2日目は、Tもっちゃんリクエストの『乃木神社』へ。
南鳥居から、お邪魔します。
階段を上がったところの両脇にあった灯篭の火袋の部分が、『二』になっていて珍しい!
『長門國二宮』ということで、『二』?
近くには、自然石を使った巨大な灯篭もありました。
火袋の部分だけ加工されているのですね。
そのまた近くには、イチョウの木が。葉が全て落ちていましたが、黄葉の頃はかなり存在感のある木なのでしょうね。
説明いたには、このように書かれていました。
宿祢の銀杏
当社の御祭神 仲哀天皇、神功皇后、応神天皇に仕えた大臣 武内宿祢(たけのうちすくね)が植えたと伝えられる古木で、その子孫が繁茂している。銀杏は『生きた化石』とも言われるほどに、地球上で最も古くよりみられる植物で、武内宿祢の長寿伝説と結びついている。
長寿伝説?調べてみると、ありえない年齢まで長生きされたと伝えられていました。
ほ〜。
参道を進んでいくと、遮るような場所に『石鬼』という説明板とともに、囲いがあります。
なんだ、なんだ?
埋もれかけた石?
説明板には、このように書かれていました。
数方庭の由来と鬼石
第14代 仲哀天皇は、九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが、仲哀天皇7年旧暦の7月7日に朝鮮半島の新羅国の塵輪(じんりん)が熊襲を煽動し、豊浦宮に攻め寄せた。
皇軍は大いに奮戦したが、宮内を守護する阿部高麿、助麿の兄弟まで相次いで討ち死にしたので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された、賊軍は色を失って退散し、皇軍は歓喜のあまり、矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数方庭(8月7日より13日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったところから、その首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。
え!この石の下に、塵輪の首(頭部)が埋まっているのですか?ヒェ〜。
石鬼を通り過ぎると、三門の屋根の上に多くの鳩が止まっているのが見えました。
鳩が増えやすい環境なのでしょうか?
いつ白っぽいプレゼントを落とされるのかと、ドキドキしながら通ることに。
あら、この三門の戸の金具が素敵!
拝殿の前へ。
謹んで、参拝いたしました。
鬼石の説明と重複する箇所がありますが、近くにあった説明板には、このように書かれています。
長門国二ノ宮 旧国弊社 忌宮神社 由緒
忌宮神社は、第14代 仲哀天皇が九州の熊襲を平定のため御西下この地に皇居 豊浦宮(とよらのみや)を興して7年間政治(まつりごと)を行われた旧址で、天皇が筑紫の香椎(かしい)で崩御せられたのち御神霊を鎮祭す。その後 聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎(ほうさい)して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮(とよあけのみや)と称す三殿別立(さんでんべつりゅう)の古社(延喜式内社)であったが、中世における火災の際、中殿(ちゅうでん)忌宮に合祀して一殿(いちでん)となり、忌宮をもって総称するようになった忌(いみ)とは斎(いみ)と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。
現在の社殿は明治10(1877)年の造営で、昭和56(1981)年に改修す。
古来、文武の神として歴朝の尊祟武将の崇敬篤く、安産の神として庶民の信仰を受け、長門の国二ノ宮として広く親しまれている。
40年以上も前に改修されたのですね。
参拝を済ませた後は、寅さんに見つめられました。
△ 今年の干支『寅』の巨大絵馬
ふと、左側に違和感を感じたので、そちらを見てみると・・・
大きな白い鳩が、餌?を啄(ついば)んでしました。