樹の新刊を読み続ける事にする。