エルサレムの旧市街の東側には、オリーブ山(Mount of Olives)という、よく見ると墓まみれの小高い丘が聳えています。

 

 

 

 歩いて登ってもよかったのですが、観光の効率を考えて、まずはエルサレムのホテルからこの丘の頂上付近までタクシーで向かい、そこからエルサレム旧市街を見下ろす圧巻の景色を堪能してみることにしました。到着してみると、思ってた以上に壮大な景色が眼下に広がり、手前のエルサレムの旧市街と、その彼方にある新市街とのコントラストがとても印象的でした。

 

 

 こんな素敵な眺望のオリーブ山には、イェシュア(イエス)が昇天(アセンション)したとされる地にアセンション教会なるものがあります。他に観光客がまばらな中、ぶっきらぼうな係員に入場料を支払い、ドーム状の屋根の小さな建物の中を訪れてみました。そこにはイェシュアのものだとされている片足の「足跡」がありまして、もう一方の足の足跡は、なぜかテンプルマウントのモスクの中にあるのだそうです。

 

 

 

 この教会を出てから、細い路地に入り、坂を速足で駆け下り始めて、マグダラのマリア教会や万国民の教会、そして聖母マリアの墓地(墳墓教会)などを訪れていきました。

 

 

 

 

 

 こうして坂を下りきった低地の辺りはキドロン谷と呼ばれ、バスなどの往来が激しい道路と交差点をなんとか越えて、細い石畳の上り坂をテクテクののぼって行くと、やがて「ライオン・ゲート」というエルサレムの旧市街の北東の入り口に到達します。

 

 イェシュアが裁かれてから、十字架を受け取り背負って、ゴルゴダの丘にある十字架まで歩いたとされるヴィア・ドロローサ (Via Dolorosa) と呼ばれる史跡の道が、ここから延々と続いていきます。ただ当時の道は今の何重にも舗装された道路よりももっと深くに存在していたのだそうで、「ここで転倒した」とか、「これがその時にできた手形だ」とか、もっともらしい色々な謂れが残されているものの、そのどこまでが真実なのか、正直極めて不明瞭な感じがしてました。

 

 

 

 最初は道幅もあり、時折車が往来する忙しない石畳の道路なのですが、角を何度か曲がると、小さな店が所狭しと林立する狭い急坂となっていきます。すでにヴィア・ドロローサ (Via Doloros) の「次のスポットはこっちで、イェシュア(イエス)がここでどうした」みたいな、後で追ってつけたような説明にすでにうんざりしていた僕は、気持ちも次第に離れていき、気づくと道に迷い始めていました。最終終着点である「ゴルゴダの丘」の跡地である聖墳墓教会 (Church of the Holy Sepulchre)の一部が頭上彼方に見えてきたものの、どこをどう行っていいのかわからず彷徨いました。

 

 

 そうこうしてなんとかしてやっとたどり着いた聖墳墓教会 (Church of the Holy Sepulchre)ですが、中に入ると巡礼の人々や観光客で芋洗い状態で、そこが世界中のキリスト教徒が訪れる一大聖地なのが一目瞭然といった感じでした。

 

 

 常に押し合いへし合い状態のこの聖墳墓教会なのですが、実はほとんど誰も人がいない時に訪れる裏技があるんです。実は、巡礼の旅でやってきた敬虔なキリスト教徒のために、いわゆる「overnight vigil (寝ずの徹夜)」という制度があります。誰もいない聖地で徹夜して祈りを捧げるみたいなことだと理解しています。イェシュアという存在に強い繋がりを感じる人であれば、キリスト教徒であるかどうかに関わらず、この制度を利用してこの教会で徹夜してみることはとても意味のあることだと僕は思います。

 

 ガイドブックには一切載っていない情報ですのでシェアします。まず、予めこの教会の事務所(Franciscan Office)に電話(+972-2-626-7011)して、「何人連れの旅で、巡礼 (pilgrimage)でエルサレムを訪問するので、何月何日の夜にovernight vigilを予約したい」とお願いします。毎晩15人までと枠が決まっているので、その枠が空いていれば了承され、「教会が閉まる時間(午後7時)のちょっと前に教会に入って、入ってすぐ右の石のベンチに座って待っていておくんなさい」と指示されます。

 

 聖墳墓教会では閉まる時間が近づくと、モタモタしている一般客は早く去るように次第に急かされるようになります。そんな中、overnight vigilで来た我々は扉のこっち側にある石のベンチに腰を下ろしてその風景を眺めて待ちます。やがて他の観光客が全て去って教会内が閑散とした後に、梯子に登って分厚い扉が施錠され、そして施錠に用いた梯子が扉から外に明け渡されます。こうすることで、翌朝に係の人が梯子を持参して来るまでは、教会の中から誰も外に出ることができない密室状態が創り出されるようです。

 

 

 事前に電話で予約をして代表者の名前を伝えているものの、ツアーとかではありませんので、教会側としては15人の枠を設定している以外、特に誰が誰であるとか全く興味がありません。ですので、点呼とかは一切ありません。重たい扉が閉められた後は、神父さんたちは何事もなかったようにどこかにいそいそと失せてしまい、残された10数名の我々は、「えっ、いきなり勝手に自由行動すればいいってこと?」とお互い目を合わせ、やがて、「ま。そういうことか」と、皆やがてそれぞれ勝手に歩き回り始めます。

 

 

 この教会に来たときには、一応巡礼の順序みたいのがあって、ヴィア・ドロローサ (Via Dolorosa) を歩いたその順路の延長で、順番に教会の中を歩くのが通例のようです。昼間に訪れると、ものすごい数の観光客に塗れて順路を歩くことになりますが、あまりに人が多いので結構人酔いしてしまいます。僕的にはヴィア・ドロローサ (Via Dolorosa) そのものに既にあまりピンと来なかったので、こうしていざ、聖墳墓教会を10数名の人たちだけで独占できる段になっても、特に順路に沿って巡ろうとか全然考えてもいませんでした。

 

 教会内には、イェシュアの石墳墓が内在する建物(エディクラ)が一階の中心にあり、ここがこの教会で最も混み合う場所となっています。昼間はここに超長い行列ができ、中に入ってもサッとお祈りしてすぐ出なくてはならない感じの大人気のスポットです。

 

 

 こうして徹夜のために訪れた10数名の人々の中で、順路みたいな後から取ってつけた規則を一切無視して、いきなり石墓に向かったのは僕だけでした。ですので、世界一神聖な墓を、文字通りいきなり独り占め状態でした。入るなりキーンという甲高いエネルギーが僕の頭を貫きました。親愛なるイェシュアからのイニシエーションが開始したのが明らかでした。とにかく一番奥を一人陣取って石墓に前のめりにもたれかかり顔を突っ伏した状態で3時間近く座り込んでいました。特殊な意識状態というか仮死状態(?)で瞑想していたようで、他の人たちが色々後から入ってきて聖書の一部を朗読したり、祈りを捧げたり、色々していたのでしょうが、僕はほとんど憶えていません(笑)。

 

 

 この石墓の建物から出て、出入り口の扉の方向に戻ると、磔にされたイェシュアの身体を横たえたとされる長細い石板があります。ここも、昼間は触ったり、祈りを捧げたり、涙したりする敬虔な人々でごった返すので有名な超ポピュラースポットなのですが、この時間には当然誰もいず、まさに独り占め状態でした。僕はゆっくりその石板の隣の床に横になり、まるで横たわるイェシュアの身体に手を乗せるかのように、石板をやさしく触った状態で目を瞑り、また深く瞑想しました。

 

 

 この聖墳墓教会は、かつて磔の処刑が行われたゴルゴダの丘のあった場所に建てられたとされています。教会に入ってすぐ右にある1階そして2階の空間では、種々の祭壇があるだけでなく、ゴルゴダの丘のゴツゴツした岩が、教会内からガラス越しに見えるようにもいます。この空間に入って岩を眺めるや否や、ものすごいキーン音に包まれ、またも意識が飛びそうになりました。

 

 

 イェシュアが生きていた頃のイスラエルは、ローマ帝国の支配下になりつつあったそんな不安定な時代であったようです。(ここからは「信じるか信じないかはあなた次第」的な領域に入りますが)三種の神器が収められていたとされる聖櫃(アーク)は元々モリヤ山と呼ばれた山の山頂にあった神殿の丘(テンプルマウント)にあったようですが、やがてくるローマ帝国による破壊を予期してか、ゴツゴツとした岩のあるこのゴルゴダの丘(当時の処刑場)の地下深くに移され隠されたとされています。

 

 

 そんなゴルゴダの丘でイェシュア(イエス)が磔刑になったときには、鋭い矢で突かれたイェシュアの体から流れ落ちた血液がゴルゴダの丘の岩の間から地下まで滴り落ち、そこにあった聖櫃の上にこびりついたそうです。そして、このあとどのくらいの年月が経ってのことなのかはわかっていませんが、この聖櫃はやがてゴルゴダの丘の地下から、この神殿の丘の地下に再度移されたようです。

 

 そんな歴史を知りながらガラス越しに見えるゴルゴダの丘の岩を眺めると、意識が一気に時を超えていきそうです。

 

 

 そんな荘厳なまでに静寂に満ちた聖墳墓教会での徹夜も、午後11時になるとその静寂が破られます。

 

 教会の中の各部屋で、それぞれの宗派の修道士さんや神父さんが起床してお勤めを始める時刻です。あちこちで、香炉がシャンシャンシャンと振り回され、松果体を貫くようなフランキンセンスの煙で咽せるほどになってきます。そして種々の場所からの祈りの声が聞こえ始め建物内にこだまし始めます。この時刻になりますと、石墓の建物にはもう入れず、あちこちの部屋で「どっかよそに行って。しっし!」と邪魔者扱いされます。ですので、朝4時に再び表への扉が開くまで、10数名の僕たちは、あっちフラフラ、こっちフラフラと家なき子状態で、階段を下りて下層階の方へ退散したり、人によっては、こっそり暗い部屋の椅子で仮眠する人もいました(もちろん、眠ったり、飲食したりすることは禁止されています)。

 

 

 聖墳墓教会で徹夜されることを希望される方は、午後7時に扉が閉まって自由行動が開始してから午後11時までが勝負だと心得てください。この間に、自分が独り占めしたい場所に行って時間を過ごしてください。午後11時以降は、なんか「居場所のない徹夜マラソン」みたいになり、ただ時間が過ぎるのを待つ「やっつけ仕事」的な境地になります。午後4時に教会から出られたときの疲労感は半端ありませんでした。人っこ一人居ない寂しい早朝の石畳の街に靴音だけが響いていました。

 

 

 さて、エルサレムには、もう一箇所、とてもポピュラーで混み合う場所があります。かつて「モリヤ山」と呼ばれた高地に鎮座する「神殿の丘(テンプルマウント)」です。エルサレムに到着して数日後に、グレッグのツアーの一環で、早朝一番にこの神殿の丘を訪れました。元々ユダヤ教の神殿があったとされるこの地は、現在はイスラム教の建物が立っていて、イスラム教の聖地となっています。ここに入るときには荷物チェックと、ボディチェック用の探知機を通って入ることになり、昼間には入り口に行列ができたりします。そんなこともあり、また入れる時間制限もあるため、早朝に訪れるのが賢明のようです。

 

 セキュリティのエリアを抜けて、左下にユダヤ教の人々が祈祷している「嘆きの壁」を眺めながら通路を上っていっていざ神殿の丘に入ると、そこはなんか一見平和で長閑な「普通の公園」的な雰囲気が一杯で、一瞬だけちょっと拍子抜けします。しかし、よく見ると銃を持った兵隊さんたちがあちらこちらにいて、ここが政治的、宗教的な争いの台風の目であることを再認識するわけです。

 

 

 この広大な神殿の丘のど真ん中には更なる高台がありまして、その上に岩のドーム (Dome of the Rock) と呼ばれる、上から見たら8角形の建物が立っています。ここは、かつてユダヤ教徒たちが「創造の石 (Genesis Stone)」と呼んでいた大きな岩があったところで、それがなぜか今ではイスラム教の聖地になっています。このアズール色に光った建物にはイスラム教徒しか入れません。

 

 

 大抵の人がこの周辺で写真を撮って観光するようですが、僕はそこではなくてもっと北の方へ導かれました。

 

 この高台北部の東側(キドロン谷に面した側)には、かつて向かいのオリーブ山からキドロン谷を越えて直で神殿に入って来られるように橋が設置されていたと言われ、その橋の神殿側の入り口が、「東のゲート (Eastern Gate)」あるいは「黄金のゲート(Golden Gate) 」と呼ばれていました。このゲートは今も残存しますが、そこには橋はなく、ゲートの建物自体が完全に閉じられていて、今ではイスラム教徒の人々が礼拝する場所として使われているようです。

 

 

 

 このゲートこそが歴史的にとても重要なんです。かつて、イェシュアがオリーブ山から神殿に入るときに通ったのがこのゲートであり、また、救世主(メシア)が再び出現するときに再度開かれるとユダヤ人が信じてやまないゲートでもあります。岩のドームの高台の最北部あたりから東の方向をよく眺めると「黄金のゲート」の跡があるのが見てとれます。

 

 面白いもので、当時、オリーブ山側から橋を渡りこのゲートを入ってきて、そしてその目の前に神殿があったとすれば、当時の神殿は、イスラム教の聖地と化した八角形の岩のドームがある地点ではなくて、その北部のこの辺りに神殿があったであろうことは明らかでした。

 

 そんなことを考えて、この高台の最北部の真ん中辺りまで歩いて来ると、キーンと音が鳴り始めました。足元深くから「ここだよーっ!」って叫んでいるような高波動の音が僕の身体を突き抜けました。その瞬間、「あ、ここに聖櫃(アーク)が埋まっているんだ」と瞬時に理解しました。

 

 

 

 イスラエルの重鎮たちが頑なに隠そうとしているようですが、この聖櫃は近年になってロン・ワイアット (Ron Wyatt) という考古学者によって発見されています。しかし、エルサレムの神殿の丘(テンプルマウント)という土地は、今ではイスラム教の聖地になってしまっているため、聖櫃そのものを回収するには至らず、その上部にこびりついたイェシュア(イエス)の血液だけを採取するだけに留まったと言われています。

 

 そんな聖櫃の上部にこびりついた血液はこっそり回収され検査に回されました。ロンが実際にその最高機密の結果をこっそりと漏らした当時の映像が今でも残っています。

 

https://www.youtube.com/watch?v=EGLPADW_kUw

 

 血液はAB型で、不思議なことに24個の染色体しかなかったそうです。普通の人間の細胞は46個の染色体が存在します。父親と母親からもらった常染色体が44個(22対)あり、これにプラスして、女性であれば両親からもらったX染色体が合計2個(1対)、男性であれば、母親からもらったX染色体と、父親からもらったY染色体がそれぞれ1個ずつ存在します。

 

 しかし、聖櫃の上にこびりついていた血液の細胞は、常染色体が44個ではなくその半分の22個で、それに加えて、X染色体が1個、そしてY染色体が1個という奇妙な構成であったそうです。つまり、聖母マリアからもらった染色体(常染色体22個とX染色体)にプラスして、どこかからやってきたY染色体が単品で存在していたことになるわけです。これは、聖母マリアの無原罪の受胎 (immaculate conception) を支持する結果とも言えそうで、この単品のY染色体こそ、地球外の存在たちにより、意図的にマリアの子宮にもたらされたものであると考えられています。

 

 

 いわゆる聖書と呼ばれるものが、事後的にその宗教団体に都合の悪いものを排除して、都合のいいものだけを編纂してできたものであるということは、死海沿岸のクムランで発見された文書(「死海文書」)によって明らかにされています。死海文書の大部分は旧約聖書の写本ですが、その中には、現在の聖書に含まれない内容の文書が多数存在し、いわゆる地球外生命体の存在も明瞭に記されているようです。

 

 では、なぜマリアが地球外生命体に選ばれたのでしょうか。ここには「イスラエルのメシアとアロンのメシア」という預言が関わってきます。「死海文書」には、この世界は「イスラエルのメシアとアロンのメシア」という二人のメシア(救世主)によって救われると記されているそうです。これに関しましては、さまざまな解釈がありますが、僕個人的には、Toland Vlogのサムさんの説明が一番しっくりと来ます。

 

 https://www.youtube.com/watch?v=0cBgXw1e55c

 

 要約すると、イェシュア(イエス)の母のマリアは、親戚のエリザベートと同様にアロンの家系の末裔(レビ族)で、アロンの妻のエリシェバから、母から娘、そしてその娘へという風に受け継がれてきた特殊なX染色体を受け継いだ女性でした。よって「女の子孫(女系)から生まれるメシア」とは、マリアが地球外生命体からY染色体だけを受け取って、つまり無原罪の受胎で産んだ「アロンのメシア」こと、イェシュア(イエス)であったということです。

 

 そして他方の「ダビデ(ユダ族)のY染色体を受け継いだ子孫(男系)であるメシア」の方は、イスラエルの建国を成し遂げる「イスラエルのメシア」であり、これから現われるとされています。

 

 これは僕の勝手な直感ですが、この「ダビデのY染色体」というものと、日本人男性の4割がY染色体に保有するとされる「YAP遺伝子」というものって、何か繋がるものがあるように直感で感じています。とすれば、「イスラエルのメシア」は、来るべき刻に日本から出現するのでしょうか。

 

 エルサレムでのクリスマスイブには、イェシュア生誕の地ベツレヘム (Bethlehem)にある生誕教会で、クリスマスのミサ (Midnight Mass)に参加しました。通常は、このミサは表の広場にある大きな画面越しに参加するようですが、僕たちは教会内の席に座りたかったので、Christian Information Centerという正式な窓口を通じて、予めウェブ申し込みをしておきました。

 

 https://www.cicts.org/en/midnight-mass-bethlehem

 

 ベツレヘムは、パレスチナ自治区にあるため、エルサレムからタクシーで向かうには、パレスチナ人の運転手のタクシーを手配する必要があり、ミサの後にも迎えにきてもらうように、エルサレムのホテルのフロントの人に頼んで手配してもらいました。

 

 

 教会の扉が開くまでの間混み合う教会の広場で時間を潰していると、次第に雨が強くなってきました。そして混沌の極みのような揉み合いへし合いの人混みに飲まれた頃には、他人の傘が顔に当たってきたり、傘から滴り落ちる冷たい雨水がもろに襟足に落ちてきたりで、「いつになったら入れるの?」と身も世もない惨めさでした。

 

 僕はミサというものがどのように行われるのか全く無知でしたが、教会の長椅子に腰掛けながら、つくづく、こうしてイェシュアが生まれた地に建てられた教会の中で、イェシュアの生誕を祝う世界最大の行事に参加できることはとても幸せなことでした。「アロンのメシア」なるイェシュアの誕生日に、彼の生誕地にいられる喜びと共に、まさにこの日にここでしかもらえない貴重なイニシエーションを受け取ることができ、ただただ感無量でした。

 

 

 そんなエルサレムでの日々もあっという間に過ぎ、次は、4日間かけて「イエスの歩んだ道 (Jesus Trail)」を歩き始めるべく、タクシーでナザレ (Nazareth) へと向かいました。