会合の続きです。

 

進行役が代わり、別の資料が渡されました。

 

その資料は、組織による理解の調整にどう反応するか、というものです。

 

「教理上の事柄などに調整が加えられた時、どのように応じられますか?」と質問されました。

 

ちょうど雑誌の記事の中でしれっと見解の調整をしてくる、ということが続いた頃でした。

 

模範解答は「最新の理解についていけるよう自分の考えを調整し、たとえすぐには十分に理解できないとしても、組織を信頼して進んで従いたいと思います。」という感じでしょうか。

 

資料もそのように導くような記事でした。

 

私は答えました。

 

「それまでの理解を真理だと信じて人々にも宣べ伝えてきたわけですから、最新の理解に対して、はいそうですか、と深く考えもせずにすぐに従うというのは違うかなと思います。」

 

「前の見解がどうだったのかをもう一度よく調べて、どういう理由でどう変わったのか、よく考えて時間をかけて理解していくことが大事だと思います。」

 

ちょうどその頃「しれっと」調整というか新しい解釈の含みを持たせた記事がありました。

 

それは復活した人が結婚するか、という問題です。

 

それまでは、「死によって結婚のくびきは解かれる」とか「復活した人はみ使いのようになる」ということで、復活した人は結婚しないとはっきり断定されていたかと思います。

 

それが、復活する人も結婚できるかもしれないという解釈が一つの副記事にさりげなく出ていたのです。

 

こんな大事な見解の変更がなぜ小さな記事でそっと触れるように扱われているんだろう?と私自身とても組織に対する不信感が強まったのを覚えています。

 

私はその例を出して話しました。

 

「例えば、配偶者と死別した後に再婚した方は、この見解の変化にとても戸惑うのではないでしょうか?」

 

「復活した人もまた結婚できるという理解であれば、死別しても再婚せずに復活を待って再び一緒になることを待ち望む人も多いはずですよね?」

 

「それほど重大な解釈の変化なのに、組織がそう言うから、と深く考えずにすぐに新しい理解に合わせるというのは難しいと思います。」

 

復活する人の結婚に関しては子供の頃からおかしいなとは思っていました。

 

夫婦が死別して、楽園で復活してきても家族になれず別々に生きるということ?

 

「完全になるからそれでも悲しいとか不幸せに感じることはないのよ」と親からは煙に巻くような説明をされた記憶があります。


 

この件ではなんとも複雑な事情の実例があります。

 

私の高校の同級生で会衆は隣でしたが、大人しくて美人な姉妹がいました。

 

なんとも悲しいことに、結婚してまもなく夫が仕事中に交通事故で亡くなったのです。

 

幸せであろう新婚生活中に突然訪れた悲劇でした。

 

その亡くなった夫にはあまり雰囲気は似ていないお兄さんがいました。

 

なんとその死別からそんなに期間が経たないうちに、そのお兄さんと再婚することになったのです。

 

家族が気の毒に思って勧めたのか、本当に恋愛関係になったのかは分かりませんが、現代版レビレート婚?とたいそう驚きました。

 

弟さんが復活した時、新婚のまま死別した愛する妻と再会できたと思ったら、自分の兄と再婚していたと知ってどんな気持ちになるんでしょうか…

 

「み使いのように」なるのだから、結婚願望はなく、妻が再婚したことを悲しむことはないのかな、と当時は思いました。

 

その副記事が出た時はもう覚醒していたわけですが、その記事を読んでまずこの例が浮かびました。

 

同級生のあの姉妹はこの記事を読んで、どう感じるのだろう?

 

もう復活してきてもあの人とは一緒になれないという大前提があったから、お兄さんとの再婚を受け入れたのでは?

 

「愛の神ですから、復活した人にも結婚の見込みがあるという新しい理解は理にかなっていますね。」なんて言われて、すぐに納得できるでしょうか。


 

長老たちは模範解答を言わないことに苛立ったような雰囲気で、「そういうことを会衆の方とも話しておられるんですか?」と聞いてきました。

 

またその質問か、と私も多少苛立った口調で答えました。

 

「人それぞれ感じ方があると思いますので、今言ったようなことを話したことはないですけど。」


 

妻にも聞いてきました。

 

「姉妹はものみの塔の資料などについて、会衆の方たちと何か話をされたりしますか?」

 

「感想などを話すことはありますけど。」

 

「どんなことを話されますか?」

 

「どんなこと?…どんなとこが良かったかとか、よくわからなかったところを聞いたりとかでしょうか。」

 

このやり取りは何なのでしょう?

 

一体何が聞きたいのでしょうか。

 

妻はピンときました。

 

集会では私が案内係で別に座るため、よく一緒に座る年上の姉妹と集会後に研究記事を開きながらその日の感想を話していたようです。

 

妻は覚醒してからは全く注解はしませんでしたが、その姉妹は時々考え抜かれた注解をするような方でした。

 

妻はその姉妹の知的で考え深いところを尊敬していて、自分では気づかないことを気づかせてくれることも多いので、姉妹と感想を述べ合うことが楽しかったようです。

 

その二人が集会後にものみの塔誌を広げて何やら会話しているのを遠くから見て、「何か消極的なことをひそひそ話してるのではないか」「分からないことがあるなら何で長老に聞きに来ないんだろう」とでも考えていたのでしょうか。

 

実際そんな視線を度々感じたと妻は言っていました。

 

もはや、教室の中でひそひそ話をしている人を見て「ボクの悪口を言っているに違いない!」と思い込んでいじめてくるような子供レベルです。

 

相手のことは決めつけてかかる一方で、こちらからの質問にはとにかくはぐらかすような答えしかしません。

 

今回の会合の中で何度も、

「何か問題があって私たちのためにこういう資料を用意されたんですか?」

と聞いたのですが、

 

「ただこの資料から率直な感想を聞きたいだけです。」

とはぐらかすんです。

 

このような不誠実な相手にまともに話す価値もないのですが、私は真面目にいろいろ話してしまいました。

 

録音を聴いた妻からは「なんかスイッチが入って感情的に話させられちゃってる感じだったよ。」と言われました。

 

結局彼らの術中にはまってる感じで反省です(^_^;)

 

さて、

 

この不毛なやり取りの会合シリーズ、長くなって恐縮ですが次回の記事でもう少し書き起こしてまとめにしたいと思います。