昔、1980年代に宝塚歌劇団に入団したタカラジェンヌは、宝塚歌劇団を卒業してから、このように言っていました。


「音楽学校は、本当に厳しかったね〜。でも、劇団に入ったら、本当に楽になった。あんなに怖かった上級生が『◯◯ちゃ〜ん』って言ってくれて、仲良くなってね。音楽学校のあの厳しさは何だったのか」


他にも、1980年代に入団したタカラジェンヌが宝塚OGになってから、1期上の上級生と一緒にテレビ出演したときに上級生を「◯◯ちゃん」と呼び、タメ口で話していました。


1990年代に退団したトップスター(1970年代入団)の「昔は靴の中に画鋲を入れるなんて、陰湿なイジメがあったけど、今はそういうイジメはなくなった」という発言が機関誌に載っていました。(「ヘアアイロン持って行こうかな」とはエライ違いだ)


これらの言動から、少なくとも1990年代前半までは、宝塚歌劇団は厳しいながらも風通しが良かったと窺える。

宝塚音楽学校は、厳しかったようだけど。


宝塚歌劇団が殺伐としていったのは、日本経済の衰退が関係していると思われます。


日本が経済大国だった頃は、どれだけ赤字を出そうが、阪急電鉄本体が気前よくお金を出してくれました。


創立者の小林一三翁は、儲けは度外視していた。


日本初のレビュー「モン・パリ」は、当時の1年分の制作費を使ったと書かれていたと記憶しています。


小林一三翁は「いいものなら、やれ」と仰ったそうです。


「モン・パリ」は大ヒットしましたが、制作費は回収できたのだろうか?


しかし、バブル経済崩壊直前から、阪急電鉄本体の経営が苦しくなる。


銀行から「阪急ブレーブスか宝塚歌劇団を手放すように」と言われ、阪急ブレーブスを手放したそうですが。


阪急ブレーブスを身売りしたのは1989年。


1990年代前半までは宝塚歌劇団の風通しが良かったと思われるのは、阪急ブレーブスを売却して、少し資金に余裕があったからなのか??


https://ameblo.jp/risounohana/entry-12830320962.html 


↑の記事で紹介した元スタッフの証言で、「裏方スタッフは阪急の社員だったが、1998年に宝塚舞台という会社ができてからは、宝塚舞台の社員として雇用されるようになった」という発言があります。

阪急の社員だと高給を払わなければならないけど、子会社だったら安い給料で済ませられるという経費削減を行った訳です。

宝塚舞台ができた当時の私は、「より効率よく業務ができるようになるのかな?」と、呑気に考えておったのですが…。

1996年に「現場をよく知っている」という期待を背負って、植田紳爾氏が宝塚歌劇団理事長に就任しています。

バブル経済崩壊に加え、1995年の阪神・淡路大震災で阪急電鉄は甚大な被害を受けました。

早急に、合理的な経営が必要とされたのだと思われます。

植田紳爾理事長の在任中は、新専科制度というリストラ断行、渦中の宙組新設、東京宝塚劇場の建て替えなどがありました。

新専科制度はね〜…あんな露骨なことせずに、もうちょっと上手くやれなかったのかと思いますよ。

かつては、寿退団するタカラジェンヌが多かったのですが、新専科制度ができた頃には、寿退団するスター上級生は少なくなっていた…という事情は分かるんですがね…。(今も、しれっと新専科制度再開してますが)

某組の元組長は「退団するか、組長になるか選べ」と劇団から言われたと告白していますね。

元組長が上記の選択を迫られたのは、2000年代後半。

1990年代後半からリストラが進み、2000年代に、既に非情な劇団になっていたと思われる。

…と悪い頭で考察していたのですが、香月弘美さんが事故死したときに、劇団は事故死をなかったことにしようとしていた…というコメントを他人さまのブログで拝見して、「今までの考察は無駄だった!?」と、ちょっと悩んでおります。