こうして、1997年に正式に渡米し、ニューヨークで救急医療の臨床研修を始めましたが、それ以前にもアメリカへ旅をしたことはありました。初めて僕が渡米したのは1993年でした。進学過程を含めた6年間でいう5年生(つまり医学課程の3年生)の夏休みを利用して、1ヶ月ほど行ってきました。

 

 ただ旅行者として訪れるようというのではなく、医学生として病院の見学をさせていただこうという意向での旅でした(この身分をあちらでは「エクスターン」と呼びます)。と言いましても、当時はインターネットが普及していませんし、パソコンではなく、ワープロの時代でした。まして、携帯など誰も持っていませんでしたね。基本的に、情報は書籍(本)から得て、手続きは手紙や国際電話で行うような、そんな時代でした。

 

 当時、米国でご活躍されていた日本人の医師の方が、これから米国に渡って医療をすることに興味のある日本人医師のために、とても参考になる御本を書いてくださっていまして、僕はこの本をいつも聖書のように携帯して、文字通り、穴が開くまで何度も読み込んでいました。

 

  僕は、太陽の星座が射手座で、月の星座が牡羊座ですので、一旦火がつくと、まさに燃え盛る火の如く大胆に行動に移します。しかも、その背景に、金星、火星、木星の星座(蠍座のトリプル)があって、注ぎ込む情熱には物凄い熱量があるので、一旦、これと思った想念は、それが実現するまで激しく燃え続けます。「願いがあるなら、叶えればいいだけのこと」っていう波動だと思います。

 

 って言うと、かっこよく聞こえますが、下手をすると、執拗なストーカーとかになりかねない救いようのない熱い性格でもあるわけです(苦笑)。ま、そういう意味では、その部分(「何でもかんでも、欲しがるべきではなく、手に入れるべきでないものもあるということを知る」というレッスン)も、僕のソウル・デスティニーの11-2の学習事項に入っているように思います。

 

 ま、とにかく、その熱量を生かして、海外からエクスターンを受け入れているかを尋ねるべく、春先に、ワープロを駆使して、アメリカ中の病院に手紙を作成して送りました。作成しながら、「あちこちから返事が来て、夏休みにどこに行こうか迷うよなあ」と勝手に想像して、もう何だかワクワク感が止まりませんでした。 

 

 

 しかし、驚くかな、残念ながら、待てど暮らせど、一向に返事は来ず、結局、2ヶ月ぐらいの間に、合計で3通しか返事が来ませんでした。300通ぐらい出しましたから、99%の病院が、「無言で拒否」の返事だったわけです。ま、でもこの3通ですら、当時は、初めてもらった海外からの手紙で、ものすごくワクワクしたのを憶えています。「あ、この封筒の中の空気は、アメリカのだ!」みたいな感じでした(笑)。

 

 そのうちの1通は、三行半の「今うちの病院では、海外から医学生を受け入れていません。あしからず。」みたいな返事でした。しかし、残りの二つは「同封の用紙を記入して、返送しておくれやす」みたいな内容でしたので、ちょっと希望が持てました。一つはオハイオ州にあるクリーブランド・クリニックで、もう一つはマサチューセッツ州にあるレイヒー・クリニックでした。今思うと、これはとても興味深いことでして、のちに米国で(ニューヨーク以外で)実際に住んで働いたのは、(病院こそ違え)まさにオハイオ州とマサチューセッツ州でした。人間って、こういう「土地の縁」ってあるんですかね。

 

 このうち、レイヒー・クリニックだけが数週間してさらに返事を送ってくれまして、ご丁寧に実際に僕がローテートする科の医長の名前や、ローテーションの期間など、細かい情報をくださいました。

 

 さて、本当ならば、いい大人なので、僕が自分でアルバイトをして、そのお金で渡米するべきなのですが、当時の僕は埼玉の実家住まいで、(恥ずかしながら)まだ親に甘えていました。この渡米のプランを母親に話していたのですが、結局「これは、あなたのお祖父さんからよ」と、この旅の費用を提供してくれました。僕の祖父(母の父)は、早くに祖母と離婚していて互いに疎遠になっていた関係上、(祖母は僕達と同居でしたので)、僕は一度も見たことも会ったこともありませんでした。唯一、母とはずっと連絡をとってたまに会っていたようで、今回の僕の夏の渡米のプランを母から聞き、決して裕福ではなかったのに快く援助してくれたそうです。

 

 お恥ずかしながら、この祖父とはついぞ会うことはありませんでした。あの旅の後に一度会ってお礼をするべきでした。しかし、当時の僕は、まさに「若気の至り」と申しますか、自分の将来のことについて考えあぐねるので精一杯でした。これは、本当に今でも後悔の念として残っています。結局、祖父はそれから数年後に亡くなり、(僕の母と連絡をとっていた以外)天涯孤独の身であったようで、お骨は、墓の居場所を誰にも告げないという条件付きの、身寄りのない人のための墓地に入れられたと聞いています。ですので、僕も、母も、どこのお墓に入れられたのかも知らないのです。

 

 おじいちゃん、ありがとうございました。

 

 

 何度も申しますが、当時はネットというものが普及していない時代でした。ですので、基本、情報は書籍からです。神田の三省堂書店や、八重洲ブックセンター辺りに出向いて、「地球の歩き方ボストン」的な本をいくつか購入しました。しかし、僕がお世話になる病院は、ボストンから地下鉄やバスを乗り継いだ郊外のバーリントンにあるので、ガイドブックには一切情報がありませんでした。なので、ちょっと大きめのマサチューセッツ州の地図帳も購入しました。

 

 帰りの電車の中で、その白黒の地図帳を捲りながら、「実際にどんなところなんだろう」と考えを巡らせて、もうそれだけでどうにもならないくらい幸せな気持ちでした。

 

 今でこそ、なんでも自分でネットを使って調べたり手続きしたりできますが、当時はそんな手軽にできる時代ではなかったので、医学部の先生のご紹介で、旅行代理店の方に連絡を取ってもらい、航空券やホテルの予約などをしていただきました。

 

 そんなこんなで、あっという間に夏休みとなり、ボストンに向けて発つ日になりました。両親に手を振って別れた後、成田空港の勝手が全然わからないまま、他の人について行き、見よう見まねでセキュリティーや出国の手続きカウンターを越えました。

 

 そして、なんだかんだ、あっという間に飛行機に乗り込む時間となり、ヨッコラセと窓側の自分の席に座りました。

 

 しかし、その瞬間に、ふと気がつきました。

 

 「あれっ、飛行機に乗るのって、初めてかも!」

 

 まだ物心つく前に、父の実家の札幌に行くのに、おそらく飛行機に何度か乗ったようです。でも、あまりに幼すぎて、全然飛んだ記憶というものが残っていないんですよ。ですので、実質、初めてのフライトみたいなものでした。

 

 

 滑走路の端まで飛行機が移動して停止し、少しすると物凄い大きなエンジン音が鳴り、飛行機が一気に加速しました。座席の背に押し付けられて、頬が引き攣った表情になりながら、突然、ふと思い出しました。

 

 「あっ、僕、高所恐怖症だった!ヒョエーッ。」

 

 ジェットコースターみたいに、上まで行ったあとにすぐ落ちる類のものは全然怖くないんですけど、高いところにずっといるもの(例えば、観覧車とか、高層の建物の展望台とか)は、「もし、何か不測の事態が起こしてここから落下したら、ものすごい痛い死に方じゃん〜!」とか、要らぬことを考えて恐怖に駆られる、面倒臭い性分でした。ですので、加速する飛行機の中で、僕は「飛行機恐怖症」を既に発症していました。

 

 飛行機が離陸して、水平飛行に移るまでの間、何度もフワッ、フワッとなる瞬間があり、その度に「あっ、堕ちる!」と勝手に危惧して、脂汗をかきながら、座席の肘掛けをギュッと掴んでいました。そして、水平飛行になってからも、時折、種々の乱気流で飛行機は揺れ、その度に、「あっ、墜落する!」と、内心パニック状態になっていました。

 

 結局、やがて睡眠薬が効いて眠りにつくまで、ずっとそんな硬直した緊張感が続き、全く生きた心地がしませんでした。

 

 そんなこんなで「飛行機が墜落しまいか」という恐怖と戦い続けながら、ニューヨーク経由でボストンのローガン空港に着いた時には、もうすっかり向こうの時間で、夜の7時ぐらいでした。

 

 そして、入国手続きを無事に越え、カルーセルで自分のスーツケースを受け取り、さあ、これから出口に行こうという段階に、ふと、突然、違った恐怖が襲ってきました。

 

 「あ、そうだ、アメリカ人はみんな銃を持っているんだ。空港を出た瞬間に撃たれるかもしれない。どうしよう。防弾チョッキとかあったほうがよかったのかな?」

 

 もうここまできたら、前へ進むしか選択肢がないので、旅行者であることを悟られないように「僕は超悪のアメリカ人なんだぜ!」みたいな面倒臭い表情をわざと造って、忙しそうな素振りで、タクシー乗り場の方へ早歩きし出しました。

 

 

 ボストン空港の夜の外気に触れると、それは、まさに(今生で)初めて吸うアメリカの空気で、正直、もう感動で目に涙が溢れてきました。

 

 しかし、「いつ銃口を当てられて殺されてもおかしくない」と勝手に思っていましたので、とにかく「忙しくてやってらんない」みたいなしかめっ面をキープして、タクシー乗り場まで一直線に早歩きでした。

 

 そうして乗り込んだタクシーの運転手は、ロシア語訛りのおじさんで、僕的には「アメリカにロシアの人が住んでいるなんて、斬新!ロシアの人に会うのも初めて!」と密かな感動を覚えていました。

 

 そんなこんなで空港から20分ぐらいのところにあるホテルは、ボストンではなく、ワンダーランドという名の郊外の街にあった極めて安っぽいホテルで、ボストンのダウンタウンからは全然遠いところにある高速道路沿いにあって、ちょっとビックリしました。自分で選んだホテルではなかったので、何も言えませんが、「明日は、ここからどうやってボストンに行けばいいの?」と既にパニクっていました。

 

 チェックインを済まし、薄暗い照明の中、カビ臭い匂いの絨毯の廊下をスーツケースを引き摺っていくと、やがて右奥に僕の部屋番号が見つかりました。

 

 タバコ臭い部屋に入るや否や、安堵して一気に身体の力が抜けて、ベッドに倒れ込みました。

 

 「やった〜、飛行機も墜落せず、銃を持った人にも襲われずに、ホテルまで辿り着いた!」

 

 やがて起き上がり、脂汗でベトベトしていた服を全部脱いでシャワーを浴びました。そして、備つきの小さなボトルのシャンプーやボディソープを使って全身を洗って、「お疲れさん」と自分を労っていると、ふと、足元に足首ぐらいまでお湯が溜まってきていることに気がつきました。

 

 「えっ、まさかの排水溝の詰まり?」

 

 そう思って、足元に溜まったお湯に手を入れてみると、驚くかな、排水溝の出口に、自分の抜け落ちた頭髪の毛がごっそり溜まっていました。それは、もうホラー映画レベルの髪の量でした。

 

 飛行機墜落への恐怖、そして銃での襲撃への恐怖のダブルパンチで、僕の毛髪はごっそりと抜け落ちていました。ストレスって、怖いっすね。

 

 シャワーを終え、窓に向かい、カーテンを開けてみました。

 

 すると、目の前に大きな高速道路が走っていました。夜の道路を往来する、まるで天の川のような車の流れを眺めながら、

 

 「あ、僕の目の前で、一刻一刻動いていく、リアルタイムのアメリカだ!」

 

 

 突然、涙が溢れてきて、前が見えなくなりました。別記しましたが、僕の一つ前の前世はアメリカン人なんですよね。なので、珍しいものを見た感動というよりは、「やっと帰ってきた〜!」という郷愁の念と、「でも、もう、この国のどこにも帰る場所がない」っていう孤独の念が混じった複雑な涙でした。

 

 時差ぼけは何処へやら、心身ともに疲労困憊だった僕はあっという間に眠りにつきました。