沖縄から東京に無事戻ってきて、羽田空港から京急線に乗り、そこから乗り換えて家に着いた。
なんとか気を落ち着けながら帰ってくるよう努力したけど、それでもやっぱり胸がどきどきしたし気持ちが普段よりもうわずっていた。
だけど、乗り換えしたときああ、いつもの自分のエリアに戻ったという感覚がして気持ちがすとんと落ち着いた。
最寄りの駅に着いて、コンビニで買い物をしてマンションの自分の部屋に帰り着いてソファに腰を降ろしたとき、私は笑いが込み上げてきた。
必死だったな…大変だった、でも楽しかったな。
大変だったけど、やり遂げた充実感はすごかった。
私は、まるで「地球人はに」が物語のキャラクターのように思えて、今までできなかったことをなんとかクリアしようと奮闘しているように思えた。
そう思うと、完璧じゃなくてもできないことがたくさんあっても何とか今の自分の切り札を全部使ってミッションをこなそうと頑張っている姿が愛おしく感じた。
それからだ。
あのUFOの話。
あの東の夜空に見えたのはUFOだったと越智先生が教えてくれた話。
東京に帰ってからじわじわとその話が繰り返し思い出され、
それはさ~
わかんないよ~、
UFOとかさ~
それは分かんなくても仕方ないよ~
と、幾度となく涙が出てきた。
私はずっと自分を責めていたのだ。
あれが超新星爆発やハレー彗星等の自然現象だったとしたら、なんでそれが分からなかったのか、どうして逃げ出してしまったのか、と。
そしてあれってこれだったのかと思い当たることがあった。
社会人となった20代初めから20代後半くらいまでのこと。
私は頻繁に本屋へ足を運んでいた。
週に4回は行ってたし、もっと行くときもあったし、休みの日は古本屋を回ることが多かった。
でも本屋にいって無数の本を見ると苦しくなった。
あれもこれも読まなきゃ、読んでたくさんのことを知っておかなきゃ、ああ、でも間に合わない、といつも脅迫観念にかられ、息がうっと詰まるような苦しさを覚えていた。
本を読むのは好きだけど、1冊の本を読むのだってある程度の時間がかかるし難しい本ならもっと時間がかかる。
働いていているとそんなに自由になる時間もないし、たとえ本を読むことができてもその本の内容を自分の中に落とし込むのには時間がかかる。
今の自分の知識では理解できないこともたくさんある。
それなのに。
世の中にはなんと知らないことがたくさんあるのか、どれだけの専門図書が出ているんだろうと思うといつも何かに急かされているような苦しさ。
はやくいろんな知識を知っておかないと間に合わないという焦り。
苦しいと思うのに本屋へ行くのをやめられない。
何に対してこんなに焦ってるのか、間に合わないって何にだ?
なぜかこれでは30歳までに間に合わない!といつも焦っていて、そのあとも人生は続くのに…なんで30歳超えたらダメなんだ?と自分でもこの感覚が不思議だった。
そういう謎の葛藤の時期があったのだ。
ただ私が28歳のとき、母の病気が発覚し、1年にも満たない闘病生活の末、亡くなってしまった。
そのときは本を読んでいるどころではなく、この前後からあの苦しい思いは薄れていった。
2年位前に、片づけをしていたとき昔の手帳が出てきてぱらぱらとめくっていたら、20代当時の苦しいような気持ちが綴られていてああ、私そういえば昔こんな風だったな、と思い出した。
いつも何かに間に合わない、早く色んな知識を詰め込まなきゃ、詰め込むだけじゃだめだ、ちゃんと自分に落とし込まないと、でも時間がなくて間に合わない、というあの焦るような苦しい思いがどっからきてたかっていうと、夜空を観察していたあのとき、知識がないせいでパニックを起こしちゃんと現象を見ることができず人生の大失敗をした、という後悔から来ていたのだなと思った。
30歳までにと思っていたのは、私が見えた陰陽師の自分は30代くらいだったのでそれで焦っていたんだろう。
だからあれがUFOだったと越智先生が解説してくれたとき、救われた思いになったのだ。
そんなの知識があってもどっちにしろ分からなかったよ、そんなに自分を責めなくても良かったんだ、と。
知識は私を何度も救ってくれた。
でも答えが知識の外にある時だってあるのだと、私はそのことを学んだ。
まさに過去生の自分が教えてくれたのだ。
今はもうあのときのような強迫観念はだいぶ薄れたけど、それでも常に何かは読んでいる。
たぶんそれはそれで意味があるのだと最近気づいた。
今度はないものを必死に補うために読むのではなく、これからに生かすために知識を学びたい、今も色んな本をせっせと読んでいるのはそのため。
ちょっとやりたいと思うことが出てきたので、そのために今までは読まなかった分野の本も読んでみよう。
きっと昔必死に読んだ本の知識も無駄では無かったと思う。
ほんと面白いな~と思う。
人生一切無駄なし、だな。