この記事は、安岡明夫氏の Yahooブログ『空海のタントラ仏教とチベット』の一部を自分用に編集して保存しておいたものですが、この資料を誰でも見れるようにと思い、アップすることにしました。Yahooブログの終了に伴い「空海とタントラ」の記事が見れなくなってしまったためです。

 

※ リンクと👆マークの下の文は私が付加したものです。「空海とタントラ」の記事ではありません。

 

なお、RAPT BLOG で元記事の一部が転載されていますので、興味のある方は御覧ください。

 

<閲覧注意>チベットは悪魔崇拝の聖地です(RAPT BLOG)

 

「チベット仏教」なる悪魔教を国教とするブータンが世界一幸福な国であるという大嘘(RAPT BLOG)

 

 

空海

空海は、小野岑守(みねもり)が陸奥守に任ぜられた時、『遍照発揮性霊集』の第一巻『野陸州に贈る歌』で次のように言っている。

 

「蝦夷は人間ではなく、鬼、虎や豹、オオカミの類いであり、天皇の言うことを聞かない。だから大いに殺しなさい。」

 

「エミシ」とは何か(PDF)

 

現代の日本が腐敗する原因を作った犯人は、「密教」を広めた「空海」です(Blog)

 

 

真言宗

タントラ(後期密教聖典の通称)の1つの面として、社会福祉事業のボランティア活動を大いに行うことがあった。空海もボランティア活動に力を入れた。
 

これによって密教の信用が確立すると、多くの人がお布施をするようになり、寺の財産が急速に増えた。

 

この財産を狙って貴族が自分の子供を寺に入門させるようになった。

 

彼らが厳しい修業に耐えた理由は、兄弟の中で上の者が家の跡を継ぎ、自分たちは寺の中で立身・出世する以外なかったからだ。そして貴族は親が寺に寄付するため出世も早かった。

 

そして彼らが最後に到達したところには、最高指導者だけが読んでいいとされる密教の教義があった。

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真言密教は空海によって完成された密教であり、大乗仏教の到達点に立つ秘密仏教。

その特徴は「即身成仏(生きたまま仏になる)」思想。

 

 

こうして真言宗は上から腐っていった。常に権力者に取り入り、悪事に誘い込む真言僧が後を絶たなかったのである。日本史上に輝く悪僧列伝の多くが真言宗の僧なのだ。

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安倍晋三の指南役である 池口恵観も真言宗の僧侶。

 

 

徳川綱吉の『生類憐みの令』により、多くの人々が死罪となり、犬を大量に飼うための重税に泣かされた。この『憐みの令』を仕組んだ人物が真言宗の僧 「隆光」である。
 

綱吉は『憐みの令』の5年前に男子を亡くして以来、子が出来なかった。

そこで(母の桂昌院が尊崇し、綱吉も帰依していた)隆光は、「世継が生まれないのは前世で殺生を行った報いだ」と言い、綱吉が戌(いぬ)年生まれのため、特に犬を全力で大切にし、人々にもそう命じるよう勧めた。また犬への供養のため、自分に多くの布施をすることも勧めた。こうして『憐みの令』は24年間続いた。

 

 

日本密教と チベット密教

ダライラマ14世によると、日本密教と チベット密教(チベット仏教)の共通点として、『所作タントラ』『行タントラ』『ヨーガタントラ』があり、違いは『無上ヨーガタントラ』が日本に伝わらなかった点だ、だから チベットの方が日本より高度なのだという。

 

『所作タントラ』とは、蘇悉地経(そしつちきょう)。

『行タントラ』とは、大日経。
『ヨーガタントラ』とは、金剛頂経(「理趣経」は金剛頂経の一部)。
無上ヨーガタントラ』の主なものは、時輪タントラ・勝楽タントラ・秘密集会(しゅうえ)タントラ。

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大日経を基に描かれた曼荼羅が『胎蔵界曼荼羅』、金剛頂経を基に描かれた曼荼羅が『金剛界曼荼羅』、両方を合わせて『両界曼荼羅』という。これらの曼荼羅に真言密教の奥義や宇宙観が図示されている(Site)。

胎蔵界曼荼羅は、(真言密教の最高仏である)大日如来の説く真理や悟りの境地を視覚的に表現したもの。

「胎蔵界=マトリックス=女性の子宮」らしい( Blog1 Blog2 )。

中沢新一によれば、理想の曼荼羅は「無数の渦巻」らしい(Site)。

渦巻といえば『カタカムナ』『女神運動』『三脚巴』である。

カタカムナが支那に伝わって老子の教えとしてまとめられ、それが日本にもたらされて神道になったという説がある( Site1 Site2 )。

ちなみに、大日如来=奈良の大仏=天照大神=アフラマズダー (RAPT BLOG)。

 

 

後期密教の代表的なタントラのいくつかが、11世紀になって漢訳されることになった。

 

しかし中国社会においては、仏教タントラの思想はそのままの形では受け入れられず、また翻訳者の力量不足からか誤訳や曲解が目立ち、本来の精神は全く生かされずに終わった。
 

日本密教は8世紀までの中国密教を受け継いだため、空海の伝えた密教経典には『無上ヨーガタントラ』は含まれなかった。

 

チベット密教の各派の中で、ダライラマの属する『ゲルク派』はまともな方だといわれている。ゲルク派は密教修業の前に顕教の修行をみっちりと行い、相当な人格が出来てから性的ヨーガを行うので、性欲は既に克服した僧が多いといわれている。

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「ゲルク派はまともな方」ということは、他の派はまともでないということなのか。

その修行僧が性欲を克服したことをどうやって知るのか。

ちなみに、脳機能学者の苫米地英人が カギュ派と ゲルク派から称号を授かったらしい(Site)。

 

タントラとチベット仏教 

 

「性秘儀」と「女人禁制」の密教史  

 

 

真言宗立川流

チベット密教張りの性的ヨーガを行い、性行為と殺人を大々的に行なった立川流は、正統的なものとしては既に消滅している。時々「オウム真理教」のような派が発生するが、それはあくまでも傍流である。

 

立川流は、現在の東京都立川市と関係がある。

1113年に無実の罪を着せられて伊豆に流された「仁寛(にんかん)」が、そこで立川市出身の陰陽師「見蓮」と出会い、立川流を創始したといわれている。

 

立川流の大成者は「文観(もんかん)」であるとされる。文観は後醍醐天皇(南朝)の側近中の側近だった。文観は立川流の奥義を後醍醐天皇にも伝えたとされる。

 

魔術王・後醍醐 

 

「彼の法」集団

 

立川流が滅びた理由は、後醍醐天皇と文観が室町幕府に敗北したからである。

立川流が滅びたため、その後、真言宗の主流は常に自分達と立川流との違いを際立たせなければならなかった。サバイバルの道がそれしかなかった。
 
一方、チベットでは『無上ヨーガタントラ』勢力が武力抗争を勝ち抜いたため、その後の歴史の進行がストップしてしまい、何の進歩もない、凍りついたような中世社会が数百年にも渡って続くことになった。

 

 

チベットと中国

(いん)王朝では、チベット人を神へ生贄としてささげていた。

 

(きょう)は、中国の西北辺に居住したチベット系遊牧民であるが、殷の甲骨文字に人身御供(ひとみごくう)として登場する。

 

チベット人を生贄にすることは、王が死んだ時だけでなく何らかのお祭りの際にしょっちゅう行なっていたことである。

 

殷は黄河中流域を支配圏とした漢民族の王朝である。この殷が毎年チベット人を生贄にしていたことからも分かるように、昔、チベット人は ヒマラヤの近くだけに住んでいたのではない。当時は中国西北部の草原(=西域と呼ばれる地方)に多く住んでいたと思われる。

 

生贄の歴史 

 

rapt-neo(Instagram)

 

 

チベット仏教と モンゴル

「クビライカアン」は、チベット仏教を初めてモンゴルに国家的規模で導入した王である。
 

1260年、クビライは即位と同時にチベットの高僧「パクパ」を国師に任命し、チベットの支配を委ねた。クビライは パクパから『ヘーヴァジラタントラ』の灌頂(かんじょう)を受けた。

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クビライカアンの祖父は「チンギスカン」である。

「チンギスカン=源義経」なる説がある(Wiki)。 RAPT BLOG も参照。

 

 

■ ダライラマ 5世

チベット密教指導者と蒙古王・清朝との関係は「お寺と檀家の関係」で、一方が領土を布施し、一方が教えを垂れる関係だった。

 

ところが、こうした関係を激変させる事件が発生した。

 

清朝は、1670年代半ばまでモンゴリアの問題には積極的にダライラマの権威を活用して解決する方針をとっていた。

 

呉三桂の起こした三藩の乱に際し、ダライラマは清朝に協力を約束した。

しかし ダライラマは、呉三桂側の使者を迎えて回を重ねるうちに清朝側が不利だと分かると、清朝に協力する約束を果たししぶり、ついには呉三桂の助命を清朝に嘆願するにさえ至った。

 

これに加えてダライラマの配下に援軍を求めた呉三桂の書を清朝側が差し押さえたことから、清朝はダライラマに対する不信感を持ち、1680年代以降、明確にダライラマの権威を無視する態度を表明し始めた。

 

これを感じとったダライラマは清朝を怖れ、1682年に後事を摂政「サンギェギャツォ」に托して没した。この時から清朝とチベットの関係は「お寺と檀家の関係」ではなくなった。

 

 

■ ダライラマ 14世

チベットでは、ダライラマの大便と小便をこねて薬なるものを作り、それを一般民衆は有り難がっていた。「年貢を完納しないと地獄に落ちるぞ」「高僧の言うことを聞かなければ極楽に行けないぞ」と脅して民衆を支配していた。

 

1951年に中国がチベット全土を制圧して併合した後、中国政府は チベットの運営をダライラマ政権の自治に任せた。それは、ダライラマたちが民衆の生活を徐々に向上させることを約束したからである。ところが、ダライラマ政権はまったく約束を守らなかった。

 

いよいよ中国政府が本気になってチベット住民の生活向上を実現させようとしていることをダライラマは知った。これでは、農・牧民から甘い汁を絞り続けてきた状態を変えなければいけなくなる。中国政府は現状をいきなり変えるのではなく、徐々に変えていこうとしたのだが、それさえもダライラマたちには我慢のできないことだった。

 

1958年、青海省・甘粛(かんしゅく)省内のチベット族地区では、自覚した農・牧民の間で民主改革運動が広がった。小作料と利息の引き下げ、ラマ寺院内の裁判所と牢獄の廃止、ラマ僧の還俗帰農の自由などを訴えた。

 

大衆は立ち上がってラマ寺を捜査した。そして香日徳寺の中から、虐殺された農奴の頭蓋骨10個、農奴の切り取った手足で作った笛、隠匿した多数の武器などを暴き出した。さらに「人骨の数珠」や、寺院建設のために子供を箱詰めにした人柱も発見された。

 

当初中国政府は、チベット密教である『秘密金剛乗』が一般の宗教に比べて特に大きな問題はないと考えたので、ダライラマ政権にチベットの自治を任せたのだと思われる。

 

しかしその考えが間違いだと知ったのは、1959年に(ダライラマがチベット住民を脅迫して起こさせた)『チベット蜂起』を鎮圧した後だった(ダライラマたちは外国に逃亡)。

 

人民解放軍の援助を受けた「農・牧民協会」は、領主やラマ寺の牢獄を解き放ち、笞(しもと)や拷問道具を没収し、巨額な小作料や借金利子の証文を焼き、強制労働・奴隷労働の契約書を焼いた。農奴や牧奴は凱歌を上げて千年の鎖を打ち壊した。

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現在、中国共産党(中央統一戦線工作部)は、チベットを取り込むため、チベット仏教が社会主義社会に適応するよう工作している( アーカイブ1 アーカイブ2 )。

 

Sinicization of Tibet〔チベットの中国化〕(Wiki)

 

CIAチベット計画(Wiki)

 

チベットの本当の歴史 

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中国共産党によるプロパガンダの可能性が非常に高い。しかし仮にプロパガンダだとしても、それでチベット仏教がまともな宗教ということにはならない。

 

天下老照片
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(ダイヤモンド・オンライン)

 

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宋王朝の宗教改革

907年に唐が滅びると、五代十国時代が約60年続いたが、その半分の期間はトルコ族の王朝だった。 だから、979年に宋が全国統一に成功し、トルコ族を打倒したとき、漢民族の喜びは計り知れないものがあった。

 

このような中で、唐の時代に盛んであった外来宗教である仏教に厳しい目が向けられた。

 

唐の時代には、儒教・仏教・道教の3つの中で、知識人の思いは最も仏教に注がれていた。というのは、中国古来の儒教・道教は、インド仏教の高邁さや、深く考え抜かれた巨大な理論体系に比較すると、浅薄(せんぱく)だったからである。

 

こうして宗教改革が始まった。

儒教は大きくその性格を変え『宋学』『朱子学』に発展していった。

 

宋学・朱子学は仏教化された儒教であった。現世利益中心、上下意識・身分意識の徹底は飽くまでも変えなかったが、それ以外は仏教の理論体系も、修行方法や座禅も、全て取り入れた。

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後醍醐天皇は宋学(朱子学)に傾倒し、君主独裁を目指した(Site)。

朱子学は体制側の思想となり、その道徳の側面が失われて形骸化した。そこで考え出されたのが「陽明学」である。

陽明学には反体制的な理論が生まれたため、革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。

日本の幕末の維新運動は陽明学に影響を受けている。

岩崎弥太郎・渋沢栄一・三島由紀夫なども 陽明学の信奉者である(Wiki)。

日本が朱子学に毒されなかったのは天皇家のおかげらしい(Site)。

 

 

同じく道教も仏教化が進んだ。その一方、人々から厳しい目を向けられ始めた仏教側では、逆に道教化が図られた(これが中国禅宗)。 このとき、なぜ仏教の儒教化が目指されなかったのかは分からない。
 

 

道教

中国(台湾を含む)では、儒教を信じる人よりも道教を信じる人の方が圧倒的に多い。

 

その理由は、

① 元々中国の民族宗教が道教だったから

② 儒教は孔子によって新しく開かれた敬天の宗教(事実上の一神教)であり、主として支配層の知識人に信仰されてきたから

  

道教は神道と極めてよく似た多神教であり、あらゆる モノ を神々として取り込んでいる。天帝や釈迦から孫悟空、老子や荘子、三国時代の英雄まで神にしている。

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道教の神々

天皇の号は、道教の神『天皇大帝』が基になっているといわれている(Wiki)。

天皇大帝は『北極星(=北辰)』を神格化したもの。

北辰・北斗七星信仰は、アッシリアやバビロニアなどの西アジア砂漠地帯の遊牧民からインド経由で中国に伝わり、道教に取り入れられ、その後 密教に影響を与えた(Blog)。

ちなみに妙見信仰は、『北辰・北斗七星信仰』と『インドの菩薩信仰』が習合したもので、日本へは飛鳥時代(592年~710年)に伝わった(Wiki)。

空海は真言密教の仏に妙見大菩薩を迎え入れており、日蓮は北辰妙見菩薩のお告げを受けて法華経を護持(ごじ)する誓いを立てている(Blog)。

 

 

道教では、文献『老子』『荘子』などを聖典とし、座禅などの修行や薬によって、

不老不死の仙人(神々の一人)になることができるとしている。

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仙人を目指す修行者を道士(方士)という。

秦の始皇帝に仕えた徐福は方士だったといわれている。

徐福=ユダヤ人」説がある(Site)。

日本各地に徐福伝説が存在する(Site)。

 

 

道教は先祖崇拝とも結びついている。神道のように、死ねば直ちに神になれるという安直さはないが、結局、先祖は神と見なされる。

 

道教は、福・禄・寿(幸福・出世・富・長命)の現世利益中心である。「長命のためには他の欲望を押さえる必要がある」「仙人になるには無欲でないといけない」などの主張もある。
 

文献の『老子』や『荘子』では、「現状を変えるのではなく、現状をそのまま認めてしまえ」といっている。

 

老子は「無為自然、すなわち何も為すこと無く、自ずからにして然(しか)るようになっていくのにまかせればよい」といっている。
 

荘子は「科学技術を生産に応用すれば、社会が進歩して慌ただしくなり、落ち着いた心がなくなるから、何もしないのが一番よい」といっている。
 

「無為自然でゆっくりと生きていけば 福・禄・寿にありつけるが、社会を良くしようなどと考えると憎まれて殺されてしまうのが落ちだ」というのが道教の根本的な考え方

 

日本史を彩る道教の謎  

 

神道と日本文化への道教の影響(るいネット)  

 

世界紅卍字会(Wiki)

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道教系の宗教団体『道院』の思想を基に作られた慈善団体。中華民国政府の批准により組織された。道院と大本教(人類愛善会)は提携していた。

 

東アジア史に眠るユダヤの痕跡

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孔子と老子はユダヤ人

 

中国の宗教(Wiki)  

 

台湾の宗教(Wiki)

 

 

中国禅宗

仏教改革の名の下に、仏教の中身を完全に入れ替えて道教化したものが中国禅宗。

すなわち、「看板は仏教、中身は道教」が中国禅宗。

 

ところで、仏教の看板の下で中身を完全に入れ替えることがどうして可能だったのか。それは『不立文字、ふりゅうもんじ』(文字を立てない)との標語の下に可能だったのである。

 

つまり、「これまで中国へ伝わった経典を一切問題にしない。我が宗においても書物を書くことは一切やらない」と言ってしまえば矛盾点を発見されることがなくなる、という訳であった。


しかし後になると、インドから伝わった経典の中に、禅宗にとって極めて都合のよい経が発見された。それが『大般若波羅蜜多経』である。

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この経のサンスクリット本は残存していない(Wiki)。

 

 

この経は釈迦の発言を収録したものではなく、その作者は不明。

百科事典2冊分くらいの膨大な経だが、その経を数秒間 開いて呪文を唱えると全て読んだこととされる(転読)。

 

これでもう不立文字の標語は必要なくなった。禅宗において、お経を読み上げたり、書物を書くことが次第に盛んになった。

 

中国禅宗とは、

① これまでの仏教との伝統・繋がりを断ち切り、

② 座禅や霊薬(仙丹)によって不老不死の仙人になることを目指し、

③ 先祖を崇拝し、

④ 現状維持を何よりも重視し、

⑤ 無為自然によって福・禄・寿を目指す宗教

 

 

日本禅宗

禅宗が「栄西」によって最初に日本に伝えられた時、既に『大般若波羅蜜多経』が発見されており、不立文字の必要性はなくなっていた。

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栄西は臨済宗の開祖であり、天台密教葉上流の祖。

 

 

なぜ禅僧の栄西がタントラ密教と関係し、ヒンドゥー教のシバ神供養の導師をやっているのか。それは、栄西の創建した臨済宗が密教と中国禅宗を混合したものだったからである。

 

日本禅宗は中国禅宗と異なり、ヒンドゥー教・道教・神道の性格をすべて有する。

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「看板は仏教、中身は神道・道教・密教・ヒンドゥー教」が日本禅宗ということか。

日本の『禅』を海外に広く紹介した人物は、仏教学者であり神智学徒の鈴木大拙(だいせつ)。

鈴木はスウェーデンボルグの思想を絶賛している(Site)。

スウェーデンボルグの思想を背景にしてスピリチュアル思想が誕生。

スピリチュアルは ルシファー信仰RAPT BLOG)。

 

 

大般若波羅蜜多経

大般若波羅蜜多経は、『タントラ・ヴァジラヤーナ(秘密金剛乗)』であり、仏教の仮面を着けたヒンドゥー教の最悪の形態の経。

 

(1)真言

般若波羅蜜多という行は、唐・宋の時代には座禅をすることだと解釈された。

しかし経の全文を読めば、「般若波羅蜜多は大神呪(だいしんじゅ)である」と明記されている。

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大神呪の「神」は原語にはなく、漢訳したときに付け加えられたものらしい。

初期仏教で呪術的色彩が強かった言葉「呪」が大乗仏教で「真言」に置き換わった。

「呪」とは、サンスクリット語の「マントラ」の訳語である。

以上 Site を参照。

 

 

つまり般若波羅蜜多とは、マントラ(真言)を唱えることであり、具体的には経の最後にある呪いの言葉を唱えることであり、経の最重要部分である。

 

だからこそ玄奘(げんじょう)三蔵は漢訳するときにそのまま音だけを転写したのである。

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「真言は音が重要であり、唱えるべきもので解釈すべきものではない」との伝統がある。また真言を解読するには様々な知識と複雑な作業を必要とするため、真言の研究は未だに完成していない(Wiki)。

さらに真言部分はサンスクリットの正規の表現でないうえ、学者や宗派によって訳や解釈が違うために定説がない(Wiki)。

これはなぜなのか。真言の本当の意味を知られたくないからではないのか。

空海は次のように言っている。「真理は言葉では言い表せないが、両部曼荼羅を観想しながら真言を唱えれば、宇宙の真理や隠された秘密を悟ることができる。」

なぜ真言(呪文)を唱えるだけで宇宙の真理や隠された秘密を悟ることができるのか。それは、真言を唱えることによって「何ものか」から霊感を受けるからではないのか。

空海は「明けの明星」が体中に入る体験をしたといわれているが、この「明けの明星」とは、サタンの頭「ルシファー」のことである(イザヤ書14章12~15節・黙示録12章7~9節参照)。

日蓮も空海と同じような体験をしている(Site)。

「真言は仏をほめたたえる詩だ」と言う者もいるが、そうであるなら、なぜ決まった文言をサンスクリット語で繰り返し唱える必要があるのか。

要するに、真言は仏(サタン)を召喚する呪文であり(RAPT BLOG)、空海の三密加持とは、サタンと疎通しサタンと一体化するためのものである。

仏の数だけ真言が存在する理由は、サタン(仏)によって召喚する呪文(真言)が違うからだと思われる。

浄土真宗の「南無阿弥陀仏」も、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」も真言である。

 

呪殺祈祷僧団 

 

大元帥法の秘密 

 

密教の呪術、その理論と哲学(JB press)

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「大いなるもの」と同化することで人知を超えたエネルギーを操ることができるという。真言密教で「大いなるもの」と言えば、それは大日如来(仏)である。

 

(2)『空』

大般若波羅蜜多経には「色即是空、空即是色」とも書かれてある。

 

『空』については2つの解釈が可能である。
 

① 『空』=全く何も存在しない

この世の全ては夢であって、何も存在しない。

だから全ては平等であり、分別する意味がなく、善行を積んでも悪業を積んでも同じである。

 

② 『空』=何かが存在する

私たちの見る現象世界の奥には、何かの等質的なエーテルが存在する。

エーテルは原子ではない(そうでないと、原子と原子の間に空虚が存在することになり等質でなくなる)。

エーテルは心であるかもしれないし、同質的な流動物体かもしれない。

元素は1つのみで、それは同質・平等・分別を超えたものである。

それゆえに全ては1つであり、錯覚(=戯論、けろん)を排除すれば、生死も善悪も全て同じである。

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『空』をどのように解釈しても、結局、善悪すべて同じ

大乗仏教では『空』を次のように説明している。

「この世界は人々の妄想であり、外界の対象(事物)は存在しない。この世の全ての現象は縁によって生じている。それは、実体がないから空である。しかし、この空という原理さえもまた否定されねばならない。すなわち否定そのものが否定されねばならない。これが真実である。一切は真実であり、真実ではない。真実かつ不真実であり、真実でもなく不真実でもない。」

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「空という原理さえも否定」「一切は真実であり真実ではない」と説明しているが、こうなったら何でもあり。いくらでも都合のいいことが言える。

仏教徒が「万物の創造主も天国も存在しない。それらは人間の妄想」と考える根拠が、この『空』の思想。しかし空の思想では、現象(自然界に形として現れるもの)しか考慮されていない。人間が直接観察できないもの(霊など)は一切考慮されていない。だから、空の思想が神や天国の存在を否定する根拠には全くならない。

空の思想を考え出した人物は龍樹らしい( Site1 Site2 )。

釈迦は「世界を空なりと観ぜよ」としか言っていない。釈迦は旧約聖書の『伝道の書』を真似したのではないか(伝道の書はソロモン王の著作である)。

釈迦は神に反逆したユダヤ人だったのではないか。一説によれば、クシャトリヤである釈迦の性が ガウタマなのは不自然であるため、釈迦の先祖は養子であるという(Google ブックス)。釈迦の正確な生没年は分かっていないが、諸説では紀元前7世紀から紀元前5世紀ごろである。北イスラエル王国の滅亡が紀元前722年ごろ、南ユダ王国の滅亡が紀元前587年ごろである。

 

 

色即是空』とは、「この世で起こる物質的現象(色)は、空にして不生不滅・不増不減」ということである。

 

このゆえに、色・受・想・行・識(=五蘊、ごうん)もなく、眼・耳・鼻・舌・身・意(=六入、ろくにゅう)もなく、意識界もない。老死も無く、知も得も無い。だから気がかりも無く、恐怖も無い。そんなものが存在すると思っているのは転倒夢想であって、それが分かれば サトリ である。

 

すなわち、錯覚を排除すれば、人間も宇宙も存在するものではなく、全ては同質・

平等な『空』である。だから当然、老死もない。そう分かるのが サトリ である。

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本来、五蘊や六入に執着することが「自我」であり、その自我を否定することが「無我」だった。ところが釈迦の死後100年以上経ってから、なぜか自我が実体化して「自己」(=それ自身だけで存在する本体・アートマン・永遠不滅の魂のような存在)に変わってしまった。そしてその自己を否定することが『空』の思想へとつながった(Site)。

 

不生不滅とはどういう意味か(前編) 同(後編)

 

 

『色即是空』を具体的に解説している部分が、『大般若波羅蜜多経』の『般若理趣分』である。

 

般若の理趣(ポイント)の一部

【清浄の法門】

全ては清らかであり、ゆえに何をやってもよく、「清浄の法門」を聞いて深く信ずるならば、いつか仏になれる。 どんな悪業を重ねても簡単にチャラになる

しかも毎日「清浄の法門」を読み上げてよく理解するならば、生きているうちに仏になれる。

 

【現等覚門】

1.全ては平等

2.だから何をやっても義(正義度)は同じ

3.宇宙のあらゆる物事は、大所・高所から見れば全て清浄

4.一切の物事を分別・区別・分析しないのだから、何をやっても同じ
 

この四つのことを聞いて信解受持し読誦修習するならば、どんな悪事を働いても、そればかりか全ての極重・悪業を行っても報いはなく、逆に直ちに仏になれる

 

仏とは「悟った人」「悟りを開いた人」の意味であり、仏教では仏こそが宇宙で最高の存在と考えられている。古くから日本では人は死ねば神になるとされており、その後、仏教が入ってきたため、死ねば仏になるという考え方が生じた。

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全ては一つで同じであり、それゆえ全ては人間の妄想(錯覚)で存在しないのに、仏は宇宙で最高の存在なのか …。これ自体が妄想ではないのか。

 

第105話 平等(びょうどう) – 耕雲寺

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善と悪とを分けることは差別らしい。善悪を分けると、迷いを生じ、悩み苦しむことになるらしい。にもかかわらず悪事をやめて善行を積まなければならないらしい …。

 

 

【普勝門】

貪欲に関し、戯論(けろん、錯覚)はそもそも成立し得ない。

ゆえに瞋恚(しんい、怒り)に関しても、驕慢(きょうまん)に関しても、諸悪行に関しても同じ。

 

逆に身を清浄にするのが良いとの戯論(錯覚)も成立しない。

般若波羅蜜多(禅宗では座禅、真言宗ではマントラ)が諸悪行よりも素晴らしいとの戯論も成立しない。

 

もしこの法門を聞いて、信解受持し、読誦修習すれば、たとえ一切の生物を殺しても地獄に落ちない

 

【輪字門】
一切の法は空である。 一切の法は不可思議である(人間の思考を超越している)。

一切の法は戯論(けろん、錯覚)なし。本性空寂(=空)にして言語を離れるが故に。
 

輪字門は普勝門の説明である。普勝門においては、貪欲に関し戯論が成立しないことを出発点として、あらゆる戯論が成立しないと結論付けた。なぜ戯論が成立しないのか。それは、宇宙の一切の物事(色)が『空』だからである。

 

以上から、色即是空』とは悪業を合理化する思想であり、タントラそのものだとわかる。

 

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 以下は「空海とタントラ」の記事ではありません。

 

小乗仏教(部派仏教)】

釈迦の死から約100年後(紀元前3世紀頃)、出家者の間で「律(出家者の守るべき規則)」に関して意見が対立し、原始教団が『上座部』と『大衆部』に根本分裂

この二部派はさらに分裂して二十の部派になり、それぞれが独自の教義を作った(Wiki)。

上座部から分裂した部派は、初期仏教(釈迦の教え)を純粋な形で保存してきたとされる。しかし釈迦は教えを何一つ文字に残していないため、どれが本当の教えなのか不明

成仏を目指しながらも仏に成れないため、せめて煩悩だけでもなくして「阿羅漢(=最高の悟りを得た聖者)」を目指した。今のところ成仏できたのは釈迦ただ一人

ちなみに、釈迦の死因は食中毒らしい( Site その人の行いに応じて報いを受ける、と仏教でも教えているのだが …)。

小乗とは「劣った乗り物」という意味であり、大乗側からの蔑称。特に説一切有部(=上座部から分裂したとされる一派)に対する蔑称。

 

 

大乗仏教

全ての人が成仏できる可能性(大乗)を示したが、それを可能とする実践方法を示すことができなかった(三劫成仏。1=43億2千万年。すなわち成仏するのに129億6千万年かかる)。

ただし、浄土教では阿弥陀仏の本願で、日蓮宗では法華経を唱えることで成仏できるとされる。

大乗仏教の大成者である龍樹(バラモン出身)は、人間が自力で悟りの境地に達するのは不可能だと判断し、阿弥陀仏の名を呼べば救われるという誰でも実践可能な道(=易行道)を示した。

龍樹によれば、真理は勝義諦(しょうぎたい)と世俗諦の2つに分けられる。

勝義諦は言葉を超えた究極の真理である。世俗諦は言葉で表現された真理である(釈迦の言葉を集めた経典など)。

世俗諦を悟れただけではダメで、勝義諦を悟れなければ涅槃に達することはできない。

浄土真宗と日蓮宗は、「末法の世では細かい戒律は必要ない」という末法無戒思想を持つ。

日本で仏教といえば、この大乗仏教を指す。

 

 

真言密教(金剛乗)】

この世で生きている間に仏に成れる実践方法『三密加持』が空海によって示された。

三密とは、① 手に印を結び、② 口に真言を唱え、③ 瞑想すること。

加持とは入我我入、すなわち仏菩薩が我の中に入り、我が仏菩薩の中に入ること(Site)。

つまり即身成仏とは、三密加持によって仏(大日如来)と一体化すること

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加持(入我我入)の意味から、仏は霊的な存在であることがわかる。

 

立正安国論に見る日蓮のカルト性

 

「浄土真宗」と「真言密教」と「イエズス会」の関係 → RAPT BLOG

 

「浄土真宗」と「チベット仏教」と「麻生家」の関係 → RAPT BLOG

 

創価学会の崇める上行菩薩は 「サナト クマーラ」という悪魔(RAPT BLOG)。

サナト クマーラを生んだのが 「ブラフマー」。

ブラフマーは ヒンドゥー教(バラモン教)の神であり、仏教名は「梵天」。

梵天は、釈迦が悟りを開いた後、その悟りを広めるようにと釈迦に勧めた(Site)。

三明経』によれば「存命中に梵天に至れない者は、死後に梵天に至ることもない」と釈迦が言っている。

ちなみに釈迦族は日種といわれている。日種はインドの王族であり「イクシュヴァーク」を始祖とする。プラーナ文献によれば、イクシュヴァークの先祖はブラフマーである。釈迦族が神に反逆したユダヤ人だとすると、釈迦族は日種に養子に入ったということなのか。

 

阿弥陀仏(如来)は、熊野権現では「スサノオ」(Wiki)。

スサノオは 「サナトクマーラ」と同一神。

またスサノオは「牛頭天王」とも同一神であり、牛頭天王は「バアル」と同一神(Site)。

牛頭天王は、釈迦が説法を行った祇園精舎の守護神。

バアルは聖書に出てくる悪魔であり、人の生贄を求める偶像神。

京都の「祇園祭」は、元々「バアル」に幼子を捧げる祭り(RAPT BLOG)。

サナトクマーラのアナグラムが「サタン 鞍馬」。源義経は幼少期に鞍馬寺に預けられていたが、その義経の幼名は「牛若丸」。

三輪身によれば、阿弥陀如来の化身は「大威徳明王(ヤマーンタカ)」(Wiki)。

この大威徳明王は水牛に乗っており、チベット密教では仏。

阿弥陀仏は密教の胎蔵界五仏の一尊(これはチベット密教でも同じ。Site)。

阿弥陀仏は諸仏の王で、釈迦も大日如来も阿弥陀仏の弟子(Site)。

ちなみに釈迦の名である「ガウタマ」とは「特に優れた牛」という意味(Wiki)。

 

バアルの別名は「ベル」であり、ベルはドルイド教の神(RAPT BLOG)。

ドルイド教は古代ケルトの宗教であり、森林を神聖視する多神教。

ドルイド教の特徴の1つは、教義を全て口頭で伝え、文字に残さないこと(釈迦も教義を文字に残しておらず、弟子たちにも文字に残さないように厳命している)。

ドルイドとは、ケルト人社会における祭司のこと。

ドルイドは人を大量虐殺して悪魔への生贄としてささげていたため、ある時から激しい迫害に遭い、そのため世界各地に散らばって行ったという(このドルイドがエジプトにいたイスラエルの民の中に混じって惑わしたのではないか)。

ガリア戦記によれば、「ウィッカーマン」の中に人の生贄を入れ、それを燃やす風習がケルト人社会にあったという(Wiki)。

このドルイド教が2010年に英政府によって慈善団体として公認された(Site)。

 

以上をまとめると、

上行菩薩(日蓮宗)=阿弥陀仏(浄土真宗・密教)=大威徳明王(チベット密教)=サナトクマーラ(ヒンドゥー教)=スサノオ(神道)=ベル(ドルイド教)=バアル。

 

つまり、聖書に出てくる悪魔のバアルが名を変えて、神道・仏教・密教・ヒンドゥー教・ドルイド教で神仏として崇められている

 

龍樹は「阿弥陀仏の名を呼べば救われる」と言ったのだから、「バアルを拝めば救われる」と言ったことになる。

 

お念仏とは

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念仏のやばさが分かる。

 

日本は昔も今も悪魔教の国(RAPT BOG)

 

<閲覧注意>日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです(RAPT BLOG)

 

神道とユダヤ教と悪魔教のつながり。悪魔教が日本に伝わった経緯(RAPT BLOG)

 

 

結論:

神道・仏教・密教・道教・儒教はすべて、神に反逆したユダヤ人の作った『悪魔教』