山口の神社仏閣★寿源寺 沓屋氏のお墓編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。



先週周防大島へ行ってきたRieruです★

こちらの島には『村上水軍』で有名な村上武吉の墓所がありますが、最近『大島海賊』を知りました。

とある書籍には、瀬戸内の海賊は能島・来島・因島を拠点とする村上海賊と、大島を拠点とする大島海賊があり、そこには桑原・大浜・服部・光井・由井・宇賀島の諸氏がいたと書かれています。
中でも強大な勢力を持っていたのは宇賀島氏で、浮島が拠点になっていたようです。
大島海賊は大内氏の支配下にあり、遣明船の警護等を勤めていたのだとか。
大内氏滅亡は、例の『厳島の戦い』で陶氏方となり、毛利方の村上海賊と戦うことになりました。
結果はご存知の通りですが、大島海賊の沓屋・森友・櫛部・原・長崎・浅海・栗田・塩田・神代の諸氏は、厳島の戦いの直前、毛利元就の誘いに乗って毛利方に寝返り、存続したそうです。
これらの諸氏が寝返らなかったら歴史は変わっていた?かどうかは分かりませんが、わざわざ毛利元就が誘ったということはかなり力を持っていたのではないかと思います。
こうして大島海賊は滅亡し、村上海賊・・・村上水軍の長である村上武吉に屋代島(周防大島)が与えられました。
諸氏の中でも沓屋氏と長崎氏は毛利氏の船手組として重用されていましたが、領地を没収されるほどのことをやらかした長崎氏の妹を妻にしていた沓屋氏も、相役としての責任を問われて知行を半分にされ、別の組子に。
その後いろいろあり(割愛)、沓屋氏は由良と三蒲の二家に分かれて組子として存続したそうです。
そんな沓屋氏の墓所が『寿源寺』にあるということで、訪ねてみることに。


国道437号線沿い(海側)にあるお寺は、『お寺カフェ』として有名です。

現在は完全予約制ですが、『しそシロップ』なるものも販売されていました。


『道の駅 サザンセトとうわ』等や、ネットで購入可です。

さて、墓所ですが、国道を挟んで山側にあるので、車をお寺の駐車場にとめさせていただきました。


墓所に上がってみると、海が見えます。


あれは浮島でしょうか。

沓屋氏のお墓は歴代住待の右側にありました。


以前は向かいの山にある墓地の頂上部にあったそうですが、平成3(1991)年9月の台風で倒れたために移されたようです。


元々『沓屋』という姓は、駿河国の沓屋郷に住んでいたことから付けられたのだとか。


毛利元就の誘いに乗ったのは、沓屋興種で、嫡子である隆貞が厳島の戦いに参加したそうです。
大島海賊と戦ったわけですから、もしかして以前から確執があったのかもしれませんね。
そして隆貞の子 景頼は、武勇にすぐれ、九州や出雲で軍功を立てたのが評価され、毛利御船手組頭になりました。


さらにその子の元綱は、日前村(現在の土居)の方の地に住み、屋敷跡には五輪塔群が残っているそうです。
元綱は元和元(1615)年に大旦那になり、廃寺だった教徳寺を再興しました。
寛永5(1628)年に元綱が亡くなった際に、法名の『本性院心峰寿源』から寿源寺に改称されたのだとか。
せっかくなので、屋敷跡や五輪塔群へも訪ねてみたいのですが、15年以上も前の情報なので、今でもそちらにあるかは分かりません。


てか、屋敷跡が土居の何処にあるかが謎。


アイタタタ


(謎が謎を呼び、結局中途半端で終わる件)