こんにちは

しまりすです!


やっと関東梅雨明けしました!

なんか前からしてるような気はするんですが


ところで

「ひそやかな花園」角田光代さん著 を

読みました


毎年夏にキャンプと称して

7家族がその中の1家族の別荘に集まる

それは何年か続いて、ある年、突然なくなる


それぞれの子どもたちがあの集まりは

どんな集まりだったんだろうと思い

あそこにまた行きたい、また会いたいと

思う子どもたちもいる


その集いがどんな集いだったか

ここで書いてしまうと、一番核の部分を

見せてしまうことになるので、ここでは伏せつつ

話を進めます


大人になって、この子どもたちは会います

それぞれにいろいろ抱えながら

毎年といっても、何年か夏の何日かだけ

会った子たち、面影すら思い出さない子もいて

見知らぬ人に会ってなんとなく居心地が

悪い気持ちを抱く人もいる

とらえ方はそれぞれだけれども

自分たちの家族がなぜ夏のキャンプで

会ったのか、出生の秘密を知りたくて

また集まりはじめる


そして、このキャンプで集まっていた子どもたちは

同じような過去を持っているからなのか

お互いに、最終的には優しい

1人の一見冷たく見える人が優しい嘘で

仲間を守ったこともとても優しい気持ちになった


倫理的な問題もあり、この子たちの親の選択を

どうこう思うつもりもない

それが正しいか正しくないか、もしくは

受け入れられるか受け入れられないか

それは人によって違うし正しい答えなどないと思う


それはこの小説のなかで

1人の男の子(男性になっているけど)が

ライターの人と話す場面がある

二人で焼き鳥を食べていて、大根おろしが

ついている 二人がそれを別の食べ方をする

正解は何かお店の人に聞いてみる

すると、どちらとも違う食べ方を言われる


そして、このあと、そのもう男性になった

キャンプにいた男の子は自分の欠落した部分を

話す

友達関係も恋も続かないと

すると、そのライターは言う

それを欠落とは言わないと

さっきの大根おろしと同じで、自分と君が

いなかったら、大根おろしの運命は1つだった

でも、自分と君がいることで大根おろしの

運命は2つになった

それを欠落とは言わない、と


そういうことなのだと思う

なんにしても、生きることに正解不正解

どちらが勝ってる劣ってる欠落してるなんてないのだ


このなかで、親が子どもの幸せを思うときに

子どもは自分とは違う世界に生きる

そのなかで何が幸せかはその子どもが

決めることだ

というようなことを言う場面がある

そうなのだ

人それぞれ幸せは違う


この中で私が苦手な女の子が出てくる

その子(もうもちろん女性になってる)は

自分の幸せ感を人の人生に投影して物を言う

だから、違う感覚で生きてる人の人生にまで

土足で踏み込んで自分の感覚で物を言う

キャンプのとき、子どものときから

被害妄想みたいなものを持った子どもだった

その子が小説の最後にある人に手紙を書く

同じキャンプにいた人がみんなの前で

話したことで自分も前に進もうとする

手紙の内容から、この人もまた変わったのだ

ということがわかる


それが何があっても、一歩を踏み出せば

何かが変わるような明るい未来を感じさせる

終わり方になっていた

私たちは大丈夫というような





ちょっとこの歌を思い出しました


https://youtu.be/RkF5_BpBQU4