※ この記事は初学者用に聖書を編集し 注を付したものです。

 

 

主はモーセに言われた。

「イスラエルの人々に言いなさい。

 

もし人が誤って罪を犯し、主の戒めに背いて1つでもしてはならないことをしたときは、『贖罪(しょくざい)のささげ物』を主にささげなければならない。

 

祭司が自分の犯した罪のために償いをするならば、彼は許されるだろう。

 

人が証人に立ち、誓いの言葉を聞きながら、その見たこと知っていることを言わないで罪を犯すならば、その人はその責めを負う。

 

人が汚れた野獣・家畜・爬虫類の死骸などすべて汚れたものに触れるならば、そのことに気づかなくても、その人は汚れた者となってその責めを負う。

 

彼が人の汚れに触れるならば、その人の汚れがどのような汚れであれ、それに気づかなくても、彼がこれを知るようになったときは、その責めを負う。

 

人がみだりに誓い、「悪をなそう」「善をなそう」と言うならば、その人が誓ったことは、それがどんなことであれ、それに気づかなくても、その人がこれを知るようになったときは、これらの1つについて責めを負う。

 

もしこれらの1つについて責めを負うときは、その罪を告白し、償いとして

『贖罪のささげ物』を主にささげる。

 

人が不正を行ったとき、また誤って奉納物をささげなかったときは、その償いとして、聖所で定められた支払額に相当する『賠償のささげ物』を主にささげなければならない。

 

預かり物・質物・盗品について、人が隣人を欺き、またはその隣人を虐げ、あるいは落し物を拾い、それについて偽って誓うなど、罪となることをして責めを負うならば、その責めを負う人は、『賠償のささげ物』をささげる日にこれらの物をすべて返さなければならない。

 

こうして祭司が主の前で彼のために罪の償いをするならば、彼は許されるだろう。」

 

注:『贖罪のささげ物』の規定については、レビ記4~5章・同6章18~23節を参照。

『賠償のささげ物』の規定については、レビ記5章15~26節・同7章1~10節を参照。

 

『贖罪のささげ物』『賠償のささげ物』をささげるのは、人が過失の罪を犯した場合である。もし人が故意に罪を犯した場合は、その人の罪は許されず、その人は民の中から断たれる(民数記15章25~31節を参照)。

 

モーセはアロンとその子たちに言った。

「『祭司の任職式』が終る日までの7日間、会見の幕屋の入口から出てはならない。任職に7日を要するからだ。

 

あなた方は7日間、昼夜を徹して主の仰せを守り、死ぬことがないようにしなければならない。私はそのように命じられた。」

 

アロンとその子たちは、主がモーセによって命じられたことをすべて行った。

 

8日目にモーセはアロンに言った。

「『贖罪のささげ物』と『和解のささげ物』を主の御前にささげ、更に『穀物のささげ物』をささげなさい。主が今日あなた方に現れる。」

 

アロンは民に向かって手を上げて彼らを祝福し、それぞれのささげ物をささげた。

 

モーセとアロンは会見の幕屋に入り、また出て来て民を祝福した。

 

すると主の栄光がすべての民に現れ、主の前から火が出て祭壇の上のささげ物を焼き尽くした。

 

民は皆これを見て喜びの声を上げ、ひれ伏した。

 

さて、アロンの子のナダブとアビフが、香炉を取って炭火を入れ、その上に香を焚いて異火を主の前にささげた。

 

これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。

 

そのときモーセはアロンに言った。

「主はこう仰せられた。私は、私に近づく者のうちに私の聖なることを示し、

すべての民の前に栄光を現すだろう。」

 

アロンは黙していた。

 

主はアロンに言われた。

「あなたもあなたの子たちも、会見の幕屋に入る時には死ぬことがないように、ブドウ酒と濃い酒を飲んではならない。

 

これは、あなたたちが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、また主がモーセによって語られたすべての定めをイスラエルの人々に教えることができるようになるためだ。」

 

注:『祭司の任職式』の規定については、レビ記8章を参照。

『和解のささげ物』の規定については、レビ記3章・同7章11~36節・民数記15章1~10節を参照。

『穀物のささげ物』の規定については、レビ記2章・同6章7~16節を参照。

 

主はモーセに言われた。

「イスラエルの人々に言いなさい。

 

私はあなたたちの神、主である。

 

あなたたちが住んでいたエジプトの国、また私があなたたちを導き入れるカナンの国の習慣を見習ってはならない。

 

私の定めと法を守りなさい。これを行うならば、これによって生きるだろう。

 

・親族の者に近づいて、これを犯してはならない。

父の妻を犯す者、嫁を犯す者、自分の姉妹を犯す者は、必ず殺されなければならない。

 

・兄弟の妻をめとるならば、これは汚らわしいことだ。彼らは子供に恵まれないだろう。

 

・女とその娘を一緒に犯してはならない。またその女の孫娘を犯してはならない。

 

・妻が生きている間に、その姉妹をめとって同じく妻にしてはならない。

 

・女をその母と一緒にめとるならば、これは悪事であって、彼も女たちも火に焼かれなければならない。

 

・生理中の女に近づいてこれを犯してはならない。2人とも民の中から断たれなければならない。

 

・人妻と交わり、彼女によって身を汚してはならない。2人とも必ず殺されなければならない。 

 

・女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことだ。2人とも必ず殺されなければならない。

 

・獣と交わって身を汚してはならない。獣と寝た者とその獣は必ず殺されなければならない。

 

・子供をモレクにささげてはならない。誰でも自分の子供をモレクにささげる者は、必ず殺されなければならない。

 

 

あなたたちは、これらのことによって身を汚してはならない。

 

私があなたたちの前から追い払う国々の人は、これらのことによって汚れ、その土地も汚れている。

 

ゆえに、私はその土地を悪のために罰し、その土地はそこに住む者を吐き出すのだ。

 

あなたたちは、私の定めと掟を守り、これらの憎むべきことの1つでも行なってはならない。

 

これは、あなたたちがその土地を汚して、その土地が先住民を吐き出したように、あなたたちをも吐き出すことがないためだ。

 

これらの憎むべきことの1つでも行う者は、誰でもその民の中から断たれるだろう。

 

これらの憎むべき風習の1つも行なってはならない。

 

これによって身を汚してはならない。

 

私はあなたたちの神、主である。」

 

注:モレクは中東で崇拝されていた神である。祭りでは人身御供(ひとみごくう)が行われた。

 

主はまたモーセに言われた。

「イスラエルの全会衆に言いなさい。

・あなたたちの神、主なる私は聖であるから、あなたたちも聖でなければならない。

 

・むなしい神々に心を寄せてはならない。

 

・誰でも神を呪う者は、その罪を負わなければならない。

 

注:次の聖句を参照。

『 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け … 情欲におぼれてはならないのです。』(テサロニケⅠ4章3~5節 新共同訳)

 

・父と母を敬いなさい。

 

・誰でも父または母を呪う者は、必ず殺されなければならない。

彼が父または母を呪ったので、その血は彼に帰するだろう。

 

・老人を敬い、あなたの神を畏れなさい。

 

・隣人を虐げてはならない。また隣人から奪い取ってはならない。

 

・自分のように隣人を愛しなさい。

 

・他国人があなたたちの国に寄留しているならば、これを虐げてはならない。

自分のように愛しなさい。あなたたちもエジプトで他国人だったのだから。

 

・心の中で兄弟を憎んではならない。

 

・人に復讐してはならない。

 

・人を恨んではならない。

 

・人の悪口を言いふらしてはならない。

 

・耳の聞こえない者に悪口を言ってはならない。

 

・目の見えない者の前に、つまずく物を置いてはならない。

 

・盗んではならない。

 

・人を騙してはならない。

 

・嘘をついてはならない。

 

・日雇い人の賃金の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。

 

・同胞が落ちぶれて暮して行けないときは、彼を助けてあげなければならない。彼から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしてあげなければならない。彼に金や食べ物を貸す場合にも、利子や利息を取ってはならない。

 

注:「他国の者」とは、イスラエルに寄留する他国人や外国出身の奴隷のことである。

 

新約(キリスト教)では、同胞以外の人にも利子付き貸借は禁止される(ルカ6章34~35節を参照)。これに対し、新約聖書を教典にしていない「ユダヤ教」では、異邦人(非ユダヤ人)への利子付き貸借は禁止されない(申命記23章21節・タルムードを参照)。申命記24章10~15節も参照。

現代の金融システムを作り上げたのは「ユダヤ教徒」であって、「キリスト教徒」ではない。

 

・不正な物差し、秤(はかり)、おもり、升(ます)、容器を使ってはならない。

 

・私の名により偽り誓って、神の名を汚してはならない。

 

・不正な裁判を行ってはならない。

 

・貧しい者を偏ってかばったり、力のある者を曲げて助けてはならない。

ただ正義をもって隣人を裁かなければならない。

 

・隣人の命に係わる偽証をしてはならない。

 

・占いをしてはならない。

 

・魔術を行ってはならない。

 

・口寄せや占い師に頼って汚されてはならない。

彼らを慕って姦淫する者があれば、私は顔をその人に向け、その人を民の中から断つだろう。ゆえに、あなたたちは自らを聖別し、聖なる者とならなければならない。

 

注:「口寄せ」とは、人の霊を自分に降霊させて、その霊の代わりにその意志などを語ることができるとされる術またはそれを行う人のことである。

神から啓示を受けて(神の言葉を預かって)それを宣布する「預言」とは全く違う。

 

・もみ上げ、頭の左右の髪、ひげの両端を剃ってはならない。

 

・死者を悼んで自分の身を傷つけてはならない。

 

・入れ墨をしてはならない。

 

・娘に売春をさせてはならない。

みだらなことが国に行われ、悪事が地に満ちないためだ。

 

・誰でも人を打ち殺した者は、殺されなければならない。

 

・もし人が隣人に傷を負わせるなら、その人は自分が隣人にしたように自分もされなければならない。すなわち、骨折には骨折、目には目、歯には歯をもって、人に傷を負わせたように自分もされなければならない。

 

注:「目には目、歯には歯」の規定は、過度な報復を防ぐためのものであって、復讐を容認するものではない(律法には人に復讐してはならないとある。レビ記19章18節を参照)。

ハムラビ法典にも同様の規定があるが、ハムラビ法典の規定は対等な身分同士の間でだけ適用された(Wiki)。一方、モーセの律法は身分に関係なくすべての人に適用された(民数記15章15~16節を参照)。

 

・果樹を植えるときは、3年間その実を食べてはならない。

4年目は、すべての実を賛美の供え物として主にささげなければならない。

5年目に、その実を食べることができる。

こうするならば、果樹は多くの実を結ぶだろう。

 

・私が与える土地に入ったならば、その土地にも安息を与えなければならない。

6年間は畑に種をまき、畑を手入れし、収穫することができる。

 

・7年目は土地を完全に休ませなければならない。

畑に種をまくことも、畑の手入れもしてはならない。自然に生じた作物を収穫したり、実を摘んではならない。

 

・『7年目に種をまくことができず、作物を収穫できないならば、私たちは何を食べればいいのか』と、あなたたちは言うのか。

私は6年目にあなたたちに祝福を与え、3年分の作物を実らせるだろう。

 

・私の掟を守ってこれを行えば、土地はその実を結び、あなたたちは飽きるまでそれを食べ、安らかにそこに住むことができるだろう。 

 

・安息の年を7度、すなわち7年を7回数えなさい。その年数は49年だ。 

そして50年目を聖別し、国中の全住民に解放の宣言をしなさい。

この年はヨベルの年であって、あなたたちは各々その所有地に帰り、家族のもとに帰る。このヨベルの年に、あなたたちは各々その先祖伝来の所有地を返却される。

 

・土地を売買するときは、互いに欺いてはならない。

 

・土地を売るときは、それを永久に売ってはならず、買い戻す権利を放棄してはならない。土地は私のものだからだ。あなたたちは、私と共にいる寄留者また旅人なのだ。

 

・あなたたちの所有したどの土地でも、その土地の買い戻しに応じなければならない。

 

・同胞の1人が貧しくなってその所有地を売ったときは、彼の近親者がその土地を買い戻さなければならない。たとえその人に土地を買い戻してくれる人がいなくても、その人が裕福になって自分でそれを買い戻すならば、その人はその所有地に帰ることができる。もしそれを買い戻すことができないならば、その売った土地はヨベルの年まで買主の手にあるが、ヨベルの年には返却されるので、その人はその所有地に帰ることができる。

 

注:次の聖句を参照。

『 君主は民の嗣業を取り上げてはならない。彼らの所有地を奪ってはならない。自分の所有地は自分の子らに相続させねばならない。それは、わが民の一人でも、その所有地から追い立てられることがないためである。」』(エゼキエル46章18節 新共同訳)

 

私の定めに従い、私の法を守ってこれを行うならば、私は季節に応じて雨を与える。大地には作物がなり、木々には実がなる。あなたたちは食べ物に困ることなく、平穏に暮らすことができるだろう。

 

私が国に平和を与えるから、あなたたちは安らかに寝ることができ、あなたたちを脅かす者はいないだろう。

 

あなたたちは5人で100人の敵を追い、100人で1万人の敵を追い、そして敵は剣に倒れるだろう。

 

私は幕屋をあなたたちの中に建て、あなたたちを忌み嫌うことはしない。あなたたちの内を歩き、あなたたちの神となり、あなたたちは私の民となるだろう。

 

しかし、私の言葉に聞き従わず、これらすべての法を守らず、私の定めを軽んじ、契約を破るならば、私は次のようにする。

 

すなわち、あなたたちの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病でもって目を見えなくし、命を短くさせる。

 

種をまいても無駄だ。敵がそれを食べるだろう。

 

私は顔をあなたたちに向けて攻める。それゆえ敵の前に撃ちひしがれる。

 

また、あなたたちの憎む者が、あなたたちを治めるだろう。追う者がいないのに逃げるだろう。

 

それでも私の言葉に聞き従わないならば、私はあなたたちの罪を7倍重くして罰する。

 

あなたたちの誇りと力を砕き、天を鉄のようにし、地を青銅のようにする。

それゆえ無駄な努力をすることになる。すなわち大地に作物がならず、木々に実がならないだろう。

 

それでもまだ私に逆らって歩み、私の言葉に聞き従わないならば、あなたたちの罪に従って7倍の災いを下す。

 

私は野獣を放つ。野獣は子供を奪い、家畜を滅ぼし、あなたたちの数を減らす。こうして街道は荒れ果てるだろう。

 

これらの懲らしめを受けてもなお改めず、私に逆らって歩むならば、私もあなたたちに逆らって歩み、あなたたちの罪を7倍重くして罰する。

 

私は戦争を起こすだろう。あなたたちが戦地から自分の町に引き揚げるならば、私は町に疫病を送り、あなたたちは敵の手に渡されるだろう。

 

それでもなお私の言葉に聞き従わず、私に逆らって歩むならば、私もあなたたちに逆らい、怒りをもって歩み、あなたたちの罪を7倍重くして罰する。

 

すなわち、あなたたちは自分の息子や娘の肉を食べるようになる。

 

また、あなたたちの聖なる高台を破壊し、祭壇を倒し、倒れた偶像の上にあなたたちの死体を投げ捨てる。私はあなたたちを忌み嫌う。

 

あなたたちの町を荒れ地とし、聖所を荒らす。敵はそれを見て驚くだろう。

 

更に私は、あなたたちを異国の間に散らし、剣を抜いてあなたたちの後を追う。

そして敵の国で生き残っている者の心に恐れを抱かせる。彼らは木の葉の動く音にも怯え、追う者もいないのに転び倒れる。敵の前に立つことすらできないだろう。

 

あなたたちは異国で滅び、敵の国はあなたたちを飲み尽くすだろう。生き残っている者は、敵の国で自分の罪と先祖たちの罪のゆえにやせ衰えるだろう。

 

しかし、彼らが私に反逆して逆らい続けたことを告白し、甘んじて罪の罰を受けるならば、そのとき私はイスラエルと結んだ契約を思い起こし、またイサクと結んだ契約、アブラハムと結んだ契約を思い起こすだろう。

 

彼らが敵の国にいる間も彼らを捨てず、忌み嫌わず、彼らを滅ぼし尽くさず、

彼らと結んだ私の契約を破ることはしない。私は彼らの神、主だからだ。」

 

これらは、主がシナイ山でイスラエルの人々のためにモーセに命じられた戒めである。

 

注:「神の祝福と呪い」については、レビ記のほか申命記28章も参照。

 

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「律法」とは何か。以下の聖句を参照。

 

『 律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。

… 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。

しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。』(ガラテヤ3章19~25節 新共同訳)

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「あの子孫」とは イエス・キリストのことである(ガラテヤ3章16節を参照)。

 

『 律法は、正しい者のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のためにあり、そのほか健全な教えに反することがあれば、そのためにある 』(テモテⅠ1章9~10節 新共同訳)

 

『 すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。… 律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされない … 律法によっては、罪の自覚しか生じない 』(ローマ3章19~20節 新共同訳)

 

『 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。』

(ガラテヤ5章18節 新共同訳)

 

『 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』(エレミヤ書31章31~33節 新共同訳)

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「新しい契約」が「新約」、「エジプトの地から導き出したときに結んだもの」が「旧約」である。

新約の仲介者はイエス・キリストである(ルカ22章20節・ヘブライ12章24節・テモテⅠ2章5節を参照)。

 

『 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。』

(マタイ5章17~18節 新共同訳)

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「わたし」とは、イエス・キリストのことである。

「すべてのことが実現」するとは、イエスについて「モーセの律法」「預言者の書」「詩編」に書かれてある事柄がすべて実現する、という意味である(ルカ24章44節を参照)。すべて実現するから完成するのである。新たな掟が追加されてモーセの律法が完成する、という意味ではない。

 

 

イエスが律法の下にお生まれになったのは、律法の支配下にある者を贖いだすためである(ガラテヤ4章4~5節・同3章10~13節。ほかにローマ8章3節も参照)。

パウロがモーセの律法を守ったのも同じ理由からである(コリントⅠ9章20節・使徒言行録21章20~26節参照)。