家族の中での会話の続きです。

 

母は祈りが聞き届けられることが信仰の大きな根拠のように言いました。

 

「どんな祈りが聴かれたかってこと話そうか?」と母が言うので私は「いや、いいよ」と自分で質問しておいて何ですが話を遮りました。

 

子供の頃から聞かされていますが、母の「祈りが聴かれた」というのはちょっと思い込みが強いというか、客観的に見れば偶然なのにたまたま祈りと一致してしまった時に「祈りが聴かれた!」と信仰を強めてしまうパターンです。

 

例えば、母がバプテスマを受けたときに交わっていた会衆では独裁長老の影響が強く、正義感ゆえでしょうが母は同世代の主婦の姉妹たちといつも不満を話していました。

 

親たちの長老批判の会話は、そばで遊んでいる小学校低学年の私にもよく聞こえてきて、あ、この会話は聞こえなかったことにしてあげないと、といつも思っていました。(小っちゃい子に気を遣わせないでー)

 

すると父の転勤で新しい土地に引っ越したのですが、そこの会衆の長老が打って変わって謙遜なタイプで会衆の雰囲気も良かったため、「祈りが聴かれた!」といつも母は言っていました。

 

その会衆のある姉妹に母は前の会衆での不満を話し、祈りが聴かれてこの会衆に導かれたと興奮気味に話していたのを聞いていましたが、その中で母は「転勤になって良い会衆に導いてくださいという願いと同時に、転勤に伴って主人が昇進するように具体的に祈ったらそれも聴かれた。」と言っていました。

 

小学生の私は(それは違うやろ!)と思いながら聞いていました。

 

さすがにその話を大人になってから母に言うと、「あの頃はまだ霊的に未熟だった」と認めてはいましたが、祈らなくても十分起こり得ることであるのに、具体的に祈ってその通りになると信仰を強めるというパターンはずっと続いていました。

 

それで今この場で母が祈り体験を話してしまうと、私がそのカラクリを暴露するように批判してしまい、母にとっての大事な信仰の根拠を家族の前でけなしてしまうことになると思ったので遮ったわけです。

 

思い込みを指摘してやりたい、という気持ちを抑えて冷静になれたのはその場に妹夫婦がおり、妹の夫が長老だったのもあってあまり言い過ぎるのはまずいと意識していたからかもしれません。

 

母に言い過ぎて後悔するというのが昔からのパターンでした。

 

責めすぎてしまうと相手も自分の信念を守ろうとより頑なになってしまいます。

 

自分の信じていることを崩されたくないという気持ちが強く働いてしまうのだと思います。

 

それで母の祈りを責めるのではなく実際にあったことを持ち出すことにしました。

 

「同じ巡回区の会衆でね、大会の集まり帰りの兄弟たちが事故にあって主宰監督が亡くなったのよ。事故は誰にでも起きるとは言ってもね、祈りが聞き届けられたってよく言われるように本当にエホバが身近な小さなことにも介入されるのであれば、どうしてこういう時には介入されなかったわけ?そういうときだけ、時と予見しない出来事は誰にでも起こる、って言うわけ?長老たちだししかも霊的な集まりの帰りだよ?ちょっとみ使いが助けてくれるとかもないわけ?」

 

古くからの地元の長老でありその会衆の大黒柱であった主宰監督がそのような形で亡くなったことは衝撃的でした。

 

巡回区のみなさんも会衆のみなさんも「どうしてエホバは助けてくださらなかったんだろう?」と心の中では思ったでしょう。

 

でもそういう消極的な考えの話は広まらず、亡くなったことや事故の様子にもあまり触れられず自然に何事もなかったかのようにされていきました。

 

さらに近隣の会衆で、以前奉仕中に姉妹が殺害されるという事件があったという話もしました。

 

一方で、事故や犯罪や災害から奇跡的に助かったかのような話は「エホバが助けてくださった!」と大々的に経験談になり大会で扱われたり年鑑に載ったりします。

 

「それっておかしくない?」と私が家族に問いかけると、反論は返ってきませんでした。

 

程度は違ってもそうした例はどこにでもあり、あれ?この時はエホバは介入されなかったんだ、と思ったこと、きっと誰でもあるんだろうと思います。

 

そうした内心の正直な気持ちに目を留めて欲しくて、覚醒後の現役時代にものみの塔研究の祈りに関する記事の中でこのように注解したことがあります。

 

「あまりにも何でも、エホバだ!祈りが聴かれた!と考えてしまうと、たまたま反対の結果になった時に、エホバが祈りを聴いてくださらなかったのか?と消極的な考えになったり疑念を感じるようになってしまうかもしれません。それで実際どこまで神が介入されるのかに関して道理にかなった見方ができるように注意したいと思います。」

 

ちょっと嫌味っぽい感じになっちゃったかな、とも思いましたが、覚醒後はよくそういう注解をしていました。(逆証言したくなっちゃうんですよね!)

 

さて、家族との話し合いは重苦しいテーマにはなりましたが、前々回の記事もそうですが家族の誰かを責めたわけではなく近隣の実例を挙げたのが良かったのか、「確かに考えさせられるよね」とか、「盲信はいけないよね」というようなことを妹夫婦も言ってくれました。

 

バプテスマを受けてまだあまり経ってない父は、肯定も否定もせず黙って聞いてくれていました。

 

その話し合いの間ずっと妻はすぐそばで小学低学年の甥っ子とトランプ遊びに興じてくれていて、テーブルで家族が重苦しいテーマの話をしている中に聞こえる妻と甥っ子の爆笑やへんな歌声やらが中和剤として雰囲気を和らげてくれました。(ありがとー)

 

母にはその夜のうちに「急にいろいろ言ってごめんね。まあ今すぐ辞めるってわけじゃないから。」とフォローを入れておきました。

 

母は「誰でもそう思うことはあるわよ。」と言いました。

 

きっとショックはあったはずですが、ここは息子に頭ごなしに言う時ではないと母なりに思っていたのでしょう、優しい感じでした。

 

そして本当に辞めることまではしないだろうとも思っていたかもしれません。


 

私としては家族に事前に「いつか辞めるよ」という話を、突然でしたが思ったより早くすることができて良かったと思いました。

 

夫婦で覚醒してから、親兄弟にはいつどのように話すか、または話さないか、ずっと気にかかっていましたので、とてもほっとしたのを覚えています。

 

親兄弟を驚かせてしまった気まずさも多少はありましたが、いざ言ってしまえば、思ったより気が楽になるのを実感しました。

 

さあ後は実際の卒業に向けて行動するだけだ!と先が見えてきて心が晴れたような気がしました。