桜の花が満開の頃に、下松市を歩いたRieruです★
そこは徳山藩の前身、『下松藩』にゆかりのある地でした。
初代藩主 毛利就隆公には離縁した正妻と、その後嫁いだ継室がいらっしゃったようですが、側室はお2人いらっしゃったようです。
その内のお1人が永心院さまで、戒名が永心寺殿月窓永心大姉(えいしんじでんげっそうえいしんだいし)であることから、菩提寺を『永心寺』と名付けられました。
その後菩提寺は徳山藩に移った時に『大成寺』へ。
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永心院さまのことを知らない時に参りましたので、書いてません!(←じゃあ、貼るなよ・・・)
ということで、『鶴岡山 松心寺』と寺号も変わりました。
永心院さまの娘の戒名である祥光院殿瑞中以松大姉から『松』を、永心院さまの『心』を合わせたようです。
鐘楼門って、ドキドキしますよね。
裏側はこんな感じ。
鳴らしたら、気持ち良さそう。
本堂に到着。
立派ですね。
反射して見えにくいですが、戸の摺りガラスの仁王さまたちが素敵
かなり貴重なものではないでしょうか?
さて。山門近くには、2基の宝篋印塔があるようですが、確信が持てませんでした。
これかな?
あれかな?
なんでも2基の宝篋印塔は、鷲頭寺が明治12(1879)年に河内村から移転する際に、移転を反対した人々が松心寺の薮に隠してしまったもののようでした。
え?では、隠さなければ、あの鷲頭寺の境内に運ばれていた!のですね。
こちらには、その永心院さまの宝篋印塔と祥院さまの五輪塔があるそうです。
そして、彼女の乳母の長昌院殿(ちょうしょういんでん)の石塔もあるそうなのですが、探しきれませんでした。重ね重ね、すみません!
参らせていただ・・・
・・・ムリやろ!
実は本堂沿いに進めば難無く参れたのですが、頭がまわりませんで・・・
左側からまわり、後ろの石垣沿いにお近くまで参らせていただきました。
本当、すみません。
平成元(1989)年に母娘の墓所を整備した際に、備前焼の水屋桶や鏡等が発見されたそうです。
そしてまさかのお遺骨も。大成寺にはお遺骨は埋葬されなかったのですね。ということは・・・こちらに?
調べてみると、永心院さまは寛永16(1639)年に亡くなられていました。
そしてお2人の娘さんを出産されておられますが、そのうちの1人、古姫さまは葉室頼考に嫁ぎ、もう1人の娘は伊勢姫は小さい頃から病弱で、46歳で未婚のまま亡くなられたとの事です。
アイタタタ
(来年には工事が終わる?その頃に再び訪ねてみたいと思います・・・どんな風になるのか気になりますし)