美しい学校は、あの日のままに変わりなく、そのままの姿であった。あの日、初めて見たその学校は、遠き日のアメリカ人宣教師、エリザベス・ラッセル女史が日本の子女に教育をと、オランダ坂の上に女学校を建てた。美しさと凛とした輝きを放っていた。
入学後しばらくして、
4階の助教授室のドアをノックした。
『私、学校を辞めようと思うんです。
センター試験、受け直そうと思うんです。』
男性助教授は、窓の外に大浦天主堂、グラバー園の屋根を臨みながら、静かに私の顔を見ていた。
そして静かに仰った。
『何か神様のお導きがあって、
貴女はこの学校にいらしたのでしょうに』
触れたことのない考えに戸惑いながら、私は去ろうとした。そのドアを最後に閉めようとした時に、助教授は大きな声で言い放った。
『鶏口となるも
牛後となるなかれ❣️❣️』
目標校は及ばなくなった。
浪人をさせてほしいという私に、
両親は下に男兄弟2人を控えている私に
無理だと言った。
関東や関西の私学、
トライ出来そうな
本州の国立も却下された。
九州管内なら、、
何とか譲歩できた、
両親のというより、母親の答えであった。
行きたい学部の九州全体の偏差値を調べた。
その結果出てきた学校。
初めて見たのは受験のその日であった。
あれから30年近く、、
教授から退職記念の最後の講義をするから、是非来るようにと督促が来た。卒業から数年後、私の人生の1番苦しい時に支えて下さったのも、また彼女であった。
最後の講義。
最後の演目は
『村上春樹とムーミンと〜
世界の危機・危機の文学』
前に誰もいない、ほぼ教授の正面で、30年近くの時を経て、教授の授業を聴いた。
若き日のキレは衰える事なく、ムーミン文学の深い意味、村上春樹決意のエルサレム賞受賞スピーチ『壁と卵』、共に生きる共生社会へ。
30年近くの時を経ても、師と私が視ていたものがシンクロしていた事に、静かな感銘を受けた。
後年、教授は子どもの教育に力を入れられた。もう文学部の教授ではなくなっておられたのに、最後の講義がやはり、先生の本懐の授業であった事に、そしてこの歳になられてもやっぱり新しい物好きの好奇心に、まだまだただ懐かしがっているわけにはいかなかった。
懐かしく美しい長崎の埠頭。中国の春節を祝うあふれかえる賑やかな異国の祭りに、本家中国から巨大な客船。国際埠頭に横たわる。
近くの長崎中華街を中心に、繰り広げられる2018長崎ランタンフェスティバル。想像以上の規模と鮮やかさだ。
あの日の私も、いつも港の見える光景を見下ろし、今日は孔子廟コースで帰ろうか、居留地コースで帰ろうか、大浦天主堂裏コースで帰ろうか。
グラバー園先の寮までの道を楽しんだ。
美しい街、素晴らしい人達との出逢いは、今も私の中に息づく。走り抜けた時間であったが、言葉に出来ないほどの凝縮された宝物のような時間であった。
そして今も、遠い日の日本の開港の扉となった街の輝きは、いよいよ異国情緒の美しさを増していた。
七つの海の 彼方より
ここへ寄せ来て 栄えたる
文化は尊し 昔より
世に先駆けし この港
校歌の3番。今でも忘れない(๑˃̵ᴗ˂̵)💕💕💕
私が必死の子育てをしていて、ほぼお付き合いも全くもって失礼していたのに、グループの親友達はあの頃と変わりなく、一緒の新幹線で長崎へ向かった。
送別会も何もかも終わられた教授と、深夜まで飲んだワインは🍷長い年月を埋めた。
人生は繋がっている。
その時その時、どんな時間も繋がっている。
❤️人生は長い(๑˃̵ᴗ˂̵)💕💕💕
若い頃の様々な思い、経験はあとの自分を築き、支えていくと私は思います。ピンチをチャンスに😘😘😘😘😘 共感して下さる方はポチッとね(๑˃̵ᴗ˂̵)💕💕💕