言語化の危険性
『曖昧さ』を手に入れる
が目標の一つにある今年。
今いろいろ考えてて、タイトルのことに行き着いた。
"言語化の危険性"
例えば、
なんとなく気になるかなぁって人が現れたとする。
で、なにかの機に友達に『気になる人が出来たかも!』って話す。
話すとそれが自分の中にある事実として世に出て、他者に発信されて、一つの自分っていうものを構成する要素になる。
言い方がオーバーかも知れないけど、もやもやと自身の中にあることを、『言葉』にして出した時点で一つの意味を帯びてしまうと思う。
…
だから気になる人の話に戻すと、友だちに話しちゃったあとはホントに気になっちゃったり、好きなような気がしちゃったりもする。
私だけかな?
考えすぎるが故に、心中に曖昧キモチとかを抱えがち。
なのにその曖昧さをなんか受け入れられなくて(曖昧さに耐えられなくて)、安易に言葉にしてしまってるような気がする。
でも言語化するって実は恐ろしいんだ。
前に語った『自分マネジメント』の話。
自分って見せ方次第だ。
だから安易に発信しちゃアカン。
いや、安易であったとしてもそれがその人の本当の(そもそも何が本当?)答えならいいんだけど、
わからないのに適当に言語化したらアカン!
ってゆうのも…
内定先の同期との絡みを通してかんじることなんだなぁ。
まず、絡んでないんだけど。。
私はなにも自分を発信してないから、同期は私って人を知り得なくて
でも知ってほしいって思えなくて
なぜか初めから緊張しちゃって、気張って…
それが続いてある日、同期のなかで同じ大学サークルの唯一私を知ってる奴と話してて
『あんたは同期の最前線で私は最後尾だね~なんか馴染めないしちょっと気まずい』
ってもやもやを言葉に伝えたんだ。
これは正直なキモチだったけど、そこからキモチの変化がしづらくなった気がする。
会う度にそう言われるし。
気を遣って少人数飲みも誘ってくれるのに、なんか行けない。行きたくない。
今から自分を理解してもらえる気がしない。
あぁ長い上に散文や。。
しかも書いた自分すらなに言いたいか分かんなくなっちゃった…
すいません。
おやすみなさぃ☆
が目標の一つにある今年。
今いろいろ考えてて、タイトルのことに行き着いた。
"言語化の危険性"
例えば、
なんとなく気になるかなぁって人が現れたとする。
で、なにかの機に友達に『気になる人が出来たかも!』って話す。
話すとそれが自分の中にある事実として世に出て、他者に発信されて、一つの自分っていうものを構成する要素になる。
言い方がオーバーかも知れないけど、もやもやと自身の中にあることを、『言葉』にして出した時点で一つの意味を帯びてしまうと思う。
…
だから気になる人の話に戻すと、友だちに話しちゃったあとはホントに気になっちゃったり、好きなような気がしちゃったりもする。
私だけかな?
考えすぎるが故に、心中に曖昧キモチとかを抱えがち。
なのにその曖昧さをなんか受け入れられなくて(曖昧さに耐えられなくて)、安易に言葉にしてしまってるような気がする。
でも言語化するって実は恐ろしいんだ。
前に語った『自分マネジメント』の話。
自分って見せ方次第だ。
だから安易に発信しちゃアカン。
いや、安易であったとしてもそれがその人の本当の(そもそも何が本当?)答えならいいんだけど、
わからないのに適当に言語化したらアカン!
ってゆうのも…
内定先の同期との絡みを通してかんじることなんだなぁ。
まず、絡んでないんだけど。。
私はなにも自分を発信してないから、同期は私って人を知り得なくて
でも知ってほしいって思えなくて
なぜか初めから緊張しちゃって、気張って…
それが続いてある日、同期のなかで同じ大学サークルの唯一私を知ってる奴と話してて
『あんたは同期の最前線で私は最後尾だね~なんか馴染めないしちょっと気まずい』
ってもやもやを言葉に伝えたんだ。
これは正直なキモチだったけど、そこからキモチの変化がしづらくなった気がする。
会う度にそう言われるし。
気を遣って少人数飲みも誘ってくれるのに、なんか行けない。行きたくない。
今から自分を理解してもらえる気がしない。
あぁ長い上に散文や。。
しかも書いた自分すらなに言いたいか分かんなくなっちゃった…
すいません。
おやすみなさぃ☆