今日は娘Aが『シャトレーゼ』へ着いてきてほしいと言ってきたので付き合ったRieruです★
付き合うだけだから私は手ぶらぶら〜(財布無し子)・・・ハウッ!瀬戸内レモンフェア(らしきもの)やってるじゃないですか!
イテテ
(娘Aにお金を借りてまで購入する勇気はありませんでした)
また機会があったら・・・と後ろ髪引かれる思いをした女は、春に『降松神社』へ参りました。
拝殿へ。
立派ですね。
彫刻は鳳凰。
境内にあった説明板には、このように書かれていました。
妙見本宮 降松神社由緒(旧縣社)
一、御祭神 天之御中主尊
一、御神徳 創造の神、厄除開運の神、星の神
推古天皇3(595)年、都濃郡鷲頭の庄、青柳浦の一松の樹に大星が降り、七日七晩輝いて、「吾は天之御中主尊なり、今より3年ならずして、百済国の王子来朝すべし、其の擁護のために天降りし」という託宣あり。同5(597)年3月2日、大内氏の祖先、百済国の璋明王の第三王子 琳聖太子が来朝し、桂木山に御神霊を祀り北辰妙見社とたたえ、鷲頭の庄の氏神となる。以来青柳浦は降松と改められる。
推古天皇11(603)年 高鹿垣に社殿を遷し、同17(609)年 鷲頭山に、上宮、中宮を建立する。大内弘世公は、鷲頭山の麓赤坂の地に若宮を建立し、大内義弘公は、防・長・石・豊・紀・泉・和の七州の大守となり、応永元(1394)年中宮に五重の塔、並びに仁王門を新たに建立。七州の各地に北辰妙見社が勧請され、鷲頭山は、妙見本宮として広い信仰を集める。
慶長13(1608)年 火災に遭い、中宮本殿のみ焼失を免れ、現今の本殿は、大永3(1523)年 大内義興公の再建による。
大内氏滅亡後、毛利の厚い信仰を受け、元和年中には、赤坂の若宮を今の地に遷し、現今の若宮は、明和4(1767)年 毛利就馴公の再建による。
明治3(1870)年 降松神社と改称され、昭和3(1928)年 県社となる。
境内は俗塵を払い古木鬱蒼とし、参拝者の心を粛然とさせる。(以下割愛)
なるほど、それで大内菱が。
拝殿の天井を少し覗かせていただくと天井板は無く、屋根裏?が丸見え状態になっていました。
こりゃあ、通気性が良いですね!
こちらにも狛犬さんがいらっしゃいました。
こんにちは!
狛犬(阿)さん:「よう来たね!」
相変わらずのイボイボ具合、素敵です。
失礼ですが、お歳を伺っても?
狛犬(阿)さん:「おう、寛政2(1790)年3月に奉納されたから、もう230歳越えじゃ。」
はぁ〜!二の鳥居にいらっしゃった狛犬さんと1ヶ月違いなのですね。
方の前側から、ニュっと腕が出てる加減が似ています。
狛犬(吽)さん:「ニュっか・・・確かに、そんな感じよの。」
違和感がありますが、安定感もありますね。またいつの日かお会いできたら・・・
狛犬(吽)さん:「おう、気を付けての。」
社務所も新しくなっていました。
社務所を正面にして振り返ると、先程の拝殿の後ろ側・・・本殿が見えました。
高い場所にあって階段を上がらないといけませんが、お邪魔させていただきます。
あら、平成28(2016)年4月建立の石鳥居が。
神額には、『降松神社 上宮 中宮』と刻まれています。
この鳥居の先に、上宮と中宮と呼ばれるお社があるようですね。
アイタタタ
(夏場の参拝は控えましょう)