すごいぞ門司港駅!『関門連絡船通路跡』・『旧 正面上屋』・『誇りの鏡』編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。

GW中に、人生2度目の門司港へ参ったRieruです


早速、門司港駅へ。



こちらには、関門連絡船跡があるそうで。



駅から、直に船に乗れたそうです。


大きな荷物を持って渡った人もいらっしゃったことを思うと、若干、狭いような?



説明板には、このように書かれていました。


関門連絡船の生涯


  本州と九州を結ぶ輸送機関として、明治34年5月に発足した関門連絡船は、およそ半世紀にわたってその使命を果たした。

  最盛期の昭和16年には、下関丸、長水丸、豊山丸などの新鋭船を擁して、1日平均53往復して、年間880万人(1日2万4千人)を輸送する活況を呈した。

  しかし、昭和17年 関門海峡トンネルが開通、同19年にはトンネルが複線化され、さらに33年の関門国道トンネル開通により、昭和38(1964)年には利用客わずか40万人に減少した。



  これらの時代の流れと世の中の変遷により、関門連絡船はそれまでの本州九州を結ぶ輸送の幹線動脈としての使命を失い、ついに昭和39年10月31日午後10時40分 門司桟橋発の最終便を最後に、その63年にわたる栄光の歴史を閉じた。  

  この通路は、当時、駅から桟橋までの約100mを結んだものである。




え!桟橋は、ここからさらに、100m先だったんですね!



イテテ



(そりゃ、そーだ・・・)



こちらには、こんな穴があり、説明板にはこのように書かれていました。



〈旧監視孔〉


詳細は不明ですが、ここは戦争末期、軍の命令で設置された渡航者の監視所跡です。

門司港は、外国航路寄港地の為、関門連絡船の通路は、戦時下の不審者を監視する絶好の場所でした。

監視孔は反対側にもあり、内部が分かりにくい構造で、横に入り口を塞いだ跡があります。


なるほど、この通路を監視する為の・・・いろんなドラマがあったのでしょうね。



他にもいろいろ残っております。


こちらも、古いもの?を、きれいに塗り替えられていますね。



一瞬、竹に見えましたよ・・・


さて、連絡船通路跡の近くには、記念パネルがありました。



駅員さんの制服は、門司港駅限定モデル!ということを某番組で知りました。

袖の部分の3本線は駅長さん、ほか一部の社員さんが2本線なのだそう。こだわってますね〜♬.*゚


ん?これは、何でしょうか?



説明板には、このように書かれています。


修理前の門司港駅の正面には大きな上屋(ひさし)が取り付いていました。

この上屋は昭和4年、自動車や人力車で駅へ訪れる方たちの乗降場としてつくられたものでした。

90年近く門司港駅の顔であり続けた上屋ですが、このたび駅舎を大正時代の姿に復原するために、取り外しました。

役目を終えた門司港の歴史の一部をここに保存します。




ああ〜、この上の部分のものだったをですね。


ちょっと、面影が残る場所もありましたが。



今は自動車や人力車は駅の前に入れませんが、当時は、入っていたのですが。興味深いです。


大変興味深い鏡が、掛けられていました。



説明板には、このように書かれています。(原文のまま)


誇りのかがみ

  門司港駅には大きなかがみがかけられています。このかがみには、こんな美しい話があるのです。


  昭和二十年八月、大きな戦争がやっと終わりました。それまで、外国でくらしていた人たちは、つぎつぎに船で、門司港に帰ってきました。


  この人たちの中には、おやこがわかれわかれになった人もいました。りょうしんをなくした子どももいました。ざいさんをすてて、やっと乗りこんだ船の中で、病気になり、とちゅうで、死んでしまう人もおおぜいいました。


  門司港駅は、船で帰ってきた人たちで、あふれかえっていました。みんな、へとへとに、つかれはてていました。汽車の数も少なく、何日も駅のホームで夜を明かし、汽車に乗るじゅんばんをまっていました。


  この人ごみの中に、小さな子どもをつれた女の人がいました。もうすぐ赤ちゃんがうまれそうな大きなおなかをしています。すっかり、つかれはてたようすで、にもつにもたれ、すわりこんでいました。

  日がしずみ、あたりがくらくなったころ、女の人のおなかが、いたみはじめました。女の人は、いたさと心ぼそさで、だれにも、たすけをもとめることもできずに、とほうにくれていました。
  そんな時、ひとりのわかい、えきいんさんが、近くを通りかかりました。えきいんさんは、ホームでの、しごとをすませ、駅のじむしつに、ほうこくに行くところでした。

  えきいんさんは、女の人めんどうをみてくれそうな人はいないかと、まわりの人に声をかけましたが、みんな、つかれはてていて、だれも手をかしてくれませんでした。

(どうしたものだろう・・・。)

  えきいんさんは、まよいましたが、今にも赤ちゃんがうまれそうなようすです。


(このまま ほおっては、おけない。)

  えきいんさんは、そう決心すると、

「ぼくが、びょういんまで、あんないしましょう。」

  そう言うと 小さな子どもをせおい、くるしそうな女の人をはげましながら、びょういんへいそぎました。



  でも、門司の町は、せんそうで多くの家がやけ、びょういんも、なかなか見つかりませんでした。

  
  もう夜もおそくなっていて、おいしゃさんたちはみんな帰ってしまったあとでした。
  つかれきった女の人の足では、とてもつぎのびょういんまで歩いて行けそうにありません。
「ごめいわくを、おかけして、すみません。」
  女の人は、そう言うのが、やっとです。えきいんさんは、しばらく考えていましたが、
「では、ぼくの、家へ行きましょう。」
と言って、ふたりをつれて、自分の家まで、歩きはじめました。

  ひとりぐらしだったえきいんさんは、家につくと、きんじょにすむおばさんに、たすけをもとめました。

  つぎの日の朝早く、ぶじに男の子の赤ちゃんが生まれました。
  えきいんさんは、どんなにうれしかったことでしょう。

  なん日かたち、女の人もすっかり元気になりました。おくれて門司港についた女の人のごしゅじんは、えきいんさんとおばさんに、なんどもなんども、おれいを、言いました。
  赤ちゃんが生まれてから十二日めの朝、しあわせそうな四人のおやこは、えきいんさんたちにみおくられ、門司港駅から、自分たちのふるさとへ、かえって行きました。
  
  年月がたち、そのとき生まれた赤ちゃんもおとなになりました。そして、自分が生まれたときの話を聞き、おせわになったえきいんさんにかんしゃして、大きなかがみを、門司港駅にプレゼントしました。

  そのかがみは、「ほこりのかがみ」と名づけられ、今でも門司港駅にかけられています。
  門司港駅で、はたらくたくさんのえきいんさんたちは、毎日このかがみを、見ながら、がんばってはたらいているそうです。


そんな実話が・・・人は余裕が無いと、他の人が困っていても、なかなか助ける事が出来ないと思います。



本当に、その駅員さんは素晴らしいと思います。

また、その時の赤ちゃんの名前が、『左門司(さもんじ)』さんというのが良いではないですか!

調べてみると、より詳しく書かれたサイトがありました。

左門司さんの結婚式の際、当時の駅員さんを招待されたとのこと。

その時に朝鮮半島から引き揚げた、あの時のご主人さん(左門司さんのお父さま)がお礼に贈ったそうで。


てか、左門司さんの『左』は、どちらから?お父さまも、駅員さんのお名前の一部でもなさそうですし。

お兄さんの名前には、『右』の字が使われているとか?


・・・感動的な話が、あんたのオチ探しで台無しや。



アイタタタ


(すみません)