家の中は、しっとりと静かな空気でおおわれていた。

ゆっくり、音を立てないように気を使いながら部屋に入ると、ベットに横になり目を閉じた。

百合子の笑顔がろうそくの炎のように浮かんでゆらゆらと揺れている。

次の瞬間、今日の2匹の蛾が頭をよぎった。

百合子と蛾の残像が頭の中で絡み合う。

今日の俺はどうかしていた。

頭を左右に振りながら目をあけるとゆっくりと上体を起こし、

ベットから立ち上がった。壁にかけてあるカレンダーに近寄り

カレンダーを一枚もどすと、しばらくの間、何も書かれていないその紙を眺めた。

そろそろ次の時がきた。

「仕事」は絶対に日にちや曜日を固定しないことにしている。

そして、最低でも一ヶ月は期間をあけるなくてはいけない。

それでも、一年で10人程度になるのだから、俺は大量殺人鬼ということになるはずだ。

誰にも気づかれず、今度もやり遂げる。

さあ、楽しみのためには、今の生活を大切にしなくてはいけない。

机に座り、いつも通り勉強をはじめた。





百合子との時間は、自分の中の黒くべったりとしたものを少しの間、忘れさせてくれた。

その目に食べられるのではないか?と思うほど大きく見開き、

のどの奥を通り越して胃の中がのぞけるのではというほど豪快な笑いだった。

「そろそろ帰るかな。わ、もうこんな時間?」

「ほんとだ」

店の奥でお会計をして戻ってきた百合子がすぐ横で立ち止まった。

「楽しかった。じゃ、またね」

そういわれて、つい立ち上がってしまった。

百合子が座っていたイスに膝をぶつけながら

「ぼくも楽しかったです」

そう答えて、百合子の背の大きさに驚いた。

自分とあまり変わらないきがする。

「背、高いんですね」

「よく言われる。175センチよ。モデルなの」

「え、ほんとうですか。そうか、きれいですもんね」

「冗談よ、冗談。ずいぶんさらっと褒めるじゃない。でも自分でも結構いけてるって思うけどね。じゃ、好江さんご馳走様」

店から出て行く百合子をぼんやり見送りながら、本当の仕事って何だったんだろうと考えていた。



悪いことを考えると


汗をかくことになる


まだ、悪い人間じゃないってことなのかな

いたずらっぽく笑ってウーロン茶を注ぎ足す好江さんに

たぶん「すがる眼差し」といわれる目線を送ったつもりだったが

あっさり跳ね返された。

仕方がない。

「すみません。あなたのような髪型の人を時々見かけるんですが、あの、えっと、いつもどうしてセットしているんだろうと思っていたので、それで、つい見入ってしまって」

「ああ、これ?」

くるりと背中を向けて首をかしげた。

ベージュのスーツの襟元から、透き通るような白い肌が奥にのぞいた。

「ほどいて見せてあげたいけど、今は無理ね。部屋に来る?」

下から覗き込むように見つめる顔は、笑っている。

これは、冗談だな。当たり前か。

「ぜひ今度、よろしくお願いします」

左胸に右の手のひらを当てて、以前テレビで見た社交ダンスのお辞儀のまねをしてみた。

「オッケー」

ジョッキをカウンター越しに受け取り、のどを鳴らして飲む姿は男っぽい。

「あの、百合さんっていうんですか」

「そうよ。あなたは?」

お通しの枝豆をくわえながら、百合は当然の質問を返してきた。

普通、自分から名乗るよな。

やっぱりスマートじゃないな、今日の俺って。

「ぼく、葉山海斗っていいます」

「ふーん。あたし、花岡百合子よ。よろしくね」

なんだか、好江さんと同じ空気をかんじるな。この人には。

自分が自分じゃなくなる。

もしかしたら、こっちが本当の自分なのか?


いまごろの優しい言葉


なぜ、あの時じゃなかったの


自分が救われるためのセリフ


ずるいよ


あなたは偽善者だね

ごめんなさい


私は、自分の苦しみから逃げました


代わりに背負ってくれる人を想うことなく


わたしの言葉を理解しようと努めてくれる人がいることにも気がつかず


逃げることは


本当に楽になることではない


新しい苦しみを背負うことなのかもしれない





「あー、暑い。なんとかなんないかなあ、この天気」

「いらっしゃい、百合ちゃん」

べたついた空気を脱ぎ捨てるように肩を揺らし、俺の左隣のイスを引いた。

空いている席は、キリマンジャロの中年の隣と俺の隣。

まあ、当然の選択だな。

「ママ、生ちょうだい」

茶色がかった髪をくるくるとまとめて留めている。

どうやったら、この巻貝のような頭になるのか、いつもながら不思議に思う。

たまに出会う、巻貝が今日はすぐ隣にいる。

銀色の長いはさみのようなもの一つで出来ているな。

「なに?」

急に、巻貝が人の顔に変わった。

しまった、つい見入ってしまった。

俺としたことが。未知との遭遇に弱い。

「すみません」

慌ててコップを手にとり、口に運んだ。

「入ってないよ」

見ると、確かに氷だけだった。

しまった、中年の観察に夢中になりすぎた。

どうも、今日の俺は変だ。



特別な朝


いつもと違って見える景色


自分が変わるきっかけの日になればいい


今日が晴れていてよかった



「おかみ、もう一杯もらっちゃおうかな」

「はーい。でも、もう飲みすぎなんじゃないの?」

目の周りから、頬のあたりを赤くした客が声をかける

背中にしわの入った背広の上にちょこんと乗っかった頭。

髪を額にぺったりと張り付けているのは、

俺たちの使うワックスとは、間違いなく違う。

髪だけでなく、しわの目立つ額やこけた頬もてかり、汗がにじんでいる。

首のしわの中に、そびえ立つ喉仏。

険しい山、キリマンジャロを思わせる・・・と言いたいところだが

実際は、岩だらけの名もない山といったところか。

ワイシャツの首周りが貧相に見えるのは、ネクタイを緩めているからという訳ではないようだ。

「そういわないでよ、ね、もう一杯だけ。お願い。」

頭のてっぺんを好江さんに向け両手をふにゃりと合わせて、コップを差し出す。

「もう一杯だけよ?」

コップを受け取ると好江さんは、いつもの半分の濃さで焼酎の水割りをつくった。

これが、好江さんの人気の秘訣だ。

酔ったと分かると、酒を濃くしてボトルを開けさせるのが夜の世界ではよくあることだ。

でも、好江さんは薄くして、ボトルが入っていないときには一杯の値段も引いている。

料理も美味いとなれば、しょぼくれた中年たちの楽園だよな。

ぼんやり眺めていると、店の戸が開くのを感じた。

生暖かい風が、背中をなでた。







楽しいことがない


楽しいことがない


こわい顔の自分が鏡の中にいた


笑顔でいないから


穏やかな顔じゃないから


楽しいが逃げていくのかもしれない


ふつうが楽しいと思えないから


楽しいが見つけられないのかもしれない