『動物翻訳家』と『ジュラシック・パーク』-。
 世界中にこれほど真逆な2冊の組合せが、果たして存在するだろうか?
 2冊の本を目の前に並べて、私は唸ってしまった。


 1冊は、動物園の飼育員の仕事の様子を、丁寧に綴った渾身のドキュメンタリー。
もう1冊は、映画化され大ヒットした『ジュラシック・パーク』の同名の原作SF小説である。


 課題図書で『動物翻訳家』を読み始めた一方、同時進行で後者を読み始めたが(※2冊の組合せは偶然で、特に意図はない)、この2冊に描かれた動物園/恐竜園の運営コンセプトが、あまりにも対照的だったので、比較しながら読んで理解が2倍深まったのは、ある意味幸運だったかもしれない。
 とはいえ、前者は実際の動物園を取材して書かれたノンフィクション。後者は「クローン技術で古代の恐竜を再生させ、その恐竜達のサファリパークを作ったらどうなるか?」という筋書きのSFである。ジャンルが違う2冊を比較するのは無理があるが、「このタイミングでこの2冊を同時に読んだのは、世界中に私一人しかいないはず。だったら私にしか書けない視点で!」と思い、やはり2冊を比較して感想文を書く事にする。
 2冊の比較ポイントは、以下の3点である。


1.飼育員は、動物/恐竜の幸せを考えているか?

 動物園とは、本来、理不尽な場所である。ジャングルや大自然の中で自由に暮らしていた動物たちを捕まえ、檻に閉じ込め、人間達の晒しものにするのだ。「動物園なんて、人間達のエゴの権化では?」と、心のどこかで私は思っていた。
 だが、『動物翻訳家』の飼育員の方々は、その人間達のエゴを十分に自覚し、
「動物達から自由を奪いながらも、彼らに幸せな暮らしを提供する道」
「自然から動物達を切り離しながらも、できる限り自然に近い状態を人工的に創りあげる道」
を、必死に模索していることを知った。
 第2章に、幼い頃からショーに出されてきたタレントチンパンジー、マツコのエピソードが出てくる。飼育員の山内さんは、マツコが受けてきた心の傷を真摯に受けとめる。「マツコが残りの半生を、この動物園で幸せに暮らすには、どうすればいいか?」・・・真剣に考え、できる限り環境を整えようと努力を重ねる。あるいは、第1章で埼玉県こども動物自然公園の小山さんが、ペンギン達の理想的な住みかを作るため、南米のチロエ島を調査しに行き、それを動物園で再現する-。
 彼ら飼育員達は、「動物園」という施設が持たざるを得ない矛盾を十分自覚している。だからこそ、できる限り動物達に幸せに暮らしてもらえるよう、忍耐強く努力と工夫を重ねる。その姿が素晴らしいと思う。


 一方、「ジュラシックパーク」は、上記の動物園に描かれる「環境エンリッチメント」の概念と真逆の倫理観で運営される。恐竜の気持ち、ましてや彼らの幸せなんて、関係者は誰も考えていない。恐竜はただの金儲けの手段=商品にすぎない。
 その証拠にこの恐竜園の恐竜達は、人間達から誰も名前で呼ばれない。『動物翻訳家』に出てくる動物達は、チンパンジーなら「ゴヒチさん」「マツコ」、キリンなら「キヨミズ」(飼育員の高木さんは、愛情を込めて「キヨくん」と呼びかけていた)など、ひとりひとり名前が与えられ、愛情を込めて呼ばれていた。278ページには、「昔から京都動物園では、キリンたちに京都にある山の名前をつける伝統があった」とある。対象に名前を与えるという行為は、その存在に愛情を与え、価値ある存在として慈しむ、という証である。だが、ジュラシックパークの恐竜達はその名前を持たない。「トリケラトプス」「ティラノサウルス」など、種類は知識として知られているが、一頭一頭の名前はない。それどころか、恐竜達は体にGPSを埋め込まれ、コンピューターで数を管理されている。確かに『動物翻訳家』の中で、第3章のアフリカハゲコウのキンとギンが、GPSを付けられるエピソードが出てくるが、それは彼らが動物園から飛んでいって迷子にならないための安全防犯上の目的で仕方なく付けられているのであって、管理が目的ではない。
 要するに、『動物翻訳家』の動物達は、飼育員達によって権利と尊厳を尊重されているが、ジュラシックパークの恐竜達は「商品として管理すべき存在」以外の何者でもない。餌や住居などの環境を整えることは大切だが、何よりも大切なのは、それを行う人間の倫理観である。古代ギリシャの実験で、食べ物と暖かいベッドは整えが、愛の言葉をかけず、抱きしめられなかった赤ちゃんが全員死んでしまったことを、ふと思い出した。




2.動物園/恐竜園を作った目的

 『動物翻訳家』231ページに、動物園とは来園者にとって「楽しく貴重な体験ができる場所であり、動物や命あるものへの興味の入口としての教育的な意味合いもある」とある。つまり動物園は、子供や大人が動物と出会うことで、命の大切さを理解し、命を慈しむことを学ぶための「学校」なのである。
 対照的に、「ジュラシックパーク」は、出資者の金儲け主義が大いに反映され、「教育的要素」よりも「エンターテイメント性」の方が強調されている。
 もちろん、動物は可愛いし見ていて飽きない面白い存在だ。動物園には必然的に「エンターテイメント性」も備わっているであろう。しかし、動物園に行って「あぁ~楽しかった!」で終わってはならない。動物園が遊園地と違う点は、何といっても「私たち人間が、他の生き物達から学ばせてもらう」という視点を、私達自身が持つ所だからだ。



3.声なき存在の声

 基本的に動物は言葉を話せない。(チンパンジーのように、言語に近いコミュニケーション手段を持つ動物も、いることはいるが。)そこで、どうするかというと、『動物翻訳家』の飼育員達は、「動物達の観察」から始める。今日は元気が良いか?表情が明るいか?餌をちゃんと食べるか?ウンチの状態はどうか?・・・一日中じっと観察すれば、言葉で意思疎通ができなくても、彼らへの理解を深めることができる。

 第4章で、キリン飼育員の高木さんが掃除中も運動場にいるキリンを観察できるよう、仕切りを馬栓棒に変えた・・・とエピソードは「なるほど!」と思った。私自身、保育園で絵本読みのボランティアをしているので、似たような経験がある。保育園に通う子供達は、下は0歳から、上は5歳まで様々だが、0~2歳くらいの子供達は、言葉が上手く話せないので、何に喜び何にイライラしているのか、よくわからない。そこで、私たち大人は、彼らの顔の表情や、食事やウンチの様子、遊ぶ様子をじっと観察するしかない。彼らを見つめる時間、彼らと同じ空間で一緒に過ごす時間が増えると、彼らの気持ちが見えてくるのである。

 一方、ジュラシックパークだが、関係者達は恐竜達を至近距離で観察などしない。遠く離れた管理棟にこもり、コンピューターと監視カメラで高みの見物をするだけ。高木さんとエラい違いだ。そもそも、恐竜をクローン技術で再生させた科学者自身が「このテーマパークに住んでいる恐竜の種類?多分15種類くらいじゃないですか?名前は知りませんけど。」などと言っている始末である。恐竜達が繁殖しないよう、科学者達が研究所で作った恐竜は雌(メス)だけだが、ジャングルに解き放たれた恐竜達のうち何頭かは、両生類のように性転換をし、ついには雄(オス)恐竜が人間の手の届かない所で生まれてしまう。この筋書きからも分かるように、飼育員が毎日毎日恐竜をじっと観察する・・・という忍耐を必要とする作業を怠った結果、恐竜が人間の想定を超えて進化し、最終的には人間の安全を脅かす存在になる・・・と、筆者は示唆し、人間の動物に対する傲慢さを警告している。

 動物も人間の赤ちゃんも、言葉を話せないからといって、彼らが何も感じていないのか?と言えば、当たり前だが答えはノーだ。第4章に「キリンさんがね、お姉さんのこと、だーい好きって言ってたよ!」と、高木さんに伝えて走り去っていく少女の話が出てくる。動物や子供達は、社会的には「声なき弱者」である。その分、私たち大人には見えないものが、彼らには見えているのである。それを忘れて、声なき弱者の声に耳をすませずに驕り高ぶっていると、ジュラシック・パークの結末のような大惨事を招くだろう。

 『動物翻訳家』という本のタイトルが示すように、動物園の飼育員達は、声なき者たちの声を拾うため、すさまじい努力を重ねている。人間の要求を押し付けるのではなく、まず動物達の要求を受けとめることから始めている。動物園の飼育員に限らず、「声なき者達の声を聞き、目に見えない物を見る」能力というのは、私達誰もが磨いていかなければならないと、改めて思った。



まとめ

 小説『ジュラシックパーク』の67ページで、ある遊園地関係者が会議で発言する。「動物園というのは、非常に儲かるビジネスなんだよ。昨年、我が国(アメリカ)ではプロ野球やフットボールを見に行く人より、動物園に行く人の方が多かったんだ。それに、日本人が動物園が好きなことといったら!日本には50もの動物園があって、今でも新しい動物園が建てられているくらいだ。」(※原書。筆者意訳)
 アメリカ人作家クライトンの小説で、日本がこのように描かれていることに笑ってしまったが(文脈的にこの台詞の人物は、日本人を「金を落としてくれるオイシイ存在」としてしか見ていない。)、興味を持って世界各国の動物園の数をネットで調べてみた。すると、「日本はアメリカに次いで、動物園の数が世界で二番目に多い(アメリカ:209ヶ所、日本162ヶ所)」というデータが出てきた。因みに、3~5位はドイツ・フランス・イギリスと先進国が並ぶ。動物園とは、経済的に豊かな国だからこそ運営できるビジネスなのだろう。
 他の国の動物園の内情を知らないが、今回『動物翻訳家』を読み、日本の飼育員達が、いかに誇りと倫理観を持って動物園の運営に携わっているかがよく分かった。単なる金儲けでも娯楽施設でもない。動物達に寄り添おうと努力を重ね、人間達にも教育的価値を与え続ける存在。このコンセプトで動物園を運営できるのは、自然を管理せず、自然に逆らわず、自然と上手く融合しようとする、日本人の文化と感性だからこそではないだろうか。
 弱き者に優しくできない者が、自分と対等な者に優しくできるはずがない。人間より弱き存在である動物を見つめることは、自分の生き方を見つめ直すことでもある。それを、『動物翻訳家』から学ぶことができた。