昨夜『ウラ撮れちゃいました』という番組で、『被災を乗り越える鉄道会社のウラ 1年5ヶ月ぶりの運転再開に密着』という放送を観て、泣いてしまったRieruです★
熊本県の『くま川鉄道』再開のための試験運転中、沿線で手を振る住民の人たちと、ドリカムの『何度でも』という歌がマッチして、涙腺崩壊。
いつか乗りに・・・いや、ちと遠い。ので、どなたかが訪ねられるのを楽しみにしております。(←え?)
イテテ
(そのかわり、鳥取県の『鬼太郎列車』が走る境線の記事を書きますから!)
乗った事が無い列車に乗ると、もっといろんな列車に乗りに行きたくなって、ジワジワとソフト乗り鉄になっていっている女は、先月下関市の神社の中で、いつか訪ねてみたい!と思っていた『大歳神社』に参りました。
とは言っても、『古地図を片手にまちを歩こう 赤間関編』の日に訪ねる予定ではありませんでした。(←なんじゃそりゃ?)
豊前田通りを下関駅方面に歩いている時、右手に長い階段がある神社を発見しまして。
神額を見ると、『大歳神社』とありました。
あっ!こちらが『大歳神社』!
幕末、高杉晋作や久坂玄瑞らや奇兵隊のスポンサーだった、『白石正一郎(しらいししょういちろう)』が奉納した大鳥居がある、『大歳神社』!
文久2(1862)年に、攘夷必勝を祈願して奉納されたそうです。下関戦争の前年!
幕末好きな方からすれば、白石正一郎の事は周知の事実でしょうが、機会があれば、またいずれ。
↑↑↑
赤間神の2代目宮司さんにも
大鳥居の近くにあった説明板には、このように書かれていました。
維新の史跡(大鳥居)
明治維新の原動力となった奇兵隊の果たした役割は周知の通りであるが、創設者高杉晋作を信奉して尊皇討幕の推進に全資金を投入しこれを援助した豪商志士 白石正一郎の功績は計り知れないものがある。
この白石正一郎は敬神の念厚く 文久2(1862)年 氏神大歳神社に大鳥居を奉納して攘夷必勝を祈念した。
参道(石段)の下の鳥居がそれであるが、終始表に出ることなく陰の力に徹した正一郎の足跡を残す数少ない史跡である。
(割愛)
白石正一郎(通称名)越智(源流・・・四国越智家)資興(忌み名)
忌み名である資興(すけおき・しこう)は、毛利家に興丸君(後の毛利元昭・毛利宗家29代当主)が誕生されたことにより資風(すけかぜ・しふう)と改めた。
毎年7月下旬に正一郎を顕彰する資風祭を白石正一郎旧宅地前で執り行っている。
ということで?いろんなところに、白石姓を見る事が出来ます。
ここにも
あそこにも。
さて、疲れはピークでしたが、ここで会ったが何かの縁。
右側から階段を上がろうかと見ると、その右側から下りて来られた男性(男性から見ると左側)が見えたので、左側から上がる事に。
その男性と目が合い、「今日は何日ですか?」
と声を掛けてきたので答えると、お礼を言って去られました。
・・・もしかして、タイムトラベラー?
イテテ
(だったら、まず年号か西暦を尋ねるよね)
ここは過去と未来を行き来できる階段・・・なわけはなく、階段の段数によって、いわゆる人生の節目的なイベント(?)のプレートが付いた階段『一二三(ひふみ)のお祓い坂』のようです。
初宮参りから始まり、傘寿(80歳)まで上がります。

ふうふう。
百寿(100歳)まで、あと少し、もう少し。(←パクリ禁止)
上に着くまで、振り返りませんでした。
なんでも、港が見えるらしくて。というか、単純に怖い・・・高所恐怖症でも無いのに。
恐る恐る振り返ると、こんな景色が広がっていました。
強風が吹いたらちょっと怖いですよね。貧血を起こしたら、拝殿側に座り込みましょう。
港、港は・・・と。
あの辺りかな?小さな島影は、巌流島のようです。
昔はもう少し手前まで海だったらしく、関門海峡がよく見えていたのだとか。
ニの鳥居の前に着きました。
こちらの鳥居は少し古く、天保6(1835)8月の奉納です。
狛犬(阿)さん①:「よう来たね!」
寛政5(1793)年生まれの狛犬さん!
石工さんは有光幾左ェ門さん。
空襲に遭ったのかな?と、ついそんな事を考えてしまいます。
うひょひょ〜
・・・ハイ、そんな感じに見えます。
イテテ
(『本当のお顔』を見てみたかったです・・・)
ずっと、関門海峡を見ておられるのですね。
さぁ、ニの鳥居をくぐりましょう。
手前の階段が、一二三坂のゴール!
115段(旧:123坂 お祓い坂)とありました。
115段だけど、123?境内には、一二三坂について書かれた説明板があり、このように書かれています。
大歳神社の一二三坂
当社は昭和15(1940)年に関門鉄道トンネル工事の折、鉄道路線敷に接収され、現在地に遷座されました。当初階段は一二三段でした。(※1)
この一二三とは『一二三の祓い言葉』(※2)にちなみ厄を祓う意味が込められおり、『お祓いの一二三坂』として親しまれてきました。
不慮の遷座ではありましたが、当社は現在も本州最西端を守護しており、一二三の階段と併せ二重の厄を祓う意味が込められていたと考えられます。
平成10(1998)年に下関市の『港の見える丘の径』事業の一環として階段の整備が行われ現在の115段に至っております。
平成18(2006)年には、下関市夜間景観整備事業第一号として日本を代表する照明デザイナー石井基子氏によりライトアップを施されました。
平成29(2017)年に大歳神社ご鎮座830年祭記念事業として、階段に人生の通過儀礼プレートを施しました。
また、当社の御祭神である木花咲耶姫神は山の神(富士山)であることから、長い階段を登るというより、小山を登頂しお参りに来たと考えて頂ければ幸甚であります。
参拝される皆様のご隆昌とご健勝に繋がりますよう、お祈り申し上げます。
※1・・・元の境内は下関駅西口高架下付近、文治2(1186)年鎮座。遷座とはお引越しの事。(伊勢)神宮の20年に一度行われる式年遷宮が有名です。
※2・・・古事記の天の岩戸において、天鈿女命(あまのうずめのみこと)が舞をしつつ、ひふみの祓詞を唱えたと言われています。47の清音で成り立っています。
ひふみの祓詞・・・
ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ
そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ
なるほど、移転前は123段。
うわ〜、ライトアップしたところが見たい〜。
プレートは最近設置されたのですね。なるほど。
鳥居をくぐって左側には、手水舎がありました。
あっ、この少女!
山口市の古熊神社の手水舎にもいましたね。
・・・まさか茶髪バージョンがあるとは。
アイタタタ
(また他所でも、彼女に巡り会う楽しみが増えました)