前回は2という数のエネルギーに纏わるお話をさせていただきましたが、この2という数には、ヴェールのこっちの世界ならではの現象を象徴する相がありまして、それが、いわゆる「二元性」とか「極性」と呼ばれるものになります。この二語は厳密には違うものなのですが、ま、そういった細かな用語の定義は置いておきまして、元々「一なる世界」の居住者である私たちが、ヴェールのこっち側にやってきて、肉体に宿って生きるということをするときに、大きく戸惑うのがこの点だということを強調させてください。

 

 

 本来は「一なる」世界の住人なのに、ヴェールのこっち側で肉体に宿って生きると、「二なるもの」に分裂した世界を生きることになります。上があれば、下がある。あっちがあるからこっちがある。過去があって未来がある。他者がいるから自分がいる。そういったニュートン物理学っぽいごく当たり前のことが、元々ヴェールの向こうの住人である私達にはまさに「仮想現実」の世界なんですね。だからこそ、こうして人間として戻ってくるたびに、それはとても「新鮮」な経験であり、一生を終えるたびに「またすぐにでも戻りたい!」と切望するのですね。

 

 しかしまた、こうした、あらゆるものが分裂し分け隔てられたこっちの世界だからこその種々の障害・障壁に直面するわけで、そこをマスターしてゆく過程こそ、まさにライフレッスンの学びであるわけです。

 

 例えば、「優劣の感情」って誰もが経験するものです。これは、自分と他者という違いを認識しそこに線引きをすることによって生じます。この世界には自分よりも優れた能力を持った人、自分よりも容姿が淡麗な人、自分よりもお金を持っている人、自分よりも頭のいい人、自分よりも世渡りの上手い人などなど、自分よりも地位や名声のある人などが無限に存在します。そこには数え始めたらキリがないほどの尺度が存在し、その尺度において「美しいvs醜い」といった極性が存在するわけです。そういった極性の振り子に心が振り回されるたびに、劣等感や嫉妬、羨望といった種々の感情が生まれるわけですね。

 

 

 僕が1997年にニューヨークの病院の救急科で少人数精鋭の臨床研修を始めたときには、英語力だけでなくて、医療に関する知識や経験といったレベルにおいても、アメリカ人の同僚たちにすでに大きく水をあけられていました。

 

 日本の医学教育は、大学の一学部として存在します。ですので、その受験時の偏差値などに関係なく、学生は期末試験や試問を通るためだけにその場凌ぎのいい加減な勉強をして、あとは部活動や飲み会などに明け暮れるのが常です。所詮は大学生ですから。ですので、医学の知識をきちんと蓄積させて真摯に勉強している医学生は極めて稀です。僕は慶應という学校の医学部出身ですが、この現象は偏差値には一切関係ないと思います。また、医師国家試験そのものが「よほどの人でない限り落ちようがない形式だけの試験」でもあり、そもそも医師としての技量を問うものではないので、医学部を卒業して国家試験を通った時点の医師は、文字通り「全く何の役にも立たない」存在であるというのが真実です。ま、僕自身が身を入れてしっかり勉強を積み重ねなかったことの言い訳にはなりませんが(苦笑)。

 

 

 それに上乗せして、日本の英語教育は世界最低レベルなので、そもそも受験英語というものの趣旨からして、意味不明な明後日の方向を向いているので、「医学論文を辞書片手なら読めるレベル」の机上の英語力があったところで、国際的な学会で論議に加わるような医師としての会話能力はおろか、普通の日常会話すらままならない状態なんです。

 

 僕は日常生活に支障はないレベルにちょっと毛が生えたぐらいの英語力はあったと思います。しかし、高い競争率を越えて入ってきたこの少人数精鋭の救急科の同僚たちのように、きちんと威厳を持って自己主張をして意見を言ったり、電話越しに早口で喧嘩口調で会話をしたりすることができませんでした。また、講義などに参加しても「こんなことを僕の片言の英語で発言したら馬鹿にされるにちがいない」といった恐怖感が常にあり、ずっと典型的な「無口な日本人」のスタンスで時が過ぎていきました。

 

 

 そんな生活において、当然ながら、「羨ましい」とか「妬ましい」という感情が生まれるんですね。そして、同時に、自分が逆立ちしてもできないことをサラッとできてしまう同僚たちに対して、畏敬の念みたいなものも常に持つようになっていました。「こんなことを言ったら、嫌われるかもしれない」とか「きっとこんなふうに思われて軽くあしらわれているんだろうなあ。」みたいなネガティブな決めつけを常に抱いていたので、何を言われても「No」を言わずに笑顔でこなす「謙虚」な自分を演じていました。こんな生き方をする身に、マンハッタンのビル風はすこぶる冷たいんですよ。

 

 

 しかし、あれから20年以上の月日が経ちました。気づくとオーストラリアで救急専門医として生きている自分としてこれまでを振り返るとき、「なんで、あのときもっときちんと言いたいことを発言して、したいことをして生きられなかったんだろう。」ってつくづく思います。もちろん、当時と今の自分の医療の知識も経験値も、そして英語力も全然違うわけですが、しかし、そういった点を全て差し引いても、そこには何か苦いものが残る感じがしてならないのです。

 

 そこにあるのは、「他者との比較によって自分を定義する」という生き方だったと思います。他人が自分のことをどう思うかが気になって仕方がないことって、誰しもあるじゃないですか。自と他という関連性における尺度の極性に身を任せてしまうと、そこには必然的に、自分より優れていると判断した相手に対しては畏敬、羨望、嫉妬みたいな感情が生じますし、自分よりも劣っていると判断した相手に対しては高慢、傲慢、傲然といった感情が生じるんですね。

 

 

 これはスピリチュアルの世界でも全く同じで、「自分の方があの人よりも波動が高い」とか、「自分の方が全然霊格が高い」とか、二次元的に決めた尺度上で自分を定義したくなる「選民思想」的な誘惑って、誰もが通るハードルなんですよね。逆に、「あの方は、アンポンタンな自分とは違って、とても崇高なお方!」とか、自分を下げて、誰かを持ち上げ崇拝することに自分の道を見出してしまうこともありますよね。僕のソウルプランでは、人生の後半期は、このチャレンジを経験することになっているのがわかります。確かに、誰か自分の教祖的な存在を決めて、その人について行くのって、ある意味、楽なんですよね。

 

 

 さてここで、「今この世界で起こっていることは、全てあなたが自分で創り出したものである」と言ったらどうでしょうか。あなたがこうしてヴェールのこっち側の仮想現実で人間として生きている間に、あなたが創造者であるということをなんとか思い出させるために、こっちの世界でありとあらゆる極性の現象があなたにぶつかってくるとしたら、どうお感じになりますか。もちろん、ここでいう「あなた」とは、今あなたが普通に感じて考えている「人間意識のあなた」ではありません。あなたは元々、実際に自分が人間意識で理解できる域を遥かに超えて、もっともっと大きな無限次元的な存在なのです。

 

 

 「一なるもの」でないものは、すべてヴェールのこっちでの経験を、人間として体いっぱい、心いっぱいに経験するための幻想です。そして、極性を基にして人間意識のレベルで生じた感情に任せて行動すれば、その極性の世界にさらに縛られてゆくようになっているのが、ベールのこっち側の世界の摂理なんです。

 

 例えば、今ここに、あなたよりも容姿も頭も性格までも優れていて、億万長者で何不自由なく生きている人がいるとします。当然、そこには、自分との比較から、多かれ少なかれ「嫉妬」という感情が生まれます。そして、もしこの人が自分に酷い仕打ちをしたり、自分の最愛の人を奪ったりしたとしたら、もうそれは「羨ましい〜!」から「呪い殺してやる!」に一変したりしますよね。でもここで敢えて数歩下がって客観的に見れば、極性の振り子の上で思いっきり振り回されているのがわかります。

 

 

 でも、もしこの人が、あなたが自分で自分に用意した登場人物だとしたらどうでしょう。極性というゲームにおいて、最大幅にあなたを揺さぶることで、「さあ、どう行動する?」って自分を試してくれている登場人物だとしたらどうでしょう。

 

 この前のブログで「let-go muscle」のお話をさせていただきましたが、この手放す過程において、よりマクロな視点で事物を眺め見ることができるかということが大きく関わってきます。極性に基づいたありとあらゆる感情を経験したときは、そこを客観的に見つめて超越してしまうのが、この泥沼から抜け出す唯一の方法なんですね。

 

 

 言い換えると、全て「ゲーム」だと昇華してしまうということであり、この時に有用な「中和剤」の一つが、「極性の逆利用」です。

 

 もしも、あなたの最愛の人を奪った才色兼備のその「憎むべき人」が、明日、自家用ジェットが墜落してこの世を去ってしまうとしたらどう感じますか。もしも、あなたを裏切り、汚いお金でお金持ちになったその「恨んでも恨みきれない人」が、来週の人間ドックで、末期の癌だと診断されるとしたら、あなたはどう感じますか(もちろん、これは例えでして、実際にこういった境遇にいらっしゃる方を揶揄するつもりはございませんので、ご了承ください)。

 

 僕がニューヨークの研修医時代に羨ましいと思い、また畏れていた同僚たちは、今は冴えないドヨーンとした田舎で町医者をしている人もいますし、医業を辞めて全然関係ない適当な仕事をしている人もいます。また、残念ながら、既に自殺をしてしまった人もいます。そんな事実を改めて見ると、あの時の「こんなことを言って馬鹿だと思われたらどうしよう。」とか、「この人たちに嫌われたらどうしよう。」と言った感情が、如何に意味のないものであったかに気がつくのです。他人と自分という線引きをして、他人と自分を種々の尺度において比較して、他人の視点や意見に基づいて自分という存在を定義しようとすることが如何に意味のないことであったかを悟るのです。

 

 

 これは、誰かに恋焦がれてどうしようもない時も同様です。「この人なしでは生きられない」って思うような相手がいる時って、その人の存在を基に自分というもの存在意義を定義づけしようとします。そういう人へは「生き霊」という名の鉤(フック)を飛ばしますから、それこそ何処に行っても「あの人もここに来たことがあるのかなあ」とか「今あの人と一緒にここにいられたらどんなに幸せか」といった感情で自分を縛りつけて、息をするのも苦しくなってくるものです。

 

 

 こういう気持ちを解消することは、実は、焦がれる相手にはできない相談なんです。相手にこのぶつけようもない感情の解決策を求めても意味がないんです。全ては、創造者としての自分が自分に創り上げた呪縛ですから。もちろん相手も同じ熱量の恋愛感情を持ってくれているのならば話は別ですが、そういうのは御伽噺だけのことですよね。

 

 ここで、この極性に振れる人間意識レベルの感情というものを敢えて逆手に取るということができます。例えば、もしもこの人とキスしようとしたら、その人の吐いた息の腐敗臭がすごくて「オエ〜っ」となったらどうでしょう。特別な一夜なのに、その人があなたの最も嫌いな類の体臭を放っていたとしたら、どうお感じになりますか。そのついでにこの世のものとは思えない異臭のオナラを放たれたら、どうでしょう。或いは、あなたたちが、何らかの災害に突然巻き込まれた時に、その人があなたを置いて自分だけ黄色い悲鳴を上げて一目散に逃げていったとしたら、どうですか。

 

 

 ヴェールのこっちの世界は、そもそもが仮想現実なので、あなたが「もし〜だったら」といった仮想の思考をしてゆくことによって、自分がその人に投げてしまった鉤(フック)の紐をだんだん緩めることができ、ある時、フッとその鉤(フック)が取れる瞬間を経験します。騙されたと思って、試してみてください。

 

 

 自分にとってかけがえのない人を失う「別離」というものもまた、自分と他者という線引きの幻想を越えるために私たちが時に経験することになる試練です。「自分の大切な家族や恋人を失うことに何の意味があるのか?」と私たちは人間意識のレベルで何度も自問します。しかし、ヴェールの向こうの世界には、自分と他者という区別そのものがありませんので、「別離」という現象もありません。まさに、こっちの世界でこそ経験できる現象なのです。

 

 

 よく「守護霊」或いは英語ですと「ガーディングエンジェル」という言葉が用いられます。自分を愛してくれた人は、逝った後も、霊となって自分を護ってくれるという考えは国や文化を問わず存在します。僕がスピリチュアル的に知っていることを基に申しますと、これは迷信でも気休めでもありません。私たちは自分の魂を幾つにでも分割できます。人間としての一生を終えた後に、次の人生の準備に移行しながらも、自分の一部(分離霊)は、自分が残していった人の守護霊としてヴェールのこちら側に存在し続けることができます。ですので、これを読んでいるあなたも、(地球の時間軸で言う)今現在、同時に、すぐ前の過去生などであなたが愛しながらもその元を去ることになったお子さんやお孫さんの守護霊としても生きているんです。また(これは僕の得意分野でもあるのですが)一度に複数の人間を生きる魂も存在します。

 

 

 人間という身体にいて、人間意識で考えると、こちらの世界での別離という現象は、身を斬られるような苦しみを引き起こします。紛れもなくそれが仮想現実であるからこそ、どうしていいかわからない苦悶となるのです。ヴェールの向こうの世界には存在しない現象を、こちらの仮想現実で経験するわけですから、そりゃあ、路頭に迷いますよ。断腸の思いで、のたうち回りますよ。

 

 

 でもよくよく考えてると、「別離」というのもまた、幻想であるということだとわかってきます。もちろん人間意識で考えて生きている私たちには、自分と別離した霊と、こっちの世界でいうところの「コミュニケーション」を取ることは、基本できません。しかし、私たちのもっと波動の高い部分(そのほとんどはヴェールの向こうに置いてきています)においては、きちんとコミュニケーションできているのです。つまり、私たちは、誰とも別れるということはしないのです。ヴェールの向こうでは、私たちは一つの存在です。そもそも自分とその人の間に線引きなど、最初から存在しないのです。

 

 

 因みに、この「時間」という概念もまた、実は極性の産物です。過去から未来へ流れる勝手に定義づけられた、この「時間」という概念がある故に、私たち人間は振り回されます。

 

 「過去に縛られる」ことって誰しも経験しますよね。「あのとき、なんであんなことをしてしまったんだろう?」とか「なぜ、あの時にこういう風に行動できなかったんだろう?」って自問しても、答えは返ってきませんよね。「もう今となっては取り返しがつかない」って地団駄を踏みますよね。そして、この後悔の念を引き摺ったりしますよね。

 

 

 また、「若い頃浪費しまくって貯金が今全然なくて、老後はどうなるんだろう!」とか、「芸能界なんて、表向きは華やかな世界に入ったけど、来月仕事があるという保証がない職種だよね」とか、先のことを心配することって、誰しもありますよね。僕自身、不安に駆られるのが得意なマインドをしていますので、こういう気持ちを日々経験してきました。夜中にふと目が覚めて、夜闇の中で「僕は今どこにいるんだろう?どこに向かっているんだろう?」って迷子になって、どうしようもない不安や恐怖に押しつぶされそうになることもあります。

 

 

 ここでも、過去から未来へ流れる極性という幻想を客観的に見つめることができれば、脱出の糸口が見え、この「時間」という極性を解脱できます。「Let-go muscle」を使って、過去へ投げて引っ掛けた後悔や呪縛という鉤(フック)は、はずして過去という名の幻想の源へ返還し、未来へ投げて引っ掛けた不安や恐怖という鉤(フック)は、はずして未来という名の幻想の源へと返還してしまえばいいのです。元々、過去も未来も最初から存在などしないんですから。それを、肉体にいる間に理解できるだけでも、それだけで物凄いライフレッスンの学びです。

 

 

 なんらかの感情に強く駆られてどうしようもない状態にいるときは、ぜひこっちの世界が仮想現実であり、そこにある種々の尺度における極性に揺さぶられている自分というものを、なるべく客観的に見つめてみてください。そしてそこに、こっちの世界にいる間にだけマスターできる絶好の機会が隠れているということに気づいてください。

 

 そういった姿勢で生きることで、人生という仮想の人生ゲームの「ゲームの達人」となります。そうなると、エジプシャン・デスティニー・コードとして表されるようなアセンションの坂を一気に飛び級で駆け昇って行くことになります。