大分の神社仏閣☆蓮城寺 薬師堂編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。

大分県にある般若姫の故郷を訪ねたRieruですにっこり
現在では、この渕の水を汲み観音様に祈念すると痣が消えるとか?(その水を使って洗顔?…では無さそう)

その後 観音堂へは参りませんでしたが、金亀ヶ渕近くにあった薬師堂へお邪魔しました。



貸切状態なので、ゆっくり拝見できそう♬.*゚


…オワッ!



建物に入ってすぐの場所には仁王像が。



なかなか良い作品です。剥がれた塗料から、完成当時は肌の色が赤茶だったことがわかります。


…乳首が花形でも決して笑ってはいけません。



イテテ



(保護用らしいです凝視)



こちらには木造薬師如来三尊像と、多くの薬師如来像がご安置されていました。



説明板にはこのように書かれています。


千体薬師


  当堂には、本尊薬師如来を中心に左右それぞれ500体の薬師如来を安置しています。薬師如来本願経に「薬師如来は7つの大願を発し、人間の心を清浄にし、病難・苦難を救済する仏」と述べています。千体とはありとあらゆる病気・苦難から心願をもつ総てのは人を救うということです。



  九州大学の研究で、千体の薬師如来像を安置する堂宇は、日本国内では当宇が唯一と認定されています。豊後国の人々が戦国乱世の言語に絶する病難・苦難の救済を求めて、一体一体を寄進したと考えられており、技法から奈良・京都・大宰府・豊後国の仏師が制作に関係したとされています。御堂は臼杵藩 侍 大工山崎重泰の建造物です。(県重要文化財)



屋外にも似たような内容の説明板があったので、書いておきます。



千体薬師像(木彫)

御堂の両側に1008体からなる薬師如来の立像が並んでいる。像の高さはいずれも65cmの同大形で、蓮華座に立ち左手に宝珠をもち右手は肘を曲げ施無畏の印を結んでいる。



同一人の作と思われるが作者は不明で4つの系統がある。記録によると貞享2(1685)年・元禄16(1703)年・明治16(1883)年に修理をしている。制作年代は室町時代と推定される。



こちらが千体薬師…



数えてみましたが、途中で疲れちゃった…



疲れちゃったと言えば、前回記事で般若姫物語のつづきを(疲れて)書く気にならなかったので書いときますにっこり

長者になった小五郎のところから〜。



   長者になると小五郎はますます信心深くなり、唐の天台山へ黄金3万両を贈りました。

天台山では、欽明天皇の御代に(敏達天皇の時ともいう)百済の僧・蓮城法師に薬師観音の尊像を持たせ返礼のため来日、寺を造らせました。今、三重町内に現存する蓮城寺(内山観音)はこうして創建されたものです。

   また、小五郎はかつて商いのため津の国、浪速(大阪)に行ったとき、伊予松山の高浜の沖で遭難し、観音の霊験によって救われたことがあり、長者はお礼のため一夜のうちに御堂を建てたといわれます。現在の四国霊場八十八ヶ所五十二番札所“太山寺”(国宝)がその寺院です。

  やがて、長者夫婦には天女のような娘が生まれ、玉世姫と名付けられました。その美しさは唐の国まで聞こえ、般若姫と呼ばれるようになりました。

   そのころ、欽明天皇の皇子、橘豊日皇子(のちの用明天皇)は16才ですが、まだ后がありません。全国にふれまわしたところ「豊後の国、内山の長者の娘が美しい」との奏聞があり、さっそく、勅使が下向いたしましたが、長者は勅命に従いません。

  皇子は身なりを変えて豊後に下り、山路(さんろ)の名前で長者の館に牛飼いとして奉公しました。

   都では皇子の姿が見えなくなって大あわてとなり、占いをすると「宇佐八幡の放生会(ほうじょうえ)を真野長者に行わせれば皇子は戻る」と出ましたのでこれを長者に引き受けさせることになりました。
  しかし、放生会に必要な流鏑馬(やぶさめ)の儀式のやり方を知っている者がいないので、長者は「古式を知っている者がいれば婿にしよう」と申しました。
   ところが、思いもかけず牛飼いの山路は古式を披露し、無事放生会を済ませて婿になりました。
   しばらく過ぎたある日、宇佐八幡より「皇子よ、早く都へ帰りなさい」とのお告げがありました。
   長者は婿が皇子だったことを知り、驚きました。姫はすでに身ごもっていたので皇子は「男児なら連れて上洛せよ。女児ならば長者の世継ぎとし、般若姫だけ上洛せよ」と言い残して帰京しました。
  帰途、皇子は海部郡日吉の邑(大分市坂ノ市)を通られましたが、ご発病になり歩み疲れて大石に腰をおろしてお休みになられました。ご病気が重いのでしばらくその地にとどまられ、豊国法師に薬師如来の石仏刻ませ病気平癒の祈願を執り行った後、ご回復を待って船をだされました。後にこの地に御子、聖徳太子が万弘寺を造営されました。
  まもなく般若姫は出産しましたが、女児(玉絵姫ともいわれています)だったので世継ぎとして長者のもとに残し、姫だけ臼杵港から上洛することになりました。長者は近くの山上から、姫をいつまでも見送っていました。
   船は途中、深江の浦(日出町大神)に立ち寄り、都よりお迎えに来た勅使の船と合流して出航しましたが、海上が荒れてわかれわかれになり、姫の船は熊毛の浦に吹き流されてしまいました。
  般若姫は熊毛の浦に十日程滞留し、日数も経ったので、向こうに見える島に渡り、馴子舞を舞って海上の平穏を祈りました。
  姫は明帝王(中国の都、長安の皇帝)から贈られた姥柳の楊枝を自らこの地にさされましたが、朝になってみるとこれに新芽が出ていたといわれています。(これが姫島の七不思議の一つ、逆柳と言われています。他に般若姫がお歯黒をつけた時の猪口と筆の跡がある「かねつけ石」などの七不思議があります)
  明ければ、天気晴朗となり海上も静かになったので船は島を出帆しました。
  この時より、この島が姫島といわれるようになったと言い伝えられています。
  姫島を出帆してから、船は再び都をさして進んでいましたが、周防の国の平郡島の近くで又も暴風雨に遭い、大畠の鳴戸の瀬戸に吹きつけられました。
   この嵐のために、120艘の船団のうち、40艘と乗組員・従者合わせて300余人を一度に失い、姫は大変お嘆きになりました。
   嵐もおさまり、一行は飲み水を求めて上陸しました。
  泉のほとりで休憩し、姫は楊枝を地面にさされましたが、これが一夜のうちに芽を出し、日毎に生長して大木となり、柳井市の地名の起源となりました。
   現在の姫田川、湘江庵の姥柳はその物語を今に伝えております。
   姫は心身の疲労が重なり病に倒れ、従者一同の必死の看護・祈願の甲斐もなくついに帰らぬ人となり、その遺体は魚の庄(伊保庄)の山頂(平生町)に葬られました。行年19才。般若寺は姫の菩提寺です。
   姫は臨終に際して、「黄金、綾綿、七宝の玉の箱、姥柳の楊枝を都の若宮に献じ、本国の玉絵姫を盛り立て、父母の跡を継がせるように」との遺言をなされました。
 姫を失った長者夫婦は深く嘆き悲しみました。こうしたある日、長者は蓮城法師から天竺にある祇園精舎の法話を聴きました。「人の命はかぎりあるもの、できることなら精舎の姿を豊後の地に再現したい。仏縁を世に残したい。姫の供養もしたい」と発願して、石に仏の姿を彫ることにしました。
  臼杵市深田の里に満月寺が創建され、岩壁に仏像が彫られていきますが、工事は難航してはかどりません。
  ある日、一人の異僧が現われ、妙術をもって工事を助けますと、さすがの難工事もたちまち完成してしまいました。
  開眼の日、姫岳の上には紫雲がたなびき妙なる楽の音が天上に響き渡ったそうです。
  長者は推古天皇13年に97才で、玉津姫は90才でこの世を去りました。
  後世、人々は長者の徳を慕い、その悲願を継承して、仏法を広め、さらに石仏を刻み続けました。
  こうして、わが国最大、国指定特別史蹟・重要文化財の臼杵石仏群が出来上がっていきました。   (〜完〜)

この物語では般若姫は病に倒れたとありますが、私が知っている物語とは違います。
怒り狂った龍が大畠の瀬戸で嵐を起こし、その龍を鎮めるために般若姫が身を投げた的な話でしたよね。
でも、どちらの話もちょっと違和感があります。
もしかして用明天皇の妻の座に座るのを疎ましく思っていた朝廷のとある者が裏で手を引いて、上洛の途中で暗殺を…

…妄想もたいがいにしとかないと!


アイタタタ


(遺言の内容が気になったもので凝視)