見えにくいですが、円形の句碑です。
うきわれを 寂しがらせよ 閑古鳥
この碑は寛政4年10月12日、尾道に滞在していた俳人 長月庵若翁が当地の俳人52人と先師 芭蕉の百回忌を営み句会を催した。
⋯と説明板には書かれていました。
後日調べてみると、長月庵若は肥前国大村藩(現 長崎県大村市)出身で、いろいろありまして脱藩。
句碑を建立した年の4月には難波にある遊行寺(円成院⋯芭蕉のお墓があるらしい)で、芭蕉の百回忌を営んでおられます。
さて、麓にあるロープウェイまでどのぐらいなのか分からないまま、適当に歩いておりますと、洗い出し?っぽい道がありました。
ただのコンクリートでは無く、表情があって良いですね。
左手には、『中村憲吉 終焉の家』がありました。
とくに説明板が無いので、『中村憲吉』って誰?と、お互いの顔を見合わせるのでした⋯誰?
後日調べてみると、広島県三次郡(現 三次市)出身の歌人で、三次中学を卒業後は、あの通称 七高(鹿児島県にあった、全国屈指の第七高等学校造士館)→東京帝国大学→卒業後はいろいろありまして、大阪の毎日新聞の経済部記者に。
で、またいろいろありまして、昭和9(1934)年5月5日にこの地にあった仮寓にて46歳の若さで亡くなられています。
三次にある生家の方は、『中村憲吉文芸記念館』があるそうですよ。
また、下り道にある開けた右側の場所には、俳人っぽい銅像が建っていました。
近くにあったプレートには、『田能村竹田之像』とあります。
たのむらちくでん⋯後日調べてみると、江戸時代後期の南画(文人画)家で、豊後国直入郡竹田村(現 大分県竹田市)の出身で、作品は門司港にある『出光美術館』や『大分市美術館』に多く所蔵されているようです。
この拓けた場所は公園のようで、桜の木が何本がありました。
満開の桜の花間から尾道水道が見えたら、それはそれは美しいことでしょう。
ちょっと一休みしてから、また下り道(千光寺通り)を歩きます。
あら、左手に天寧寺三重塔がありますよ。この角度から見れるのですね⋯ややっ!私の猫レーダーが反応しましたよ!
ブロック塀の日陰部分に、黒猫がおる!
第一猫、発見!暑いから見かけることは無いかもと思っていたので嬉しかったです。
でも、可愛いからと行って猫の眠りを妨げる気はありません。静かにお休みなさいませ。
⋯あ!
このタイル地、見覚えがあります!約5年半前に広島の塗り絵ブックに、色鉛筆で塗りましたよ!
久しぶりに開いてみると、ああ〜、確かに。
想像で塗ったので色は全然違いましたが、この頃から尾道には行ってみたかったんですよね。
(よく見るとタイルの向きが逆?)
絵には、猫が4匹も描かれていましたが、その中に黒猫もいました。
そういえば『猫の細道』があるらしいですが、どの道なのか?と、今さらながらGoogleマップで調べてみますと⋯