「ふぅっ……」
 パイプの煙が上がって消えた。
 アルバートは図書館の陰に隠れてそれを吸っていた。ロドルはまだ館内にいる。返し終わって館長と話しているはずだ。
 ふぅ、と息を吐くと独特な香りがする。
「最近、止めたけど、今だけは許せ。ジャック」
 独り言は、悪魔のくせに退魔術式を使う親友には届かない。
 元はと言えばあいつが、この煙が嫌いだからやめたのだ。一緒に住んでいた時に、文句を言われたから。さんざんコケに使いやがって今更何を言うか。悪魔め! 自分も同類だけど、あいつほど性格が悪魔な奴は他に知らない。
「アルバぁー! お待たせぇ」
「このクソ悪魔め。……あの、その本は」
「これね!? これがずっと借りたかったんだよ! 二百年ぐらい前に予約してた『魔術新論改訂版』! 本当に予約取れなくって、取れなくて、なかなか借りられなかったのが、ようやくようやく貸出し順が回ってきたんだよぉ! もう、学術的に新論じゃないけど、ここにしか載ってない術式試してみたくってさぁ! 知り合いの研究者のみんなに聞いても、この本は異世界の扉の奥に紛れ込んでしまったのだとか狂気的なコレクターに持ち去られてしまったのだ、とか色々説が浮上していたんだけど、ついに! ついに! 僕の手に来たんだよ!」
「分かった、分かったから耳元で大声出すな! 興奮しているのか!?」
 お前が狂気的なコレクター、その人じゃないか。
「僕はこの時のためだけに生きてきたと言っても過言ではないよ!」
「……いや、お前死んでるし」
「そんな事、どうでもいい!」
 ぴょんぴょん飛び跳ねて体全体で喜びを表現するロドルを見て、アルバートは彼の頭に手を乗せた。
「なんで、ポンポン頭を撫でるんだ?」
「……ガキだなぁって」
「僕、そんな年じゃない」
「ガキはガキだよ」
 訝しげに首を傾げるロドル。アルバートはその顔を見て、吹き出した。こいつはあの時から変わっちゃいない。
「帰るんだろ? ――……執事長」
「うん? 帰るけど、頭ポンポンするのやめて」
「ガキはガキらしく、暗くなる前に帰らなくちゃねぇ」
「だからポンポンするのやめてと」
 ロドルがそろそろイラっとした口調になったので、アルバートは彼の頭から手を離した。彼は、自分を愛玩動物のように扱うなと怒っているのだろう。
 アルバートは通りの向こうを見て、指をさした。
「俺、あそこ寄りたいな」
「ん? どれどれ」
 ロドルがその先を見つめる。
「ほらあそこの」
「……あぁ、あそこ……って。バーじゃないか! お酒飲むつもりか!?」
「いいじゃん。お前に三日も用事を付き合ったんだぞ? 少しぐらい飲も?」
「僕は飲まないぞ」
「お前もビールくらいは店で飲んでも平気だと思うんだけどぉ。本当に飲まない? 美味しいよ?」
「……美味しいのは知ってるけど……。あと、アルバ煙臭い。煙草やめてって言ったじゃないか」
「お子ちゃまはこの煙好きじゃないよなぁ」
「うん。煙草イヤ」
 首を振って嫌がるロドルを見て、アルバートはバーの方を見た。
 年齢制限。少しだけ考えて、ロドルのこの見た目は引っかかる年ギリギリなのではないかと。
 この国では十八からお酒が飲めるのだが、ロドルは十六で見た目の年は止まっている。このあたりの国では一番酒が飲める年が低いのはカポデリスである。他の国は独自のルールがあり、確かノービリスでは――。
「あぁー、でも今の時代だとお前の年齢って引っかかるのか? お前は童顔だしなぁ、チビだから……いや、それでも大人がいればギリギリ飲める年か」
 アルバートはふうっと煙を吐く。パイプの煙は辺りに充満する。ロドルは鼻を摘んでいた。
「バー、行くのか?」
「アルバが行くなら……」
「よし、決定だな」
 こうして二人の有給休暇は幕を閉じる。ロドルが酔い潰れ、アルバートが彼をおんぶして魔王城まで帰ったのはこの後のお話。三日も魔王城を開け、ゼーレにこっぴどく怒られたのもこの後の話だ。
 今回はそんな二人のお話。
 たまの休みの、社畜の彼らのお話。
 

「証明証は」
「はい、これですね。師匠も出して」
 ロドルは堂々とその闇市落札の曰く付き違法取引物を役人に出す。アルバートもそそのかされ出した。
「確かに拝見しました。では、お気をつけて」
「有り難うございますー」
 ロドルは手を振って関所を抜けた。
 鉄壁の守備により、魔族の侵入を許さない。これを掲げるノービリスだが、ちょくちょくこうして関所の抜ける魔族がいることを国民は知らない。
「生きた心地がしない」
「僕が全部受け答えしたじゃんか」
「お前はやっぱりすごいよ」
「挙動不審よりも堂々としていた方が怪しまれないのは当然だろ?」
 ロドルがアルバートの顔を見上げた。そうだな、とアルバートは笑いかける。
「公爵閣下、まずはどこに行くんだ」
「その呼び方やめてよ。もう図書館に行ってしまおう。昼は適当に食べたいところだけど、この国の物価は高い」
 周りを見渡すがこの国というのは、大きい邸宅に豪華な馬車に、超高級レストランなど高そうなものばかりだ。
「そうだな、公爵閣下」
「だからその呼び方やめて」
 アルバートは肩を竦ませる。
 しばらく歩くと道が開けた。ロドルはそこを突っ切り真正面から入る。
「お客様、この図書館に入る時は証明証をご提示願います」
「あぁ、ごめんね。これを」
 ロドルはついに最終兵器を取り出す。
「公爵様でしたか! ……分かりました、お入りくださいまし」
「今日は本を返しに来たんだけど、館長はいる?」
「館長は書庫でございます。お呼びいたしましょうか?」
「あぁいいよ。僕が行くから」
「……そんな! 公爵様のお手数をおかけするわけには!」
「大丈夫、大丈夫。それより、本を返すんだけど館長に会うまでタイトルの表紙は見ないで運んでくれないか? 四十冊くらい、外の馬車に積んであるんだ」
 ロドルは事務員たちを外に出す。アルバートは少し不満げな顔でロドルに見合っている。
「お前、馬車ってそんなのないぞ」
「今のうちに入るんだよ! 書庫まで行けば、森に置いた魔法陣から本をこっちに取り寄せられる。関所をあの禁書を持って通過できるもんか! だから森の中の空き家に置いたんだよ!」
 そういうことか、アルバートは理解する。ロドルはこの図書館の内装を覚えているのか、書庫まで数分で辿り着いた。書庫の開けた空間で蝋石を取り出し、床に魔法陣を描く。
「これでよし」
「へぇ。これで繋いだのか?」
 真っ赤な光が溢れ出しそこにあったのは四十冊の本だった。
「これを館長に返すだけだけど、館長はどこかなぁ」
「あぁ、あの爺さんか」
「アルバは会ったことあるよね? 僕がこれらの本を借りられるのは館長のお陰だよ。館長が……」
 ロドルが言うとコツコツと足音がした。真っ暗な書庫を灯りもなしに歩く影。ロドルはそれを見て声をかけた。影は振り返り、にこりと笑う。
「ジャックお坊っちゃま。ご機嫌麗しゅう。ようこそ、遥々お越しくださいました」
 上等な使用人服に身を包んだ老執事は、ロドルを見てお辞儀をした。
「館長も変わらないね」
「お坊っちゃまもお姿が変わりませんね。元気していましたか?」
「僕は元気だよ」
「お坊っちゃまがここに来たのは何年前でしたっけ?」
「そんなに前じゃないよ。先月も来たよ」
「そうでしたね。お変わりないはずです」
 アルバートは思う。死なないし、年を取らないアンデッド同士が、何故姿が変わらないことを話しているのか。変わらないに決まっているだろうに。
「私も幽霊になって早、千年あまりですねぇ。地下しか歩けないのが不便ですが、お坊っちゃまがこうして遊びにきてくれるのは嬉しいことです」
 足元が透けたこの地下書庫の幽霊の名を、ブライアン・アンヴィルという。フェレッティ家の執事であった彼は、生前から図書室に籠るのが好きで、死後も本に取り憑き、今でもここにいるのである。ちなみに彼が死んだのはロドルがフェレッティ家に来る以前であり、ロドルが生きている時にはもう既に死んでいた。
 つまり、その頃から幽霊だったのだ。

「お坊っちゃまは何の本をお返しに?」
「この前、借りたやつだよ」
「拝見致します」
 館長はそれを受け取り眺めた。灯りも少ないこの地下書庫で、広げられる禁書はかなり不気味である。
「ブライアンさん、ここって灯りとかないの?」
「蝋燭ならありますよ。ですが、ここは書庫です。本が燃えると困るので、お気をつけてお使いください」
 真っ黒で何も見えないアルバートはそう聞いた。ここにずっといるブライアンは暗闇に慣れているらしい。ロドルは目がいいので普通に見えるらしい。
 見えないのは自分だけ。
 ロドルは暗闇で目が見えないアルバートを不憫に思ったのか、こう言った。
「アルバ、これ持ってなよ。これなら火を使ってないし、明るいから」
 首にかけていたそれをロドルは渡す。それは昨日作った月光瓶だった。月光瓶は、ぼんやり光を放ち辺りを照らす。
「使ってもいいのか?」
「いいよ。でも、僕のそばから離れないで。僕が黒猫に戻っちゃう」
 ぱぁっと光は本を照らした。
 アルバートはここで初めて図書館の中を見渡した。ぎっちりと本が詰まった本棚。細かな装飾品。壁や天井に描かれた絵画や宗教画。石像、彫刻。そして、何百年も前の写本や魔導書、歴史書、召喚術書……。
「お坊っちゃま、まずは本を元に戻しましょう」
「アルバも手伝え」
 そう一方的に言われては従うしかない。
「本の場所が分からなかったら、ブライアンさんか、僕に聞け。表紙に十字架が書いてある時だけ僕を呼べ」
「……? でも、俺、お前のそばから離れられないんだけど」
「なんでだ?」
 アルバートは首を傾げるロドルを唖然とした表情で見た。
「月光瓶がないと俺、この暗闇で動けない……、お前は確かに目が良いから見えるけど、俺は見えねぇぞ」
 ロドルは「あぁ!」と手を叩いた。
「じゃあ僕の手伝いをしてくれ。簡単なことだから、心配しなくても良い。というかむしろアルバートじゃなきゃできないかも」
 ロドルはそういうと二十冊分の本を指差した。アルバートは少し嫌な予感がする。
「……これをどうするんだ」
「アルバは中世恐れられた最強魔族の一つ、レヴァナントだけどぉ。一つだけ苦手なことがあるよね。僕が一つ一つ術式を試すから実験台になって?」
 ニコッとロドルは笑う。
 やっぱりこいつ、悪魔だった……。
 

「アルバート」
「なんだ?」
「……お前って結界の中に入れるのかな。レヴァナントだろ? 魔法系に特に嫌われてる魔族じゃないか。十字架を見られない魔族がいないわけじゃないけど、警戒はした方がいいかなって」
 ロドルは不意に振り返る。
 アルバートは少し嫌な予感がした。
「昔はまだ結界がそんなに強固じゃなかったから入れたよ。でも、今はどうかなって。だから少しごめんよ」
 アルバートの嫌な予感は的中する。
「……魔力あんまり使いたくないからちょこっとだけね」
 そう言うとロドルはちょろっと舌を出したあどけない表情で――、何もない空中から出現させた真っ黒な長剣を、地面に突き刺す。アルバートの足元には大きな魔法陣。
 あらかじめ彼が描いたか、今描いたか。後者ならそうとうな早業だ。前者なら頭が回りすぎる。
 真っ赤な光が上がる時、自分の身体の上に重しが乗ったのかと思う程に重くなる。
「閉じ込めたけど、自力で出られそう?」
「出れるかボケ!」
「やっぱり無理かぁ。悪魔の僕がする退魔術式をこうも易々受けるくらいだもんなぁ。アルバートと出かける時はなるべくエクソシストと会わないようにしているんだけど、ノービリスの中なんてエクソシストだらけだしなぁ。どうしようかなー。アルバートが祓われても困るんだよ。どうするかな」
 どこか他人事のような、そんな言葉にアルバートはイライラとする。
「早く出せ!」
「出す。出すよ。僕がここで悪魔祓いしようものなら、アルバートはチリに帰っちゃうもんねー」
「早く出せよ!」
 分かったよ、と言いたげに肩を竦ませるロドル。ロドルが魔法陣の外側の膜を触ると、途端にそれは壊れた。
「グッ……生きた気がしねぇ」
「死んでるでしょ?」
 その返しには飽き飽きしている。
「どうするんだ? 俺が結界に入れるのか」
「いや、これは正面突破しかないんだ。下手な工作よりも一番手っ取り早くことが進むさ。とりあえず、アルバにはこれを」
 ロドルがアルバートに渡したのはあのロケットペンダント。
「十字架が入ってるんだろ?」
「よく見てみなよ。それは十字架であって十字架じゃない。僕が少し手を加えて、十字架の十字の部分に線を一つ加えてみたんだよ。よく見ないと分からないぐらい細い加工さ」
 確かにロドルが言うように加工がされていた。十字の部分に線が一つ加えられて縦線一本に対して、横線が二本になっている。
「こんなんで誤魔化せるのか?」
「現に目が焼けないだろ?」
「そうだけど」
「僕だって十字架が苦手で怖いのに、頑張って加工したんだよ。封印は解いといたから、持てると思う。それに、悪魔や魔族が十字架を持つなんて人間が想像できると思う? 一種の「悪魔や魔族は十字架が苦手だ」の常識を裏切らなきゃ、僕たちがあの国に入れるわけないだろ」
 それもそうだった。
「堂々として入れ。僕達は本部に呼ばれたエクソシスト。何もお咎めを受けることはない。堂々としていろ」
「……お前は元々演技上手いから出来るだろうけど」
 ロドルは帽子を深く被った。黒い髪を隠すための、その帽子はかなりの年季ものである。
「さて行くぞ」
「うわぁっ、ちょっと待てって!」
 二人は歩き出す。森を出て見上げるはノービリスの関所とそこを囲う結界の膜。薄いセロファンみたいに国全体を覆うもの。
 ロドルは少し慣れた調子ながら、アルバートは戸惑い気味。
「お兄さん、何用で?」
「本部に呼ばれていまして。僕はカポデリスのエクソシストです。ほら、リリスのはずれにある街って小さい町なんですが、知っていますか?」
 ロドルはにっこり笑って関所の役人に話しかけている。
「お連れは?」
「あぁ、僕の師匠なんです。僕、見た目からしてまだまだ修行中の身でして、師匠が本部に呼ばれたと聞いてどうしてもついて行きたかったんです」
 受け答えはさすがというか、成り切りの演技力は上手い。そして、ここでアルバートは自分がロドルの師匠にされていることを知る。どうしてもロドルの見た目は少年にしか見えないので、そう説明するほかなかったのだろう。