奉仕の僕削除から1ヶ月ぐらいでしょうか、巡回訪問がありました。

 

卒業前の最後の巡回訪問、ややこしい事にならずに無事乗り切れるでしょうか!?

 

初めてお会いする新しい巡回監督ですが、今回の訪問で長老たちと私たちとの出来事をどう扱うのでしょうか。


 

もし長老たちにやましいことが無ければ、巡回訪問中の予定を決めるにあたり、監督による牧羊の第一候補はおそらく私たち夫婦です。

 

夫は奉仕の僕を削除され、妻は集会に来なくなったという、今のところ会衆で一番危ない(?)存在のはずだからです。

 

しかし、色々話されると困るため、長老たちは私たちが巡回監督と接触するのを嫌がるのではないかな、と思いました。

 

私たちが何も言い出さなければこれ幸いと、このまま巡回監督と接触させずに訪問を終わらせたかったことでしょう。

 

その予想通り、訪問前も訪問中も、監督との牧羊や奉仕、再訪問など長老から声をかけられることは一切ありませんでした。

 

やはりこのまま何も無かったことにしたいんだな…長老たちの考えがよく分かりました。

 

しかし訪問最初の記録調べの時に、私の僕削除のことや私たちの様子を当然聞かれるはずです。

 

監督も削除を承認した立場上、その会衆を初めて訪問する時にその本人と話しもしないというのは考えにくいです。

 

それでも訪問の半分過ぎても何の音沙汰も無かったため、本当に何もしないんだと思っていた金曜日の夜に、急きょ明日の朝王国会館で監督の牧羊に応じられないか、という電話が来ました。

 

電話してきたのは例の3長老ではなく、ちょうど2週間前ぐらいに移動してきた新しい長老です。

 

「巡回監督はFennnel兄弟姉妹のことをとても心配して、お会いしたいとおっしゃっています。」とその長老は言いました。

 

一応一通り話しを聞いてもらう必要はあると思い、夫婦を代表して私だけ、急でしたが翌日の朝、王国会館で会うことになりました。

 

巡回監督、入ってきたばかりの新長老、私の3人です。

 

最初の挨拶と少しの雑談の後、私はまず率直に聞きました。

 

「私はまだ監督とお会いしたこともお話ししたこともないんですが、どうしてすぐに削除を承認されたんですか?」

 

それに対して、

 

「そういうところが、反抗的なんじゃないですか?」

 

いきなり強めの口調で、私を最初から反抗的な人間と決めつけたような言い方に驚きました。

 

「いえ、反抗とかではなくて、片方の話だけで決められてしまうのかな、とちょっと不思議に思ったんです。」

 

そう答えたところ、以前の記事で触れましたが、驚きの発言がありました。

 

「そもそもFennel兄弟は、長老たちに反抗的で、自分から一方的に奉仕の僕を降りたってことになっていますよ。」

 

「…?」

 

「え?自分から降りたってどういうことですか??言葉を切り取って、そういうことにしたんですね…」

 

とただただびっくりしていたところ、また、

 

「ですからそういう態度が反抗的だってことじゃないですか」

 

と言われて話す気も失せてしまいましたが、せっかくこの場を設けたのだから聞いてもらおうと、3長老たちの突然の「牧羊という名の審理委員会」の経緯を話しました。

 

長老団が牧羊と言いながら3人で取り囲み、急に審理委員会のように厳しい質問を突き付けて30分も妻に無言で圧力をかけてきたこと。

 

苦しんでいる親族の話にM長老が半笑いで「理不尽な理由で亡くなった人の話は聖書中に沢山ある」と発言したこと。

 

記事に書いた通りの3長老の様子や、ひどい扱いについて話すうちに、巡回監督の態度も少し変わってきました。

 

私も「反抗的」ととられないように、起きた事実をそのまま、丁寧に話しました。

 

削除のことも理由も述べずに一方的に告げられ、そのまま立ち去られそうになったところ何とか話し合いになったこと。

 

そしてその話し合いの最後に私が「こんな状態で奉仕の僕を果たすのは無理ですので、もういいです。」と述べ、その部分を切り取られて「自分から降りた」ということにされたのでは?と話しました。

 

そこまで聞くと巡回監督は、「そういうことだったんですか…」と少し考え込むように言いました。

 

そこで監督は言いました。

 

「兄弟、どんなことがあっても、組織から離れないでください」

 

2回ぐらいそれをおっしゃいました。

 

少し違和感を感じました。

 

私の話から長老団がおかしな事をしているのではないか、と感じたのなら、「もう一度長老たちにも確かめてみます。」と、この件をきちんと検証しよう、という流れになるのではないでしょうか。

 

それをしようとせずに、とにかく「どんな理不尽と思える事があっても耐えるように」と言われて片付けられているように感じました。

 

まだ十分に伝わっていないのかもしれないと、もう少し具体的な実例をいくつか話そうと考えました。

 

しかし驚いたことに、監督は私が話し始めたのを遮るようにぱっと腕時計を見て、「では、時間ですのでこれで終了にしたいと思います。」と言ったのです。

 

まだ1時間も経っていないぐらいでしたが、監督の次の奉仕の時間が近づいていました。

 

私も次の人の予定に食い込んでまでとは思いませんので、それ以上話すのはやめました。

 

少なくとも監督に、「自分から降りた」のは事実ではないこと、私がただ反抗的だったわけではなく長老たちにかなり極端な扱いを受けたということ、それがある程度伝わったなら、もうこれ以上はいいと思いました。

 

別れ際に監督は「諦めないでください」と肩をポンと叩いて去って行きました。


 

それにしても…


 

牧羊の最後の、「じゃ時間ですので」というあまりにもあっさりした終わり方というか、区切り方というか…

 

私の話もまだ続きがありましたが、監督の立場からももっと確かめるべきことや話すべきことはなかったのでしょうか。

 

長老団と私たちのこの件を監督としてどう考え、扱うつもりか。

 

集会に来なくなった妻の様子は?

 

これからの私が組織から離れないようにするためには?

 

などなど。

 

予定表を埋めるためのお付き合いで雑談しに来たような牧羊ではありません。

 

私たち夫婦の状態は、まさに羊が群れから離れようとしているような状態です。

 

本気で信じている人からすれば、このままでは永遠の命を失うことになるという境目に置かれているようなものです。

 

それなのに簡単に大まかな事情を聞いただけで、時間が来たから終わりとはびっくりしました。

 

例えばどうしても次の人との予定時間を守りたいなら、その後や夜にもう一度時間が取れないかとか、明日はどうかとか、そういう申し出もありませんでした。

 

ちなみに、この私の牧羊の次に奉仕の予定が当たっていた人というのは、独身の若い奉仕の僕の兄弟でした。


 

巡回監督のこの対応に、なんとも虚しいというかやるせない気持ちにもなりましたが、とにかく穏やかにこのまま自然消滅することが目的です。

 

またもう一度長老たちと話し合いたいとか、そんな気は全くありませんでした。

 

ですから監督のこれぐらいの扱い方で結果的にはちょうど良かったと思います。

 

監督も、出来るだけ自分の巡回区で面倒なことは起こしたくないというのが本音なのでしょう。


 

私がこれまで聖書から学んできた「牧者たち」というのは、弱った羊を懐に抱き抱えるようにして優しく世話をする羊飼いのような存在です。

 

残念ながら、長老だけでなく巡回監督からも、そうした羊飼いのような優しさや、羊の命がかかっているという真剣さを感じることはありませんでした。

 

学んだことと違うことが多いように思います。


 

削除後の巡回訪問も無事(?)乗り切り、いよいよ私の卒業も近づいてきます。