晴れて卒業して新年を迎え、何週間か経った頃のことです。
ついにFennel兄弟も来なくなった…と会衆の皆さんも気づきはじめました。
思えば覚醒してからというもの、集会に行くのを辞めた場合の長老たちからの接触、家族や仲間からの引き留め…それをかわすことはどんなに大変だろうと想像したものです。
2回ぐらい引っ越してからでないと難しいのではと考えたりもしました。
もし何の兆候も示さず突然集会に来なくなったとしたら、電話、メール、訪問などが相次ぎ、大変だったことでしょう。
私の場合は明らかに長老たちと何かあり、奉仕の僕を降ろされ妻も集会に行けなくなるという流れがありましたので、みんな「想定内」とみなしてくださったのか、本当に静かでした。
それでもメールや訪問してくださった方もおられました。
そのような方に多くは語らずとも、単なる気の迷いとか弱ったからというのではない、固い決意に基づくものであるということは自然に伝わったと思います。
その決意の理由などを敢えて深く聞こうとはされませんでした。
Fennel夫婦が決意した理由、本当は知りたいけれど、聞いてしまって自分の信仰がぐらついてしまうと困る、と考えたのかもしれません。
同時に、組織から離れようとしている人との接触を知られるとまずい、と考えている様子も感じられました。
ある姉妹はうちを訪ねてもよいか、長老に確認してから来ていました。
そんなことばかり考えながら行動する人生、気の毒だなあ、と逆にこちらが心配しました。
長老たちからの接触はどうだったでしょうか。
私たちと関わった三長老は早いうちにそれぞれ会衆を去っていきましたが、私が集会に行かなくなった時はまだ三人とも会衆にいました。
しかし三人からは一切電話もメールも訪問もなく、全く関わってきませんでした。
むしろ向こうも関わられると困る、何もなかったことにしたい、と思っていたのでしょう。
こちらとしても拍子抜けするほどほっといてもらえて、本当に助かりました(笑)。
しかしちょうど私が去るタイミングで会衆に遣わされたベテル出身長老が、私たちのことを気にかけ、一度会って話を聞かせて欲しいということになりました。
私と、最後の集会で泣かせてしまった奉仕の僕の友人との三人で会い、このブログに書いたような一連の流れをお話ししました。
三長老たちの肩を持とうとすることもなくよく話を聞いてくださいました。
この件を一から調査して然るべき手段で扱ってほしいかどうかも聞かれましたが、「三長老からの扱いには納得していませんが、もう疲れてしまい考えたくありませんし、彼らとは関わりたくありません。」と答えました。
「今は何も考えられないのでそってしておいてもらえると助かります。」というスタンスで接することにしました。
この元ベテル長老は、牧羊と言いながら三長老が揃って審理委員会のような会合をしたことに、とても驚いていました。
後日友人からの話によるとその元ベテル長老は、「ほんとにそんなことしたの!?」と三長老の一人を問い詰め、その長老は下を向いてうつむいていたとのことです。
三長老たちは私が面倒な訴えを起こしたりしないか冷や冷やしていたかもしれませんが、そのつもりがないことを知り、内心助かったと思ったことでしょう。
この元ベテル長老は月に一度ぐらいの頻度で、集会のお誘いなど様子を尋ねて電話してくださり、「まだその気にはなれません」というやり取りを半年ほどしました。
その電話も3ヶ月に一度、半年に一度となり、2年でその元ベテル長老も遠くの新しい会衆へ移動しました。
その後新しい長老がまたよそから来たり、奉仕の僕だった若手が長老になったりしましたが、会衆の長老からの連絡は以後一度もありません。
私たち夫婦と長年同じ会衆で共に過ごし、先に近隣の会衆に引っ越した長老たちもいますが、一人の長老から一度記念式の招待のメールが来ただけで後は連絡はありませんでした。
このように、長老たちからの追跡は大変あっさりしたものでした。
これは私たちが15年いたとは言えここが地元ではない、ということもあると思います。
もし子供の頃からずっと育った場所で、家族ぐるみの付き合いをしていた仲間がたくさんいて、長老も小さい時からお世話になった父親のような存在だったりすると、このようにあっさりとはいかないでしょう。
それにしても、私自身組織を離れるという経験を通して感じたのは、離れようとする人を引き留めようとする本気度の低さです。
本当にJWの教理を信じている人にとって組織から離れるということは、まもなく来るハルマゲドンで滅ぼされ永遠の命の見込みを失ってしまうということを意味するはずです。
本当にそれを現実のものとして信じているのであれば、そのことを懸命に訴えて説得しようとするのではないでしょうか。
私が二十歳前後の頃に、ある長老家族と一緒に食事をしていた時の会話を思い出します。
お父さん長老が会衆の若い人が離れることについて話していました。
「もし自分の子供がこの組織から離れるなんて言ったら、首に輪をつけて引っ張ってでも引き留める。その時は理解できなくても、とにかく無理矢理でも連れ戻して真理に留まれば、楽園での永遠の命を得られるのだから。どうしてその子の親は力ずくでも引き留めないのか。」
私はその頃、この組織でやっていこう!と「霊に燃えていた」時期でしたので、本当にそうだと思いました。
楽園での永遠の命を捨てるなんて馬鹿げている、無理やりでも連れ戻せば、あとできっと感謝される、永遠に生きられるんだから、そう考えていました。
今思えば恥ずかしい洗脳状態ですが、JWの教理のメインの部分、間もなく来るハルマゲドンを生き残って永遠に生きる、ということを本当に信じているなら、何が何でも引き留めたいと思うはずです。
私たちが離れることを悲しんだり残念がったり、いろいろ辛かったのでしょうね、と感情移入してくださる友人たちも多くいました。
しかし、首に輪をかけて引っ張るとまではしなくても、生き残って楽園でというような教理的な面に訴えかけて話してきた人は、一人もいませんでした。
私たちとの付き合いの距離感で、そこまでは言えないと思った方もおられると思います。
しかし何でも率直に言い合ってきた友人も、幼なじみの長老の友人も、やはり教理的な部分から説得しようとはしてきませんでした。
私たちが言われたのは、いなくなると寂しいとか、これまでせっかく頑張ってきたのにとか、世界中で兄弟愛で結ばれている組織は他にはないとか、正されるのを待とう、といったなんとも根拠に乏しいものばかりでした。
これは私の感覚ですが、今や長老を含め信者たちの多くはもはや昔ほどにはJWの教理を強く信じていないのではないか、と感じます。
もう間もなく終わりが来る、と言われて続けて何十年…次々と変わる解釈…信仰の土台が脆くなっていくのは自然なことだと思います。
むしろ、離れようとする人に接することで長老から何か言われるというような、目をつけられることへの恐れのようなものがますます強まっているように思います。
せめて長老たちは本来なら、本当にJWの教理を信じているのであれば、自分たちの扱いがきっかけで羊たちが離れたとしたら血の責任が生じるかもしれず、何としてでも繰り返し話し合いをして、戻ってきてもらおうと力を尽くすはずです。
またもし私たちのことを会衆を守るために排除しなければならない存在と考えていたとしたら、それこそ血の責任を問われないように徹底的に検証し話し合って扱うべきでしょう。
本当に神を信じ、長老職を神から託された羊の命を守る羊飼いのような大切な職だと信じていれば、そういう行動を取るはずです。
私に繰り返し電話してくださった元ベテル長老は、私と接点もなかったのに関わることになりやりにくかったと思いますが、真摯に接してくださりありがとうございました。(お礼)
このように私たちの場合は、どうしてもこれ以上無理と思っていた頃に長老たちから理不尽な扱いを受け、それをきっかけにしてタイミングよく無事卒業できたという状況でした。
これから卒業を考えておられる方々も、それぞれ状況は異なると思います。
とても私たちのケースような引き留めでは済まない、という方もおられると思います。
私たちの場合は、覚悟していたよりもずっと静かに組織を去ることができました。
それ以後、本当に穏やかな日々です。
先延ばしにしなくて本当に良かったと思います。