この記事は、安岡明夫氏の Yahooブログ『空海のタントラ仏教とチベット』の一部を自分用に編集して保存しておいたものですが、この資料を誰でも見れるようにと思い、公開することにしました。Yahooブログの終了に伴い、「空海とタントラ」の記事が見れなくなってしまったからです。

 

※ リンクと👆マークの下の文は私が付加したものです。「空海とタントラ」の記事ではありません。

 

なお、RAPT BLOG で元記事の一部が転載されていますので、興味のある方は御覧ください。

 

<閲覧注意>チベットは悪魔崇拝の聖地です(RAPT BLOG)

 

「チベット仏教」なる悪魔教を国教とするブータンが世界一幸福な国であるという大嘘(RAPT BLOG)

 

 

空海

小野岑守(みねもり)が陸奥守に任ぜられた時、『遍照発揮性霊集』の第一巻『野陸州に贈る歌』で、空海は次のように言っている。

「蝦夷は人間ではなく、鬼、虎や豹、オオカミの類いであり、天皇の言うことを聞かない。だから大いに殺しなさい。」

 

「エミシ」とは何か(PDF)

 

現代の日本が腐敗する原因を作った犯人は、「密教」を広めた「空海」です(Blog)

 

 

真言宗

タントラ(後期密教聖典の通称)の1つの面として、社会福祉事業のボランティア活動を大いに行うことがあった。空海も、ボランティア活動に力を入れた。

 

これによって密教の信用が確立すると、多くの人がお布施をするようになり、寺の財産が急速に増えた。

 

この財産を狙って、貴族が自分の子供を寺に入門させるようになった。彼らが厳しい修業に耐えた理由は、兄弟の中で上の者が家の跡を継ぐため、自分たちは寺の中で立身出世する以外に道がなかったからだ。そして貴族の子供は、親が寺に寄付するため、出世も早かった。

 

そして、彼らが最後に到達したところには、最高指導者だけが読んでいいとされる、密教の教義があった。

👆

真言密教は、空海によって完成された秘密の仏教であり、大乗仏教の到達点に立つ。

その特徴は「即身成仏(生きたまま仏になる)」思想。

 

 

こうして真言宗は上から腐っていった。常に権力者に取り入り、悪事に誘い込む真言僧が後を絶たなかった。日本史上に輝く悪僧列伝の多くが真言僧なのだ。

👆

安倍晋三の指南役である 池口恵観 も真言宗の僧侶。

 

 

徳川綱吉の『生類憐みの令』によって、多くの人々が死罪となり、また犬を大量に飼うための重税に泣かされた。この憐みの令を仕組んだ人物は、真言宗の僧 「隆光」である。
 

綱吉は、『憐みの令』の5年前に男子を亡くして以来、子が出来なかった。

そこで(母の桂昌院が尊崇し、綱吉も帰依していた)隆光は、「世継が生まれないのは前世で殺生を行った報いだ」と言い、綱吉が戌(いぬ)年生まれのため、特に犬を全力で大切にし、人々にもそう命じるよう勧めた。また犬への供養のため、自分に多くの布施をすることも勧めた。こうして『憐みの令』は24年間続いた。

 

 

日本密教と チベット密教

ダライラマ14世によると、日本密教と チベット密教(チベット仏教)の共通点は、『所作タントラ』『行タントラ(大日経)』『ヨーガタントラ(金剛頂経)』であり、

違いは『無上ヨーガタントラ』が日本に伝わらなかった点だ、だから チベットの方が日本より高度だという。

👆

密教の区分

大日経を基に描かれた曼荼羅が『胎蔵界曼荼羅』、金剛頂経を基に描かれた曼荼羅が『金剛界曼荼羅』、両方を合わせて『両界曼荼羅』という。これらの曼荼羅に真言密教の奥義や宇宙観が図示されている(Site)。

胎蔵界曼荼羅は、(真言密教の最高仏である)大日如来の説く真理や悟りの境地を視覚的に表現したもの。

『胎蔵界=マトリックス=女性の子宮』らしい( Blog1 Blog2 )。

中沢新一によれば、理想の曼荼羅は『無数の渦巻』らしい(Site)。

渦巻といえば、『カタカムナ』『女神運動』『三脚巴』である。

一説によると、カタカムナが支那(中国)に伝わって老子の教えとしてまとめられ、それが日本に伝わって神道になったという( Site1 Site2 )。

 

曼荼羅の意味をひもとく

👆

男女の矛盾の一体化(=金剛界と胎蔵界の一体化)を受け入れる思想が、両界曼荼羅に描かれているという。今で言うところの LGBT思想か。

 

ユングのマンダラと密教の曼荼羅

👆

ユングのマンダラには、対立概念を統合する意味があるらしい。

曼荼羅と『ユングの集合的無意識』には、関係があるらしい( Site blog )。

ユングは、集合的無意識に言及した書として、老子を受容したという(Wiki)。

ユング心理学は悪魔崇拝と関係がある(RAPT BLOG)。

 

 

後期密教の代表的なタントラのいくつかが、11世紀になって漢訳されることになった。

 

しかし中国社会では、仏教タントラの思想はそのままの形で受け入れられず、また翻訳者の力量不足からか誤訳や曲解が目立ち、本来の精神は全く生かされずに終わった。
 

日本密教は8世紀までの中国密教を受け継いだため、空海の伝えた密教経典には『無上ヨーガタントラ』は含まれなかった。

 

チベット密教の各派の中で、ダライラマの属する『ゲルク派』はまともな方だといわれている。ゲルク派では、密教修業の前に顕教の修行をみっちりと行い、相当な人格が出来てから性的ヨーガを行うので、性欲を既に克服した僧が多いといわれている。

 

タントラとチベット仏教

 

「性秘儀」と「女人禁制」の密教史  

 

 

真言宗立川流

チベット密教張りの性的ヨーガを行い、性行為と殺人を大々的に行なった立川流の正統的なものは、既に消滅している。時々「オウム真理教」のような派が発生するが、それはあくまでも傍流である。

 

立川流は、現在の東京都立川市と関係がある。

1113年に無実の罪を着せられて伊豆に流された「仁寛(にんかん)」が、そこで立川市出身の陰陽師「見蓮」と出会い、立川流を創始したといわれている。

 

立川流の大成者は「文観(もんかん)」であるとされる。文観は、後醍醐天皇(南朝)の側近中の側近だった。文観は、立川流の奥義を後醍醐天皇にも伝えたとされる。

 

魔術王・後醍醐 

 

「彼の法」集団

 

立川流が滅びた理由は、後醍醐天皇と文観が室町幕府に敗北したからである。

立川流が滅びたため、その後、真言宗の主流は、常に自分達と立川流との違いを際立たせなければならなかった。サバイバルの道がそれしかなかった。
 
一方、チベットでは、『無上ヨーガタントラ』勢力が武力抗争を勝ち抜いたため、その後の歴史の進行がストップしてしまい、何の進歩もない、凍りついたような中世社会が数百年にも渡って続くことになった。

 

 

チベットと中国

(いん)王朝では、チベット人を神へ生贄としてささげていた。

 

チベット系遊牧民の(きょう)は、殷の甲骨文字に人身御供(ひとみごくう)として登場する。

 

チベット人を生贄にすることは、王が死んだ時だけでなく、何らかのお祭りの際にしょっちゅう行なっていたことである。

 

殷は、黄河中流域を支配圏とした漢民族の王朝である。この殷が毎年チベット人を生贄にしていたことからも分かるように、昔のチベット人は 、ヒマラヤの近くだけに住んでいたのではない。当時は、中国西北部の草原(=西域と呼ばれる地方)に多く住んでいたと思われる。

 

生贄の歴史 

 

rapt-neo(インスタ)

 

 

チベット仏教と モンゴル

クビライカアンは、チベット仏教をモンゴルに国家的規模で導入した、最初の王である。
 

1260年、クビライは、即位と同時にチベットの高僧「パクパ」を国師に任命し、チベットの支配を彼に委ねた。クビライは パクパから『ヘーヴァジラタントラ』の灌頂(かんじょう)を受けた。

👆

クビライカアンの祖父は「チンギスカン」である。

「チンギスカン=源義経」なる説がある(Wiki)。 RAPT BLOG も参照。

 

 

■ ダライラマ5世

チベット密教指導者と蒙古王・清朝との関係は「お寺と檀家の関係」で、一方が領土を布施し、一方が教えを垂れる関係だった。

 

ところが、こうした関係を激変させる事件が起きた。

 

清朝は、1670年代半ばまで、モンゴリアの問題にはダライラマの権威を活用して解決する方針をとっていた。

 

呉三桂の起こした三藩の乱(=清に対する反乱)に際し、ダライラマは、清朝に協力することを約束した。

ところが ダライラマは、呉三桂側の使者と会ううちに、清朝側が不利だと分かると、清朝に協力する約束を果たししぶり、ついには、呉三桂の助命を清朝に嘆願するにさえ至った。

 

これに加えて、ダライラマの配下に援軍を求めた呉三桂の書を、清朝側が差し押さえたことから、清朝は、ダライラマに対する不信感を持ち、1680年代以降、明確にダライラマの権威を無視する態度を表明し始めた。

 

清朝を恐れたダライラマは、摂政のサンギェギャツォに後事を托して、1682年に没した。この時から、清朝とチベットの関係は「お寺と檀家の関係」でなくなった。

 

 

■ ダライラマ 14世

チベットでは、ダライラマの大便と小便をこねて薬なるものを作り、それを一般民衆は有り難がっていた。「年貢を完納しないと地獄に落ちるぞ」「高僧の言うことを聞かなければ極楽に行けないぞ」と脅して、民衆を支配していた。

 

1951年に中国がチベット全土を制圧して併合した後、中国政府は 、チベットの運営をダライラマ政権の自治に任せた。理由は、ダライラマたちが民衆の生活を徐々に向上させることを約束したからである。ところが、ダライラマ政権はまったく約束を守らなかった。

 

いよいよ中国政府が本気になってチベット住民の生活向上を実現させようとしていることを、ダライラマは知った。これでは、農・牧民から甘い汁を絞り続けてきた状態を変えなければいけなくなる。中国政府は、現状をいきなり変えるのではなく、徐々に変えていこうとしたのだが、それさえもダライラマたちには我慢のできないことだった。

 

1958年、青海省・甘粛(かんしゅく)省内のチベット族地区では、自覚した農・牧民の間で民主改革運動が広がった。小作料と利息の引き下げ、ラマ寺院内の裁判所と牢獄の廃止、ラマ僧の還俗帰農の自由などを訴えた。

 

大衆は立ち上がってラマ寺を捜査した。そして、香日徳寺の中から、虐殺された農奴の頭蓋骨10個、農奴の切り取った手足で作った笛、隠匿した多数の武器などを暴き出した。さらに「人骨の数珠」や、寺院建設のために子供を箱詰めにした人柱も発見した。

 

中国政府は当初、チベット密教である『秘密金剛乗』が一般の宗教に比べて特に大きな問題はないと考えたので、ダライラマ政権にチベットの自治を任せたのだと思われる。

 

しかし、その考えが間違いだと知ったのは、1959年に(ダライラマがチベット住民を脅迫して起こさせた)『チベット蜂起』を鎮圧した後だった(ダライラマたちは外国に逃亡)。

 

人民解放軍の援助を受けた「農・牧民協会」は、領主やラマ寺の牢獄を解き放ち、笞(しもと)や拷問道具を没収し、巨額な小作料や借金利子の証文を焼き、強制労働・奴隷労働の契約書を焼いた。農奴や牧奴は凱歌を上げて、千年の鎖を打ち壊した。

👆

中国共産党(中央統一戦線工作部)は現在、チベット仏教が社会主義社会に適合するように工作している( アーカイブ1 アーカイブ2 )。

「宗教が社会主義社会に適合する」とは、中共の管理・指導の下、宗教が中国社会に奉仕し、宗教が社会主義制度を支持する、という意味である。

中国でも「宗教の自由」が保障されているが、それはあくまで中共の管理下においてであって、日本で保障されている「信教の自由」と異なる。

 

Sinicization of Tibet〔チベットの中国化〕(Wiki)

 

CIAチベット計画(Wiki)

 

チベットの本当の歴史 

👆

中国共産党によるプロパガンダの可能性が非常に高い。しかし、仮にプロパガンダだとしても、それでチベット仏教がまともな宗教ということにはならない。

 

天下老照片(チベットの古い写真)

 

------------------------------------------------------

 

宋王朝の宗教改革

907年に唐が滅びると、五代十国時代が約60年続いたが、その半分の期間はトルコ族の王朝だった。だから、979年に宋が全国統一に成功し、トルコ族を打倒したとき、漢民族の喜びは計り知れないものがあった。

 

このような中で、唐の時代に盛んであった(外来宗教の)仏教に厳しい目が向けられた。

 

唐の時代には、儒教・仏教・道教の3つの中で、知識人の思いは最も仏教に注がれていた。というのは、中国古来の儒教・道教は、インド仏教の高邁さや、深く考え抜かれた巨大な理論体系に比較すると、浅薄(せんぱく)だったからである。

 

こうして宗教改革が始まった。

儒教は大きくその性格を変え、『宋学』『朱子学』に発展していった。

 

宋学・朱子学は、仏教化された儒教だった。現世利益中心、上下意識・身分意識の徹底は飽くまでも変えなかったが、それ以外は、仏教の理論体系も、修行方法や座禅も全て取り入れた。

👆

後醍醐天皇は、宋学(朱子学)に傾倒し、君主独裁を目指した(Site)。

徳川幕府も支配原理として朱子学を採用した。

「教育勅語」や「軍人勅諭」も朱子学に影響を受けている(Wiki)。

日本が朱子学に毒されなかったのは、天皇家のおかげらしい(Site)。

 

儒教の法制化と女性への影響(pdf)

 

同じく道教も仏教化が進んだ。その一方、人々から厳しい目を向けられ始めた仏教側では、逆に道教化が図られた(これが中国禅宗)。 この時、なぜ仏教の儒教化が目指されなかったのかは分からない。
 

 

道教

中国・台湾では、儒教を信じる人よりも、道教を信じる人の方が圧倒的に多い。

 

その理由は

① 中国の民族宗教が道教だから

② 儒教は、孔子によって新しく開かれた敬天の宗教(事実上の一神教)であり、主として支配層の知識人に信仰されてきたから

  

道教は、神道と極めてよく似た多神教であり、あらゆる モノ を神々として取り込んでいる。天帝や釈迦から孫悟空、老子や荘子、三国時代の英雄まで神にしている。

👆

道教の神々(Wiki)。

道教と中国神話における天地創造神は、盤古 (=元始天皇)である。

盤古は盤牛王ともいい、牛頭天王やスサノオと習合されている( Wiki )。

道教の教義書『崆峒問答』では、元始天皇は毘盧遮那仏(=大日如来)とされている( Wiki )。

元始天皇の女性的化身が斗母元君である(Googleブックス)。

斗母元君の子は、天皇大帝(=北辰)と北斗七星である。

北辰・北斗七星信仰は、アッシリアやバビロニアなどの西アジア砂漠地帯の遊牧民から、インド経由で中国に伝わり、道教に取り入れられ、そのあと密教に影響を与えた( Blog )。(アッシリアとバビロニアは、ユダヤ人が捕囚として連れて行かれた地域である。)

ちなみに妙見信仰は、『北辰・北斗七星信仰』と『インドの菩薩信仰』が習合したもので、日本へは飛鳥時代(592年~710年)に伝わった( Wiki )。

空海は、真言密教の仏に妙見大菩薩を迎え入れている。日蓮は、北辰妙見菩薩のお告げを受けて、法華経を護持(ごじ)する誓いを立てている( Blog )。

秦氏も、妙見菩薩を信仰していた( Site )。

 

 

道教では、文献『老子』『荘子』などを聖典とし、座禅などの修行や薬によって、不老不死の仙人(=神々の一人)になることができるとしている。

👆

仙人を目指す修行者を道士(方士)という。

秦の始皇帝に仕えた徐福は方士だったといわれている。

「徐福=ユダヤ人」説がある( Site )。

日本各地に徐福伝説が存在する( Site )。

 

 

道教は、先祖崇拝とも結びついている。神道のように、死ねば直ちに神になれるという安直さはないが、結局、先祖は神と見なされる。

 

道教は、福・禄・寿(=幸福・出世・富・長命)の現世利益中心である。「長命のためには他の欲望を押さえる必要がある」とか「仙人になるには無欲でないといけない」などの主張もある。
 

文献の『老子』や『荘子』では、「現状を変えるのではなく、現状をそのまま認めてしまえ」といっている。

 

老子は、「無為自然、すなわち何も為すこと無く、自ずからにして然(しか)るようになっていくのにまかせればよい」といっている。
 

荘子は、「科学技術を生産に応用すれば、社会が進歩して慌ただしくなり、落ち着いた心がなくなるから、何もしないのが一番よい」といっている。
 

「無為自然でゆっくりと生きていれば 福・禄・寿にありつけるが、社会を良くしようなどと考えると憎まれて殺されてしまうのが落ちだ」というのが、道教の根本的な考え方

 

日本史を彩る道教の謎  

 

Anarchism and Taoism〔アナキズムと道教〕

👆

道教は、アナキズムの源泉なのだという。ちなみに、アナキズムとフリーメイソンの間には、密接な関係があるという( youtube )。 

 

世界紅卍字会(Wiki)

👆

道教系の宗教団体『道院』の思想を基に作られた慈善団体。中華民国政府の批准により組織された。道院と大本教(人類愛善会)は提携していた。

 

東アジア史に眠るユダヤの痕跡

👆

孔子と老子は ユダヤ人

孔子とその弟子の孟子は、次のように言っている。「石工の親方は、弟子を指導する際にコンパスと定規を使う。知恵の探求に携わる私たちも、コンパスと定規を使わなければならない。」( Site )。

儒教、特に孟子のイデオロギーは、中国フリーメイソンの起源なのだという( Site )。

ちなみに、論語を日本に伝えた人物は 王仁(わに)とされる。

 

 

中国禅宗

仏教改革の名の下に、仏教の中身を完全に入れ替えて道教化したものが中国禅宗。

すなわち、「看板は仏教、中身は道教」が中国禅宗。

 

ところで、仏教の看板の下で中身を完全に入れ替えることが、どうして可能だったのか。それは、『不立文字、ふりゅうもんじ』(文字を立てない)との標語の下に可能だったのである。

 

つまり、「これまで中国へ伝わった経典をいっさい問題にしない。我が宗においても、書物を書くことは一切やらない」と言ってしまえば、矛盾点を発見されることがなくなる、という訳であった。


しかし後になると、インドから伝わった経典の中に、禅宗にとって極めて都合のよい経が発見された。それが『大般若波羅蜜多経』である。

👆

この経のサンスクリット本は残存していない( Wiki )。

 

 

大般若波羅蜜多経は、釈迦の発言を収録したものではない。その作者は不明。百科事典2冊分くらいの膨大な経だが、その経を数秒間ひらいて呪文を唱えると、全て読んだこととされる( 転読 )。

 

これでもう不立文字の標語は必要なくなった。禅宗において、お経を読み上げたり、書物を書くことが次第に盛んになった。

 

中国禅宗とは

① これまでの仏教との伝統・繋がりを断ち切り

② 座禅や霊薬( 仙丹 )によって不老不死の仙人になることを目指し

③ 先祖を崇拝し

④ 現状維持を何よりも重視し

⑤ 無為自然によって福・禄・寿を目指す宗教

 

 

日本禅宗

禅宗が「栄西」によって最初に日本に伝えられた時、既に『大般若波羅蜜多経』が発見されており、不立文字の必要性はなくなっていた。

👆

栄西は、臨済宗(禅宗の一つ)の開祖であり、天台密教葉上流の祖。

 

 

なぜ禅僧の栄西がタントラ密教と関係し、ヒンドゥー教のシバ神供養の導師をやっているのか。それは、栄西の創建した臨済宗が密教と中国禅宗を混合したものだったからである。

 

日本禅宗は、中国禅宗と異なり、ヒンドゥー教・道教・神道の性格をすべて有する。

👆

「看板は仏教、中身は神道・道教・密教・ヒンドゥー教」が日本禅宗ということか。

日本の『禅』を海外に広く紹介した人物が鈴木大拙(だいせつ)。

鈴木は、仏教学者であるとともに神智学徒でもある。

鈴木は、スウェーデンボルグの思想を絶賛している( Site )。

スウェーデンボルグの思想を背景にしてスピリチュアル思想が誕生した。

スピリチュアルは、ルシファー信仰( RAPT BLOG )。

 

 

大般若波羅蜜多経

大般若波羅蜜多経は、『タントラ・ヴァジラヤーナ(秘密金剛乗)』であり、仏教の仮面を着けた、ヒンドゥー教の最悪の形態の経である。

 

(1)真言

般若波羅蜜多という行は、唐・宋の時代には、座禅をすることだと解釈された。

しかし、経の全文を読めば、「般若波羅蜜多は大神呪である」と明記されている。

👆

「呪」は、サンスクリット語の「マントラ」の訳語である。

大神呪の「神」は、原語にはなく、漢訳した時に付け加えられたものらしい。

初期仏教で呪術的色彩の強かった言葉「呪」が、大乗仏教で「真言」に置き換わった。すなわち、マントラ = 呪 = 真言

以上 Site を参照。

 

 

つまり般若波羅蜜多とは、マントラを唱えることであり、具体的には経の最後にある呪いの言葉を唱えることであり、経の最重要部分である。

 

だからこそ、玄奘(げんじょう)三蔵は、漢訳する際にそのまま音だけを転写したのである。

👆

「真言は、音が重要であり、唱えるべきもので解釈すべきものではない」との伝統がある。また真言を解読するには、様々な知識と複雑な作業を必要とするため、真言の研究は未だに完成されていない( Wiki )。

さらに真言部分は、サンスクリットの正規の表現でないうえ、学者や宗派によって訳や解釈が違うために定説がない( Wiki )。

これはなぜなのか。真言の本当の意味を知られたくないからではないのか。

空海は次のように言っている。「真理は言葉で言い表せないが、両部曼荼羅を観想しながら真言を唱えれば、宇宙の真理や隠された秘密を悟ることができる。」

なぜ真言(呪)を唱えるだけで宇宙の真理や隠された秘密を悟ることができるのか。それは、真言を唱えることによって、「何ものか」から霊感を受けるからではないのか。

空海は、「明けの明星」が体中に入る体験をしたといわれているが、「明けの明星」とは、サタンの頭「ルシファー」のことである(イザヤ書14章12~15節・黙示録12章7~9節参照)。

日蓮も、空海と同じような体験をしている( Site )。

「真言は仏をほめたたえる詩だ」と言う者もいるが、そうであるなら、なぜ決まった文言をサンスクリット語で繰り返し唱える必要があるのか。のこと

要するに、真言とは、仏(サタン)を召喚する呪文のことであり( RAPT BLOG )、

空海の三密加持とは、サタンと疎通し、サタンと一体化するための方法である。

仏の数だけ真言が存在する理由は、召喚する呪文(真言)が、サタン(仏)によって違うからだと思われる。

浄土真宗の「南無阿弥陀仏」も、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」真言である。

 

呪殺祈祷僧団 

 

大元帥法の秘密 

 

密教の呪術、その理論と哲学(JB press)

👆

「大いなるもの」と同化することで、人知を超えたエネルギーを操ることができるという。真言密教で「大いなるもの」と言えば、それは大日如来(仏)である。

 

お念仏とは

👆

南無阿弥陀仏を唱えることで、善悪・賢愚・生死を超えた領域に達することができるという。しかし、南無阿弥陀仏(=真言・呪文)自体にそのような力はない。

真言で召喚された阿弥陀仏(=サタン)の声を、自分の霊魂が長年にわたり聞き続けることで、自分の脳が善悪・賢愚・生死の判断をすることができなくなってしまう、ということだと思われる。念仏のやばさが分かる。

 

 

(2)『空』

大般若波羅蜜多経には、「色即是空、空即是色」とも書かれてある。

 

『空』については、2つの解釈が可能である。
 

① 『空』=全く何も存在しない

この世の全ては夢であって、何も存在しない。

だから、全ては平等であり、分別する意味がなく、善行を積んでも悪業を積んでも同じである。

 

② 『空』=何かが存在する

私たちの見る現象世界の奥には、何かの等質的なエーテルが存在する。

エーテルは、原子ではない(原子だとすると、原子と原子の間に空虚が存在することになり、等質でなくなる)。

エーテルは、心であるかもしれないし、同質的な流動物体かもしれない。

元素は1つのみで、それは、同質・平等・分別を超えたものである。

それゆえに、全ては1つであり、錯覚(=戯論、けろん)を排除すれば、生死も善悪も全て同じである。

👆  

『空』をどのように解釈しても、結局、善悪すべて同じ。ユングの「対立概念の統合」も、これが狙いか。

大乗仏教の中観派では、『空』は次のように説明される。

「この世界は人々の妄想であり、外界の対象(事物)は存在しない。この世の全ての現象は、縁によって生じている。それは、実体がないから空である。しかし、この空という原理さえもまた否定されねばならない。すなわち、否定そのものが否定されねばならない。これが真実である。一切は、真実であり、真実ではない。真実かつ不真実であり、真実でもなく不真実でもない。」

👆

あるときは空を肯定し、あるときは空を否定できるわけか。こうなったら、空を根拠に、何でも肯定できてしまうし、何でも否定できてしまう。これでは教義が全くないのに等しい。こんなものは宗教ではない。

空の思想を考え出した人物は、龍樹らしい( Site1 Site2 )。

釈迦は、「世界を空なりと観ぜよ」としか言っていない。釈迦は、旧約聖書の『伝道の書』を真似したのではないか。

釈迦は、神に反逆したユダヤ人だったのではないか。一説によれば、クシャトリヤである釈迦の性が ガウタマ なのは不自然であるため、釈迦の先祖は養子なのだという(Googleブックス)。釈迦の正確な生没年は分かっていないが、存命していたとされる時代は、紀元前7世紀から紀元前5世紀ごろである。北イスラエル王国の滅亡が紀元前722年ごろ、南ユダ王国の滅亡が紀元前587年ごろである。

 

Buddhism, Freemasonry, And Enlightenment〔仏教とフリーメイソンと啓蒙〕

👆

「仏教の教義」と「フリーメイソンの教え」とは、よく一致しているという。

メイソンの黒い教皇と呼ばれた Albert Pike は、釈迦のことを「歴史によってその記憶が私たちに伝えられている、最初のフリーメイソンの立法者」と表現し、仏教に敬意を表している。

 

 

色即是空』とは、「この世で起こる物質的現象(=色)は、空にして不生不滅・不増不減」ということである。

 

このゆえに、色・受・想・行・識(=五蘊、ごうん)もなく、眼・耳・鼻・舌・身・意(=六入、ろくにゅう)もなく、意識界もない。老死も無く、知も得も無い。だから気がかりも無く、恐怖も無い。そんなものが存在すると思っているのは転倒夢想であって、それが分かれば サトリ である。

すなわち、錯覚を排除すれば、人間も宇宙も存在するものではなく、全ては同質・

平等な『空』である。だから当然、老死もない。そう分かるのが サトリ である。

👆

本来、五蘊や六入に執着することが「自我」であり、その自我を否定することが「無我」だった。ところが、なぜか自我が実体化して「自己」(=それ自身だけで存在する本体・アートマン・永遠不滅の魂のような存在)に変わってしまった。そして、その自己を否定することが『空』の思想へとつながった( Site )。← 単に霊魂の存在を否定したかっただけではないのか。

 

 

『色即是空』を具体的に解説している部分が、『大般若波羅蜜多経』の『般若理趣分』である。

 

般若の理趣(ポイント)の一部

【清浄の法門】

全ては清らかであり、ゆえに何をやってもよく、「清浄の法門」を聞いて深く信ずるならば、いつか仏になれる。 どんな悪業を重ねても簡単にチャラになる

しかも毎日「清浄の法門」を読み上げてよく理解するならば、生きているうちに仏になれる。

 

【現等覚門】

1.全ては平等

2.だから何をやっても義(正義度)は同じ

3.宇宙のあらゆる物事は、大所・高所から見れば全て清浄

4.一切の物事を分別・区別・分析しないのだから、何をやっても同じ
 

この四つのことを聞いて信解受持し、読誦修習するならば、どんな悪事を働いても仏になれる。そればかりか、全ての極重・悪業を行っても報いはなく、逆に直ちに仏になれる

 

仏とは、「悟った人」「悟りを開いた人」の意味である。仏教では、仏こそが宇宙で最高の存在と考えられている。古くから日本では、人が死ねば神になるとされており、その後、仏教が入ってきたため、死ねば仏になるという考え方が生じた。

👆

全てが一つであり、それゆえ別個に見えるもの全てが人間の妄想(錯覚)で存在しないのに、仏(サタン)は宇宙で最高の存在なのか …。これ自体が妄想ではないのか。

 

第105話 平等(びょうどう) – 耕雲寺

👆

善と悪とを分けることは、差別になるらしい。善悪を分けると、迷いを生じ、悩み苦しむことになるらしい。にもかかわらず、人は悪事をやめて善行を積まなければならないらしい …。だから仏教の世界は一切皆苦なのか。

 

 

【普勝門】

貪欲に関し、戯論(けろん、錯覚)はそもそも成立し得ない。

ゆえに瞋恚(しんい、怒り)に関しても、驕慢(きょうまん)に関しても、諸悪行に関しても同じ。

 

逆に身を清浄にするのが良いとの戯論(錯覚)も成立しない。

般若波羅蜜多(禅宗では座禅、真言宗ではマントラ)が諸悪行よりも素晴らしいとの戯論も成立しない。

 

もしこの法門を聞いて、信解受持し、読誦修習すれば、たとえ一切の生物を殺しても地獄に落ちない。

 

【輪字門】
一切の法は空である。 一切の法は不可思議である(人間の思考を超越している)。

一切の法は戯論(けろん、錯覚)なし。本性空寂(=空)にして言語を離れるが故に。
 

輪字門は普勝門の説明である。普勝門においては、貪欲に関し戯論が成立しないことを出発点として、あらゆる戯論が成立しないと結論付けた。なぜ戯論が成立しないのか。それは、宇宙の一切の物事(色)が『空』だからである。

 

以上から、色即是空』とは、悪業を合理化する思想であり、タントラそのものだとわかる。

 

---------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

 以下は「空海とタントラ」の記事ではありません。

 

小乗仏教(部派仏教)】

釈迦の死から約100年後(紀元前3世紀頃)、出家者の守るべき規則に関して、出家者の間で意見が対立したため、原始教団が『上座部』と『大衆部』に根本分裂

この二部派は、さらに分裂して二十の部派になり、それぞれが独自の教義を作った(Wiki)。

釈迦が教えを何一つ文字に残していないため、どれが本当の教えなのかは不明

成仏を目指しながらも仏に成れないため、せめて煩悩だけでもなくして「阿羅漢(=最高の悟りを得た聖者)」を目指した。

 

大乗仏教

全ての人が成仏できる可能性(=大乗)を示したが、それを可能とする実践方法を示すことができなかった。

ただし、浄土教では阿弥陀仏の本願で、日蓮宗では法華経を唱えることで成仏できるとされる。

大乗仏教の大成者である龍樹(バラモン出身)は、人間が自力で悟りの境地に達するのは不可能だと判断し、阿弥陀仏の名を呼べば救われるという、誰でも実践可能な道(=易行道)を示した。

日本で仏教といえば、この大乗仏教を指す。

 

真言密教(金剛乗)】

この世で生きている間に仏に成れる実践方法『三密加持』が空海によって示された。

三密とは、① 手に印を結び、② 口に真言を唱え、③ 瞑想すること。

加持とは入我我入、すなわち、仏菩薩が我の中に入り、我が仏菩薩の中に入ること(Site)。つまり即身成仏とは、三密加持によって仏(大日如来)と一体化すること

👆

加持(=入我我入)の意味から、仏は霊的な存在であることがわかる。

 

立正安国論に見る日蓮のカルト性

 

創価学会の崇める上行菩薩は 、「サナト クマーラ」という悪魔(RAPT BLOG)。

サナト クマーラを生んだのが 「ブラフマー」。

ブラフマーは、ヒンドゥー教の神であり、仏教名は「梵天」。

梵天は、釈迦が悟りを開いた後、その悟りを広めるようにと釈迦に勧めた( Site )。

三明経』によれば、釈迦は、「存命中に梵天に至れない者は、死後に梵天に至ることもない」と言っている。

ちなみに、釈迦族は日種といわれている。日種は、インドの王族であり「イクシュヴァーク」を始祖とする。プラーナ文献によれば、イクシュヴァークの先祖はブラフマーである。釈迦の先祖が養子という説(Googleブックス)が正しいとすると、釈迦族は日種に養子に入ったということなのか。

 

阿弥陀仏(如来)は、熊野権現では「スサノオ」( Wiki )。

スサノオは 「サナトクマーラ」と同一神。

またスサノオは「牛頭天王」とも同一神であり、牛頭天王は「牛頭神バアル」と同一神( Site )。

牛頭天王は、釈迦が説法を行った祇園精舎の守護神である。

牛頭天王と頗梨采女(はりさいじょ)との間に生まれた八人の子が、八王子である。

頗梨采女は、娑伽羅龍王の娘である。真言密教の守護神である清瀧権現も、娑伽羅龍王の娘である。娑伽羅龍王は、天龍八部衆に所属する龍衆(=八大竜王・ナーガ)の一柱であり、大海に住む蛇である。この蛇はサタンである。聖書の「詩編74編13節」「イザヤ27章1節」「黙示録12章9節」を参照。

 

牛頭神バアルは、カナン人やアッカド人の神であり、人間の生贄を求める悪魔である。

京都の「祇園祭」は、元々「牛頭神バアル」に幼子を捧げる祭り( RAPT BLOG )。

サナトクマーラのアナグラムが「サタン 鞍馬」。源義経は、幼少期に鞍馬寺に預けられていたが、その義経の幼名は「牛若丸」。

三輪身によれば、阿弥陀如来の化身が「大威徳明王(ヤマーンタカ)」( Wiki )。

この大威徳明王は、水牛に乗っており、チベット密教では仏。

ちなみに、釈迦の名である「ガウタマ」とは、「特に優れた牛」という意味( Wiki )。

 

牛頭神バアルのもう一つの名は、ハダド

ハダドの父母神は、メソポタミア神話の最高神「アヌ」と、大地の女神「キ」。

アヌとキの子孫を総称して「アヌンナキ」という。そうすると、牛頭神バアルもアヌンナキということになる。

 

牛頭神バアルのもう一つの名は、バアルツェホン。(ツェホンは、ヘブライ語で「北」を意味する。北辰・北斗と関係があるのだろうか。)

バアルツェホンは、エジプトの太陽神「ホルス」と同一視されている( Wiki )。

ホルスの目は、悪魔崇拝のシンボルである( RAPT BLOG )。

またバアルツェホンは、ギリシャ神話の「ゼウス」とも同一視されている。このゼウスも悪魔である( RAPT BLOG )。

 

大日如来 = 奈良の大仏 = 天照大神 = アフラマズダー ( RAPT BLOG )。

道教の教義書『崆峒問答』では、毘盧遮那仏(=奈良の大仏)は元始天王とされている( Wiki )。この元始天王は、中国神話の創造神「盤古」である。

盤古は「盤牛王」ともいい、牛頭天王やスサノオと習合されている( Wiki )。

元始天皇の女性的化身が斗母元君である。斗母元君は、仏教の摩利支天である。

摩利支天は、梵天の子である。摩利支天は、インド神話の女神「ウシャス」と考えられている。ウシャスは、古代インドの聖典リグヴェーダで「牛の母」と呼ばれている。斗母元君の子は、天皇大帝(=北辰)と北斗七星である。

 

以上をまとめると、

上行菩薩(日蓮宗)= 阿弥陀仏(浄土真宗)= 毘盧遮那仏(華厳経)= 大日如来(真言密教)= 元始天王(道教)= 天照大神(神道)= アフラマズダー(ゾロアスター教)= 大威徳明王(チベット密教)= サナトクマーラ(ヒンドゥー教)=スサノオ(神道)= 盤古(道教・中国神話)= ホルス(エジプト神話)= ゼウス(ギリシャ神話)= 牛頭神バアル = アヌンナキ

 

つまり、聖書に出てくる悪魔の牛頭神バアルが名を変えて、神道・仏教・密教・道教・ヒンドゥー教・ゾロアスター教・エジプト神話・ギリシャ神話・中国神話などで、神仏として崇められている

 

仏教学者の中村元によれば、「仏教の神々」も「日本の神々」も「ギリシャの神々」もその性格が類似しているという( Blog )。当然である。それらの神々はみな同じサタンなのだから。

 

龍樹は、「阿弥陀仏の名を呼べば救われる」と言ったのだから、「牛頭神バアルを拝めば救われる」と言ったことになる。

 

バアルとは、固有名詞ではなく、神々に当てられた称号である(これはベルも同じ)。したがって、バアルと名の付くものすべてが『牛頭神バアル』なのではない。

 

日本は昔も今も悪魔教の国(RAPT BOG)

 

<閲覧注意>日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです(RAPT BLOG)

 

神道とユダヤ教と悪魔教のつながり。悪魔教が日本に伝わった経緯(RAPT BLOG)

 

本当の自由とは。本当の幸福とは。悪魔の作った偽物の宗教に騙されないために幾つか知っておくべきこと。(RAPT BLOG)

 

 

結論:

神道・仏教・密教・道教・儒教はすべて、神に反逆したユダヤ人の作った『悪魔教』