料理や掃除をしていると、妻によく手順を注意される。
仕事はともかく家では自分は手順を気にしない。
うんざりするほどやってないからだと思う。
苦痛を感じるほどその作業をやり込めば、そりゃ効率化を考えるだろう。
要は、うんざりするほどまず体験するのが先で、効率化はその後の話じゃないのということだ。
効率化やら、コストパフォーマンスやら、そういう言説がネットでは出回っている。
企業ならば利潤を追求するものだから、それは当たり前だろう。
だが、個人の領域にまで当てはめるのはいかがなものか。
そもそも人生の目的はコスパじゃないだろう。
趣味のDTMの各種掲示板やサイトやらを覗くと、初心者だろうけど、やり始める前から心配性が目立つ。
思う結果が得られなかったら、そこにかけた時間と費用がもったいないんですけど、やったほうがいいですか、みたいな。
可視化が進んだ弊害だとは思うが、結果の予想がつくと行動力の減退に陥る、そのマイナス面にもっと目を配ったほうがよい。
特に子どもたちにたいしてはだ。
子どもは、世の中の仕組みを理解しなくても、その時代の空気感を当たり前のものとして育つ。
そんなのやっても意味ないでしょ、と人生経験未熟な段階で言ってほしくないなぁ。
うんざりするまでの過程には、当然喜びもあるわけだ。ささやかながらも得難いものが。
最終的につまらなくなったり、苦痛と化したりするにせよ、その過程を全否定するのは悪手だと思う。
そこまでやることに当人には意味があるのだ。その体験の積み重ねがその人なりの「尺度」を作ってくれるはずだ。
もっとも、うんざりしたあともやらせるのは、昭和的価値観であれだが。
人類は誕生以来「わからないもの」と格闘し、解明し、「わかるもの」に変えてきた。他の生物にはない特徴だ。
それでも「わからないもの」は存在するし、常にリスクを孕んでいる。同時に、挑戦する楽しみも埋まっている。
「わからないもの」を忌避し、リスクを過大視するのが昨今の風潮だろう。
もう少し鷹揚に構えられたら生きやすいのにと思っている。