ソウルプランにおいて、2という数のエネルギーには、「耐え難きを耐え、忍びがたきを忍び」というテーマがありまして、苦難を乗り越え、やがて高みに到達するという相が存在します。その昔「天よ、艱難辛苦を与えたまえ」などと願った武将がいたそうですが、なぜそのような苦悶に満ちたソウルプランを選んで生まれてくるのかというのは、普通に人間意識で思考している私たちには永遠に答えの出ない問いかけだと思います。人間として生きている以上、誰しも、できるなら波風が立たずに無難に平安な人生を生きたい、って思うところがありますから。

 しかし、ちょっと前のブログで、エジプシャン・デスティニー・コードとの絡みで、ライフレッスンについて話させていただきましたが、自分の波動を上昇させていくプロセスにおいて、人間として肉体にいる間に、宇宙の普遍的原理の人間版である「ライフレッスン」というものをマスターするというのは、デスティニー・コードでの自分のグレードを上昇させる(アセンションする)ために必要な過程なんですね。ですので、(2のエネルギーで表されるような)苦難の多い人生を送っているのには、それなりのしっかりした理由があるのだと理解してみると、それまで泥の水溜まりに嵌っていた状態から、ふっと抜け出してより高い位置から物事を見ることができるような気がしています。

 

 苦労の多い躓き人生を生きている人は、「過去生でなんか酷いことをしたから、そのカルマ的な報いでこんな辛い人生なんだ」と悲劇のヒロインに酔いしれた自己解決をしてしまいがちです。しかし、このカルマというものは、この新しい地球においては、もはや廃れた古い概念です。そうではなくて、「この人生は自分で選択してプランしたものであるのだから、そこに潜んでいるライフレッスンをマスターしてしまおう」と積極的に取り組む姿勢に転換することで、それまで何度も同じテーマの人生への転生を繰り返していた自分から脱却して次のグレードのポーンと進級するチャンスとなりえるのです。

 

 

 苦労続きの2のエネルギーは、例えば、2-2、11-2、20-2といった形で、ソウルプランに現れます。ここでいう11という数は、コンクリートでできた高層ビルのような灰色のエネルギーでして、何かを積み上げて壮大なシステムを構築することを表すものであり、20は大きな葛藤な闘争を超えて勇ましく生き抜く雄々しい生き様を表すエネルギーです。そして、そこに2という極性を持った山あり谷ありのエネルギーが内在することで、例えば「これまで築き上げてきたものが大きく崩壊する」とか、「自分の信ずるもののために戦い続けてボロボロになる」といった苦難に満ちた相が出てくるわけです。

 

 僕の今回の人生では、つい数ヶ月前に13回のシリーズ(「ソウルデスティニー 11-2の雲路」)として書かせていただきましたように、11-2というエネルギーを死ぬまでずっと背負っています。このエネルギーには「生と死」という極性が常に内在していますので、誰か大切な人に死なれてしまう断腸の思いの別離といった文字通りの「死」という意味合いもありますし、上述のように、努力をして積み上げてきたものがある日突然大きく崩壊するとか、或いは、古い自分がある日突然死んで新しい自分に生まれ変わるといった比喩的な「死」も含まれてきます。

 

 

 これまでの前半戦(40歳半ばぐらいまでの人生)では、ひとつ前のブログで書かせていただきましたように、6-6をゴールに目指して生きてきましたので、自分をギリギリまで律して、禅的な一点集中で尽力して欲しいものを手に入れる、という生き方をしてきました。この気概の前触れは生まれた頃からありまして、デパートのおもちゃ売り場とかで欲しいものがあると、両親が買ってくれるまで駄々を捏ねて梃子でも動かない面倒臭い子供でした。この性格は受験戦争における戦略や、職業的な進路の選択、そして、その後の人生での要所要所での決断といった場面において、強力なターボエンジンとなり前へ前へと進ませてくれました。

 

 

 しかし、その背景には、前述の11-2という一貫したテーマがソウルデスティニーとして存在するので、「努力したけれども、もう一歩のところで何かが大きく崩壊して、ついぞ手に入れられなかったもの」というものも、数えきれないほどありました。僕自身としては、手に入れられなかった人や事物を「釣り落とした魚」的に捕らえたりして、時に振り返って苦い思いを何度も経験したりしましたが、こうして人生も後半戦に入ってくると、それまで見えなかったものが見えてくるようになってきました。

 

 

 「Let-go muscle」っていう表現を聞いたことがありますか。何か欲しいものを自分に引き寄せるのには、当然そのための引っ張る筋肉が必要になってくるわけです。6-6に彩られた僕の人生の前半はまさにこの筋肉の筋トレの連続でした。しかし、逆に、何かを手放す (let go)という行為にも筋肉って要るんですよね。そして、この手放す筋肉というものは、鍛えるのがものすごく難しいんですよ。殊に、僕みたいに自分に引き寄せる筋肉ばかりを鍛えてきた者には、最高レベルに難しい筋トレとなりました。「剛」に徹した者に、今度は「柔」を学べと指示するかのような、押し引きの学びですね。

 

 

 そして、この特殊な筋トレは、僕の場合は恋愛面において鍛えられるように契約してきたようです。誰かに好意を感じると、「この人のことを考えるだけで幸せになれる」から「この人がいたら、他に誰もいらない」となり、そして「この人なしで生きられない」へと、どんどん一気に熱い思いを募らせてしまいます。そして、すでにマスターした6-6の能力のせいで、(これは自分でも怖いぐらいなのですが)ややもするとその恋愛が叶ってしまうんではないかというところまでタイムラインを大きく変えていってしまうんです。ま、所詮、自分の人生の創造者は自分であることに目覚めるのが6-6の宿命ですから。

 

 

 しかし、結局は生まれてくる前に自分で決めた契約だったのだろうと思うのですが、そういった前のめりの「一人相撲」の恋愛が叶うことはなく、やがて玉砕するわけです。そして、その度に落ち込んだり、塞ぎ込んでみたり、むくれっ面をしたりしましたが、今こうして客観的に振り返ってみると、「自分が手に入れることになっていないもの」という存在にはとても大きな意味があり、そういったものを如何に潔く手放すことができるかを試されていたということを学びはじめました。

 

 

 人は誰も、誰かに強く恋焦がれると、その人にエネルギー的な鉤(フック)を投げ縄して引っ掛けてしまいます。この鉤(フック)はまさに自分の魂の欠片的分身であり、生霊と呼ばれることもあります。こうなってしまうと、私たちは自分でも知らないうちに、その人に種々のエネルギー的な影響を与え続けることになります。これは、もちろん恋愛に限ったことではなくて、自分の家族や友人などにも飛ばしますし、自分が心願していた夢がある場合にも、私たちは、その夢や概念に鉤(フック)を飛ばします。

 

 

 そして、自分の行き着いたタイムラインで、こういった恋愛なり夢なりが叶わないという死刑宣告が下された時には、自分の投げた鉤(フック)が異空間に行き場もなく彷徨い、その重さに戸惑いを覚えるわけです。

 

 ここで「Let-go muscle」が鍛えられていると、仮に鉤(フック)を飛ばしてしまったとしても、潔くその縄をきちんと切断して鉤(フック)を解放するということができるのですが、この「let go(手放す)」という作業がとても学ぶのが難しいんですね。

 

 先ほどの、11-2の流れを例にとって説明しますと、例えば、自分の最愛なる人が亡くなってしまった時に、その人を失った悲しみを「let go」するなんてできないですよ。自分のお子さんを亡くされた親御さんは、死ぬまで毎日その苦しみを経験します。「時が解決してくれる」って言いますが、そんなに「時」が優しいわけがなく、いつまで経っても癒えない自分の身が切られるような耐え難い思いを、「let go」なんてできるわけがないんです。でも、それでも、「let go」なんですね。

 

 もちろん、最愛の人を亡くすという事象の全てが、ライフレッスンを学ぶために予め契約されたものだなどと偉そうに説くつもりなどございません。しかし、そういう契約は結構存在するんです。例えば、これは僕の医師としての経験からの私見ですが、小児癌で若くしてこの世を去る人生の魂たちには、過去生で酷いことしたカルマの報復でそうなったとかいうわけではなく、残された人たちにかけがえの無い大切なことを学ばせてくれるために現れてくれたとても上級者の魂たちが多いのだと僕は理解しています。

 

 

 次に、これは殊に20-2という闘争と葛藤に満ちた人生において試されることが多いのが、「forgiveness(赦し)」というライフレッスンです。これは「let go」の亜型、或いは親戚のようなものです。誰かに何らかの不当に思える仕打ちをされて、その人はのうのうと生きているのに、自分だけがもがき苦しんでいるとしたら、人間だからこそ、「絶対にあいつは赦さない」って思ったりしますよね。怒りが沸騰して、「末代まで呪ってやる!」なんて心ならずも思ったりしますよね。僕自身の人生でも、「こいつだけは死ぬまで赦さない」って心底感じた人はいました。世界中で色々な辛酸を舐めてきましたので、この感情は痛いほどわかるんですよ。

 

 

 しかしですね、こういった感情をきちんと消化できないと、恋焦がれる相手に投げてしまうのと全く同じ原理で、その赦せない相手にとってもダークな鉤(フック)を投げ縄して引っ掛けてしまうんですね。人間っていとも簡単に誰かを呪い落とすことができるんですよ。でも、低波動の人に怒りや呪怨の鉤(フック)を飛ばせば、私たちも自動的に同じ波動に引き摺り下ろされてしまうんですよ。同時に、その過程で、これらの重くて暗いエネルギーは、自分自身のエネルギー体にもきっちりと寄生して、それはやがて肉体レベルでの種々の病気となって具現化してくるのです。「人を呪わば穴二つ」などとはよくいったものです。

 

 

 全ての事象がそうであるとは言えませんが、もしもその人の裏切り行為が、あなたがライフレッスンを学ぶために予めお願いしてお膳立てしておいたものだったとしたらでどうでしょう。怒りに任せて行動すれば、せっかくその人が悪人を演じてくれたのに、ライフレッスンをマスターできずに、次の転生にまた持ち越しになってしまいます。それでは、勿体無いですよね。

 

 自分の人生の契約なんて、普通に人間として生きていて明確に見えるわけはありませんから、仮に状況がどうであっても、自分がどんなに不憫で惨めに思えても、相手の涼しい顔がどんなに憎かろうとも、結局のところ、最善の策は「forgiveness(赦し)」なんですね。自分を傷つけたその人を無条件に赦し、そんな状況に陥ってしまった自分を無条件に赦す。なかなかマスターするのが難しいライフレッスンですが、これをマスターするのに私たちは、何十回、何百回という人生を繰り返します。運動会の騎馬戦で自分を攻撃した相手を憎みながら、同じ学年を何年も何年も繰り返すよりも、それはそれで「赦す」として、次の学年に進級するのが賢策です。

 

 

 救急外来では、いわゆる精神疾患の患者さんのケアも時々させていただきます。ついこの前も、若い頃に酷い性的虐待を受けたために、解離性同一性障害に苛まれた患者さんが自傷行為をして運ばれてきました。僕は救急医ですので、精神的な面は専門ではありませんが、容態が落ち着いた後に、ベッドの横に座って、お話を伺っていくと、「自分を虐待した相手が赦せない」そして「こんな惨めな状態になった自分が赦せない」っていう気持ちが言葉の端々から滲み出ていて、この思いに縛られて雁字搦めになって生き続けてきているのがよくわかりました。

 

 

 もちろん、この人に、「赦しが大事なんですよ」なんて偉そうに説く権利など、他人の僕にはありません。「お前に、性的虐待を受けた女性の何がわかる!」と叱られても仕方ありません。それでも、やっぱり、「forgiveness(赦し)」という行為には、大きな力があると僕は信じています。

 

 

 ということで、前回は「引き寄せる筋肉」についてでしたが、今回は、「手放す筋肉」についてちょっと書かせていただきました。引き寄せる「剛」の筋肉も、手放す「柔」の筋肉も、どちらもしっかり筋トレして生きていけたら素晴らしいなあ、と思う今日この頃です。