私、この人の考え方に、ものすごい鐘が鳴ります!!


不登校新聞より、記事をそのまんま移したいと思います。



…………… ここから転載 …………

不登校新聞400号に寄せて
~香科舎代表 辛 淑玉 ~

『死ぬな、ここにおいで』


朝、どんなに体調が悪くても決まった時間に起きて学校に行き、選べない教室で、選べない教師から、選べない科目を教えられ、じっと動かず、決められた人間関係と囲われた世界の中で何年もの時間を過ごす。

そこに1日も欠かさず通い続ければ「皆勤賞」と褒められる。

そして、逆らわないまま社会に出て、その労働力と、人生の時間と魂を、資本家・企業に捧げ続ける。


しかし、寝る間を惜しんで働いても、多くは、楽な生活はできない。


「部活動」は、理不尽なことにどれだけ耐えられるかを試される、もう一つの鍛錬の場だ。

「働く」というのはこういうことだと、部活の場で教えられる。

だから、体育会系の部活を経た者のほうが使いやすいとされ、バイトも決まりやすい。

こうやって、感情というものが麻痺させられていく。


疑問を持つということは、自らの意思を持つということで、それは、支配する側からすれば、一番迷惑なことだ。

だから、何も考えるな、ここから外れたら終わりなんだ、と洗脳し続ける。


福島第一原発の事故後、「100ミリシーベルトまで安全です、ニコニコしていれば放射能は来ません。」と言っていた話とそっくりだ。

放射能がじっくりと、体の内部で異常を起こしていくのと同じように、いまの学校教育は、人の心を壊す空間となっている。


米国の授業では、教師が「テイク・ユア・タイム」とよく言う。試験時間が決まっていないのだ。

自分が納得するまで時間をかけて書いていい。それは、さまざまな資格を取るときも同じだ。

運転免許も、筆記試験に時間制限はない。だから、書くのに時間がかかる個性の人も取得可能だ。


トルコに行ったとき、1日に4回も5回もお祈りをして、お茶を飲み、店を閉めておしゃべりしている人たちを見て、ここで流れている時間はまったくちがうことを感じた。


豊かさとか便利さ、文明といった言葉に騙されて、人生の多くの歓びを感じることも、深く考えることも、手を取り合うことも忘れて、「金」のために生きることを強いられる。



「東京シューレ」は、多様な選択肢を開く窓口となった。

社会はその後ろから、おずおずとついて来てはいるが、その先は、まだ、つながっていない。


しかし、尊厳ある生き方を選択する人たちが続々と現れてきた。

拳を振り上げるのではなく、「行かない」ということでNOを突きつけたのだ。

人間はまだ捨てたものではないなと思った。



教育評論家の友人の家では、毎週水曜日、学校を休んで家族で遊びに行くという。

「あんなところに毎日行ってたらおかしくなるよ。だからリフレッシュ休暇が必要なんだ。」と。

そして、水曜日ならどこに行っても空いてるし、安いし、とニコニコ顔。

その友人がある日、嬉しそうに「やってくれたのよ、私の娘」と言ってきた。
話を聞くと、教室で消化器をぶちまけたのだという。
何かあったのだろうが、徹底的に意思表示をしたのはあっぱれなことだ。
友人もケラケラ笑っていた。

こういう親でありたいと私も思った。
「世間様」なんてクソ食らえだ。

しかし、私だって、子供の将来をと言いながら自分の安心ばかり求めるような親にならないという保証はない。

現実にはこどもがいないため、私には子どもを通して自分の愚かさをたしかめる機会はないが、こんな社会を残してしまって若い人たちには申し訳ない、と本当に思っている。


『不登校新聞』は、命をつなぐ新聞だ。ここにおいでよ。苦しんで、死と向き合って、優しさを獲得した仲間がたくさんいるから。


………… 転載ここまで ……………




どうですか?
私は隅から隅まで、うなずきまくりです(*^◯^*)


心,感情,命こそ大切にしなきゃならないのに、置き去りだと感じます。


私は母になる準備、雑誌を見ながらしましたが、心の準備は誰も教えてくれませんでした。


その結果、私も娘も苦しんできました。


私はラッキーなことに、インナーチャイルドセラピーに出会えたので、2年前から、自分を癒すことに取り組めていますし、子供の意思に耳を傾けることも以前より出来てます。


何より、子供という存在が不完全な幼稚なものだという世の中の扱いのほうが間違っていることに気付けてます。



これに気付けている事は、今の日本では、本当にラッキーな事だと思います。


『ブライト・ライフ・アカデミー』に感謝します。



まだまだ、親としての愚かさを、娘を通して確認させられっぱなしですがf^_^;)









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