さて、土曜日の夜ではありますが、年度末最終日でございます🙇‍♀️🙇‍♀️🙇‍♀️

このブログのとりあえずのゴールは
『発達障害不登校高3女子 どうなる❓』でしたから、とりあえず何とかかんとか、パンク脱輪を繰り返しながら、自転車操業状態で高校卒業まで漕ぎ着けた事になります🙇‍♀️🙇‍♀️🙇‍♀️

そう思うと、とりあえず最低ライン❓最高ライン❓いずれにしても、あの状態からここまで来れたのは感慨深いものがあります
(;_;)(;_;)

願わくば、次のステップへ送り出したいところでありましたが、それは叶わず、断念致しました。
けれども、結果としては、意志を持って断念したのであります。

この1年間、高3娘の登校に親が付きそうという、人がやらない事を日々敢行してみて私が見たものは、やっぱり友人達の中に、今のうちの子を放り込んでおくのはどうやら無理だったこと。
わからない。私がいなかったらもう少し学校対応となり変わっていたかもしれない。けれども、とにもかくも付いていかなければ、人や空気を怖がり、ままならなかった事は確実だ。

昔から私の悪いくせで、戻る、立ち止まるということが苦手だった。娘が公文をやっていた時も、もう一度一段階下げて上げていきませんか❓と言われた時に躊躇した。せっかくここまで来たのにまた下がる〜〜❓

自分の人生でも、立ち止まらない、欲張ってでも進む、そして、最短距離で行こうとする悪い癖はあとあとより大きな負債となって返ってくる。まあ、そんな事もまた書いていきたいけれど。

ここへ来て、ず〜〜っと追われて追われて生活して来た中で、今一度自分の育児も振り返り、娘にとってこれから大事なこと、本当は身に付けられるはずだったのにつけられていないこと、娘の可能性を模索し、娘が劣等感や、居場所を失わない、確かな場所だけを繋いでいきたいと考えている。

娘が生まれてから小学校までの日々、、
その間が私にとっては特にしんどい日々であった。私自身が、娘の事をありのままに受け入れる事に随分と時間がかかってしまったから。

けれども、娘を知る人は
『どうして、りかりかりんくらいに出来るなら、そんな障害、障害ってこっちに寄ってくるの❓
もっと信じてあちらに行けばいいんじゃないの❓』
これは決して嫌味ではなく、よく娘の事を見てくれたお母さん。ご自身も同級生の障害のある男の子を育てておられた。そこには、ありがたい思いと、それでもやはり、わかりにくいけど、だからといって普通設定して、みんなの1番下からいつもいつも付いて行かせる訳にはいかない❣️という思いもあった。

こういう子達を『普通設定』すると、虐められたり、侮られたり、大変な被害にあってしまう事もまた、現実否めないのだ。

『発達障害があるんだ』という事もなかなか定型育児のお母さん達には言えなかったけどショボーンだからと言ってまた、『普通の子なんです』とも言えなかったショボーンショボーンショボーン

ただただ、子ども達の口からお母さん達に伝わっていないのをいい事に、すり抜けた部分もあったのだろう。子ども達は子ども達で、気づく子もいれば気付かない子もいて、子どもの世界も守ってくれるしね。また、賢い子がお母さんに言って、そこでお母さんが何を返したとしても、そんな事は表には出て来ないしね。

ただ、、本当にそんな事は気にしないでいい、育児であってほしいです。ただでさえ障害の子を持ったと思う事は、それだけで辛い時間もありますからね照れ照れ照れ

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これは、母が私が高校生くらいの時にくれた本です。当時は正直とても読めなかった。りかりかりん育てている間も、手にしたのはだいぶ後。当時は映画化もされたらしいし、何と初版は昭和29年。母からもらったものもボロボロ過ぎて、これは改定復刻版である。けれども、冒頭の山本三郎先生=著者の言葉は私の頭を離れなかった。
全国に残る『しいのみ』はここが原点と思われる。

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この前書きと本文は、いつも私の心に迫って、迷った時の原点となった。
大学で、心理学の教授であった先生が、どれほどお辛かったであろうと。そしてその先生が歩まれた道は、障害児教育の草分けでもある。
時代が古いので、今は使えぬ言葉も混じるが、だからこその世の中との闘い苦悩も濃い。

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ノーベル賞作家、大江健三郎先生も、知的障害、てんかんのあった『光』さんという息子さんがいらっしゃる。
🔹大江健三郎先生

愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。東京大学文学部フランス文学科卒。大学在学中の1958年、「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。サルトル実存主義の影響を受けた作家として登場し、戦後日本の閉塞感と恐怖をグロテスクな性のイメージを用いて描き、石原慎太郎開高健とともに第三の新人の後を受ける新世代の作家と目される。

その後、豊富な外国文学の読書経験などにより独特の文体を練り上げていき、国家主義などの人類的な問題と、故郷である四国の森や、知的障害者である長男(作曲家の大江光)との交流といった自身の「個人的な体験」、更に豊富な読書から得たさまざまな経験や思想を換骨奪胎して織り込み、それらを多重的に輻輳させた世界観を作り上げた。作品の根幹にまで関わる先人たちのテクストの援用、限定的な舞台において広く人類的な問題群を思考するなどの手法も大きな特徴として挙げられる。1994年日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受賞者となった。

🔹大江 光氏

東京都出身[1]知的障害[2]。幼少時から野外の鳥の声を正確に聞き分けて鳥の名前を当てたり[3]、クラシック音楽に極めて強い関心を示したりしたこと[4]から、11歳のときピアノの教師、田村久美子からピアノレッスンを受け始める。13歳で作曲を始める。作曲理論を加羽沢美濃に師事。 1992年10月に発表した最初のCD「大江光の音楽」、1994年9月にリリースした第2集「大江光ふたたび」が日本ゴールドディスク大賞を受賞した。1996年には伯父の伊丹十三監督の「静かな生活」で、日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞した。1998年に第3集のCD「新しい大江光」を、そして7年の時を経て2005年に第4集のCD「もう一度 大江光」をリリースした。父の講演に付いて行き、出ることも多い。

父の著作との関係編集

大江健三郎は、光が知的障害者で生まれた時の苦悩を『個人的な体験』として、作品にした。"A Personal Matter"の題で英訳、その人道主義的な内容は評価を受け、『万延元年のフットボール』などと共にノーベル賞受賞の道筋をつけた。健三郎はその後も、『新しい人よ眼ざめよ』のように自分と光をモチーフにした作品をいくつも執筆、「イーヨー」や「アカリ」といった様々な名を与えられ、大半の作品にキーパーソンとして登場する、大江健三郎の文学にとって重要な存在である。

先ほどご紹介した、大江健三郎先生の『新しい人』の方への中に、光さんの事を書いた『生きる練習』という文があります。

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そして、大江健三郎先生は、最後の短編『新しい人』になるほかない  の中でこのように述べておられます。

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『新しい人になるほかない』

いい言葉ですね(๑˃̵ᴗ˂̵)💕💕💕
『前例がない』
よく聴く言葉ですが、前例がないから困ってるのですよ❣️前例がないなら一緒に考えて下さい❣️
そして答えを一緒に導き出しましょうよ(๑˃̵ᴗ˂̵)
、、、って事が、障害のある子を育てているとよくありましたけど、、

でもね、彼女のおかげで、わたしは見た事もない経験した事もない、けれども現実の世界を違う視点から見る機会を与えられました。

彼女のおかげで、知り合えないかもしれない人達と知り合えたし、初めて逢っても話しても、心を近く話せる事も多かったように思います(๑˃̵ᴗ˂̵)💕

そこには、人として、計算も打算もなくね😘

もう一度、神様がもし、
健常の子とりかりかりん、どっちにします❓ 
って出産の時に言われたら、例え同じ道であっても、

りかりかりんにします😍😘💕

大変だったけど、可愛かったし、今思えば結構お陰様で真剣だったゆえに面白かったからね(๑˃̵ᴗ˂̵)😘💕💕💕

         
                       
 
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DIAMONDS 歌詞

歌:プリンセスプリンセス

作詞:中山加奈子

作曲:奥居香

冷たい泉に 素足をひたして
見上げるスカイスクレイパー
好きな服を着てるだけ 悪いことしてないよ
金のハンドルで 街を飛びまわれ
楽しむことにくぎづけ
ブラウン管じゃわからない 景色が見たい
針がおりる瞬間の 胸の鼓動焼きつけろ
それは素敵なコレクション もっともっと並べたい
眠たくっても 嫌われても 年をとっても やめられない

ダイアモンドだね AH AH いくつかの場面
AH AH うまく言えないけれど 宝物だよ
あの時感じた AH AH 予感は本物
AH 今 私を動かしてる そんな気持ち

幾つも恋して 順序も覚えて
KISSも上手くなったけど
初めて電話するときには いつも震える
プレゼントの山 埋もれもがいても
まだ死ぬわけにいかない
欲張りなのは生れつき パーティーはこれから
耳で溶けて流れ込む 媚薬たちを閉じこめろ
コインなんかじゃ売れない 愛をくれてもあげない
ベルトをしめて プロペラまわし 大地を蹴って とびあがるぞ

ダイアモンドだね AH AH いくつかの場面
AH AH うまく言えないけれど 宝物だよ
あの時感じた AH AH 予感は本物
AH 今 私を動かしてる そんな気持ち

何も知らない AH AH 子供に戻って
AH AH やり直したい夜も たまにあるけど
あの時感じた AH AH 気持ちは本物
AH 今 私を動かすのは ダイアモンド